マリアの讃歌

マリアの讃歌  詩編3429、ルカ13958    2024.12.15

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1439、讃詠:546、交読文:詩編4227、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:Ⅱ121、説教、祈り、讃美歌:114、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

2024年の待降節にあたって、長束教会の礼拝説教では12月1日にまず、主イエスをお迎えするための準備をしたバプテスマのヨハネを、次の12月8日にマリアの妊娠を知って苦悩するヨセフを取り上げました。そして今日、マリアを中心に学ぶことにいたします。

ガリラヤのナザレに住んでいたおとめマリアのもとに天使が遣わされました。受胎告知です。天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げられたマリアは、あまりのことに初めは全く信じられなかったのですが、天使の説得を受けいれて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とみごとな信仰の告白をするに至りました。 そのあとマリアがしたことが今日のお話です。

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」。…マリアが訪ねていった山里のユダの町というのは、エルサレムの西6キロの地点にあるエンカレムという場所だとされています。エルサレムの東側は荒涼とした大地が広がっており、その先に死海という有名な塩の湖があるのですが、西側の方は木々が生い茂り、鳥がさえずっているようなところで、そこにザカリアとエリサベトの夫婦の家があったのです、今でも静かな里です。マリアはナザレの町から急いで来ましたが、そこまで直線距離だけでおよそ100キロはあり、徒歩で4日ほどかかったと考えられています。

マリアはなぜその場所に行こうとしたのでしょうか。…マリアはヨセフと一緒になる前に妊娠しました。そのため、近隣の人から後ろ指をさされないために身を隠したのだと考える人がいるかもしれません。しかしマリアには、そういった逃げの姿勢より、喜びの気持ちの方がはるかにまさっています。そこには1章36節の天使の言葉があったはずです。天使は告げました。「あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。

エリサベトはマリアの親類でした。エリサベトと夫ザカリアの間には子どもがなく、二人とも年を取っていたのですが、神は二人に子どもを授けて下さったというのです。…マリアが天使の言葉を疑っていたわけではありません。固く信じたのですが、それを確かめたかったのです。神様から祝福された人に会いたかったのです。…マリアは結果的にエリサベトのところに三か月ほど滞在しました。高齢出産となるエリサベトを気遣い、ザカリアの面倒を見、身のまわりの世話をしたのでしょう。…聖書にはマリアが自分の家に帰ったと書いたあとにエリサベトの出産の話が来ていますが、おそらくマリアは、エリサベトの出産を見届けたあとで帰ったのでしょう。…ヨセフがマリアの妊娠のことで悩んだのはマリアが帰ってきたあとのことだったと思われます。

 

まだ10代の少女だったマリアが、一人で4日間歩いて旅をするのに不安がなかったとは思えないのですが、ユダの町に着いた時はエリサベトと喜びを分かち合うまでになっていました。女性にとって自分の体に子どもを宿し、そこに新しい命の芽生えを体験するということは、大きな喜びにちがいありません。…出産が近づいてきたエリサベトのところに、六か月遅れでみごもったマリアが訪ねて挨拶したとき、この二人だけでなく、エリサベトの胎内の子供も喜んでおどりました。二人の女性、それに胎児を含めて4人の姿には、神様の祝福を受けた人の幸いがあふれています。

エリサベトは聖霊に満たされ、声高らかにマリアを迎えました。…その中の「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉はとても印象的です。これは「幸いなるかな、信じた者よ」というように訳すことも出来ます。……マリア、あなたは幸せです。なぜか、あなたは信じることが出来たから。信仰を持っているから。…なぜ信仰を持っていたら幸いなのでしょう。それは、神様があなたに約束されたことを必ず実現して下さるから……と言うのです。

二人の女性が会うというのは平凡な出来事かもしれません。しかしそこには神の約束を受け取った人間がおり、それと共に新しいことが始まっているのです。…山里も人々の暮らしも前と変わらないように見えます。しかし、古い世界は新しい世界に変わりつつあるのです。

皆さんはここに現れた情景から、何か思い描くことはありませんか。そうです。これは教会の姿なのです。昔から多くの人たちがマリアとエリサベトの中に理想の教会の姿を見てきました。…私たちは毎日曜日、教会に来て互いに挨拶をかわします。同じ挨拶でも、教会の内と外ではちがいます。…あなたは神様から恵みを受けています、私も恵みを受けてここに来ました。神様の言葉を信じることが出来るあなたは幸せですね、私も幸せです。私たちに語られた神様の言葉は必ず実現します。おめでとう。……広島長束教会がそのような教会でありますように。

 

 エリサベトの言葉を受け取ったとき、マリアの口から思わず賛美の声が出ました。エリサベトに会い、祝福の言葉を聞いたとたん、その口からほとばしり出た、それが「マリアの讃歌」と呼ばれるものです。

マリアは歌い始めました。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」。…マリアの讃歌は、欧米ではマグニフィカートと呼ばれます。これは「わたしの魂は主をあがめ」の中の「あがめる」という言葉が、ラテン語の聖書でマグニフィカートと言い、それが冒頭に出ているためにそう言われるようになったのです。マグニフィカートとは、本来「大きくする」という意味を持っていて、地震の強さを表わすマグニチュードとおおもとが同じです。主なる神をあがめるとは主なる神を大きくすること、そこからこの歌の主題が神を大きくすることであることがわかります。自分を大きくではありません。神を大きくするのです。…ですから、これはマリアが自分をたたえた歌ではありません。マリアによって神がほめたたえられているのです。

マリアは主なる神、救い主である神を賛美します。なぜなら神は、身分の低いこの自分に目を留めて下さったからです。偉大な神はお金持ちや地位の高い人しか相手になさらないと思っていたのに、ナザレの村娘である自分に目を留めて下さった、そう言って驚いているのです。…今の時代でいうなら、広島市の安佐南区から世界を変える女性が出たというようなことです。

「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。これはマリアが得意満面になって、自分の幸せを歌っているのではありません。もしもそんなことだったとしたら、このあと「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とは言わなかったでしょう。マリアは自分の幸せを自慢しているのではありません。自分が選ばれたことは、身分の低い人にとっての勝利であるということです。

マリアの讃歌の中には「憐れみ」という言葉が2回出てきます。一つが50節の「その憐れみは代々に限りなく」です。これは48節の「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」を受けて、自分に与えられた幸せが、神を畏れる人々に、時代を超えて与えられていくことを言っています。…もう一つが54節の「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」、神は憐れみをお忘れにならず、苦しみの中にあるイスラエルの民を救い上げて下さるのです。…神様から見放されても文句の言えない、数も少なく力の弱い民を神様はお忘れにならなかった。そのためにこの自分を選んで下さった、…自分のお腹の中でいま神のみ子が大きくなってゆく、…なんと驚くべきことでしょう、……と神を賛美しているのです。

もしも神がこの世で大きな力を持っている国を愛し、絶大な権力を持っている人を尊ぶならば、小さくて力の弱いユダヤ人など選ばなかったでしょうし、まして私なぞを神の子の母親とはしなかったでしょうと。…誰も思いもしなかったことが起きています。それこそが神の偉大さの現われなのです。マリアに現わされた恵みはエリサベトにも現わされました。そしてこの二人と同じように身分が低く、貧しく、しかし主を畏れるすべての人に注がれるのです。

 神のそのなさりようを、私たちは狭い範囲でとらえてはなりません。51節から53節まで、マリアはこれから始まる神様の救いの歴史を見ています。「主はその腕で力を振るい」、神こそが歴史を支配する方なのです。この方の支配するところ、そこでは「思い上がる者を打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろし」…、それが神様の統治のありようです。人がたくさんの財産を頼りとして天狗になってしまったり、権力に酔ってしまうなら、神様は彼らを引きずり落とされます。神の、世界の支配者としてのこの働きは揺らぐことなく進んでいって、すべてのものをみ前にひざまずかせます。自分の力に酔っている人はとかく自分の支配がいつまでも続くように思うものですが、神様の前でそれはつかの間のことにしかすぎません。…そればかりか神様は、「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす」のです。神様は貧しく、身分の低いマリアに目を留めて下さることによって、この世の中の貧しく、低い層の人々を愛していることを示されたのです。この神の愛は、世界の歴史をも作り変えずにはおきません。  

もっともそんなことを言いますと、もしかしたら違和感を持たれる方がおられるかもしれません。ある教会で、私がマリアの讃歌について話した時、神様は貧しい人を引き上げ、富んだ人をひきずりおとすと言ったら、出席者の中でたいそうびっくりされた方がいまして、「私たちは、マリアの讃歌は革命歌ではないと教わってきました」と言われるのです。…どうも「この牧師はアカではないか、過激な思想を持っているじゃないか」と警戒されたようなのですが、もしもそうした考え方が正しいとするなら、「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」をどのように読めば良いのかということになってしまいます。マリアその人も過激な思想を持っていたのでしょうか。

マリアの讃歌が思い上がる者、権力ある者、富める者に対する裁きの歌であり、この人たちの権威をひっくり返す歌であるのは確かです。そこには社会の矛盾や経済的な格差に対する怒りがあり、これと闘う人の勝利が歌われています。しかし皆さんは、この歌が、私たちがふつうに考える革命歌とは違うことを見逃してはなりません。…1789年のフランス革命以来、世界はいくつもの革命を経験してきましたが、そこでは、社会がひっくりかえって、それまで虐げられてきた人たちが権力を掌握した結果、今度はそこで勝利した人たちがかつて自分たちを虐げた人々を同じように虐げるということがしばしば起こりました。たとえば、やはり革命によって成立したソ連です。スターリンの時代、国から「人民の敵」という宣告を受けると、それはその人にとって死刑宣告に等しいものになってしまいました。しかしマリアはそんなことを賛美しているのではありません。…神様は思い上がる者、権力ある者、富める者に厳しい目を向け、彼らが頼みにしていたものを打ち砕いてしまわれますが、それは、この人たちを突き放すことではありません。…たとえば、かの有名なナポレオンは、すべての地位と権力を失ってセントヘレナ島に流されたあと、全ヨーロッパを征服した自分もキリストにはかなわないという意味のことを言って、キリストへの信仰を告白したということです。かりにナポレオンが敗北しなかったなら、彼はこのような境地には達しなかったでしょう。……思い上がる者、権力ある者、富める者への厳しいまなざしも神の憐れみの表れです。…神はまた、身分の低い者や飢えた人が何をしても良いと言っているのではありません。… こうしてマリアは、神様の驚くべきなさりようをたたえつつ、神の救いの歴史のはじめに帰ってきます。

「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ここにはアブラハムとその子孫と書いてあるので、神様が憐みを忘れないのはユダヤ人に限る、と読み込む人がいそうですが、そうではありません。アブラハムの子孫からイエス・キリストが出ました。そしてイエス・キリストによって世界中の人々が神様から祝福を頂くのです。その中にはもちろん私たちも入っています。

神様は世界を救うためにみ子を地上に送られ、そのために自分が選ばれたことを知ったマリアは、一方で驚きと畏れに満たされつつも、そこには限りない喜びがあったのです。マリアを通していま偉大なことが始まろうとしています。マリアの勝利は神様を畏れる人たちの勝利です。私たちもどうかその喜びの列の中に加えられますように。

私たちも神様がおっしゃったことは必ず実現すると信じ、神様を喜びたたえながらイエス様をお迎えしたいと思います。それがクリスマスなのです。

 

(祈り)

 

教会のかしらなる神様。2000年前の暗く混沌とした世界の中で、神様はマリアとエリサベトという二人の女性の出会いの中に、世界を救うビジョンを見せて下さいました。この時の二人のように、私たち主を信じる者たちがお互いに出会う時、神様の恵みを喜びあうことが出来ますように。たとえふだん苦しみや悩みをかかえていたとしても、神様こそ賛美を受けるにふさわしいただ一人のお方であられ、私たちの悩みも苦しみも喜びに変えて下さる方だからです。 マリアに現れた神様が私たちと共におられ、とうといみこころを実現して下さっています。感謝いたします。このことを覚え、神様に従いつつ、クリスマスに向かってのひとすじの道を歩いてゆきたいと思います。どうか私たちを幼な子イエス様のところまで導いて下さい。この祈りを主イエスのみ名によっておささげします。アーメン。