キリストの弟子になる   詩編672~3、マタイ4:1822     2021.5.9

 

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、福音宣教を始められた主イエスが、ガリラヤ湖のほとりで最初の4人の弟子をお召しになったところを学びます。

イスラエルのガリラヤ地方の中心にガリラヤ湖があります。南北に約20キロ、東西が約12キロ、面積が約166平方キロで琵琶湖のほぼ4分の1です。古くから漁業のさかんなところでした。今でこそ観光客のために整備されていますが、昔のおもかげは残っています。

主イエスの時代、魚を取るにはさお釣りの他に、投げ網、引き網の三つの方法がありました。…投げ網は円の形をしており、直径が3メートルほど、陸地または船の上からさっと水中に投げ込みます。網のまわりには鉛のおもりがついていて、水の中に沈んで魚を取り巻きます。それを引きあげると傘がつぼんだようになって魚が中に入ってくるというしかけです。…引き網は、二艘の船から引くもので、引き網を降ろして二艘の船で引いてゆくと、網は大きなテントのようになって、そこに入った魚を船に引きあげるというものです。

主イエスは湖の岸辺を歩いておられる時、ペトロとアンデレの兄弟が網を打っているのをご覧になりました。船の上から水中に引き網を投げていたのでしょう。この二人に主は声をかけて弟子にします。その後、ヤコブとヨハネの兄弟が、父親と一緒に舟の中で網の手入れをしているのをご覧になって、彼らも弟子にしてしまいますが、これは主がたまたま最初に出会った人間を弟子にしたということではありません。ガリラヤ湖にはこの4人以外の人間もいたはずです。しかし、ここで主イエスがご覧になったと書いてあるのは彼らだけです。それは、主が彼らを、彼らだけをお選びになったということです。

 

皆さんの中で、すでに洗礼を受けキリスト者となっている方は、自分がどうして信仰生活に入ったかを思い出して下さい。信仰に入った動機には、家がクリスチャンホームだったとか、苦しみからのいやしを求めてとか、普遍的真理の探求とか、いろいろあるでしょう。家がクリスチャンホームだったというのは偶然のようですし、苦しみからのいやしを求めてと普遍的真理の探究とかいう人は、自分から主体的に教会に来て、信者になったと思っているかもしれません。それらはいっけん、直接主イエスとは結びついていないように見えるのですが、実はそうではありません。人が信仰に入った決定的な理由というのは、偶然ということではなく、また自分の思いや自分の決心でもありません。そうではなくて、主イエスに呼びかけられるところから始まるのです。

もちろん、最初の4人の弟子たちのように直接、イエス様から声をかけられるということは、ないとは言えませんがまれです。夢で神様のお告げを受けたとか、我を忘れた状態の中でイエス様の声を聞いたなどということが今の時代にあるのかどうかわかりませんが、そういう体験がないからといって自分はだめだと思う必要はありません。神秘的な体験がなくても、み言葉を聞いて祈っていくうちに、イエス様のみこころがどこにあるかということが信仰においてわかってくるのです。ですから、どんな形で信仰の世界に入った人であっても、それは自分の考えで決めたことではない、これは全くイエス様の導きによる以外にない、とわかるのが本当だと思います。

このことは、現在まだ洗礼を受けていない人にも起こるのです。いくらまわりから信仰を持ちなさい、とうるさく言われたとしても、首に縄をつけて信仰者を造ることは出来ません。また、自分でいくら努力して聖書を読み、礼拝に出席し続けたとしても、それだけで信仰者が出来上がるのではありません。しかしイエス様の確かな導きがすべてにまさります。

残念なことですが、中にはイエス様からの呼びかけがあっても、それを聞き逃してしまう人がいます。黙示録の中に、主の言葉として、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙3:20)というのがあります。全世界を治めておられる方が強制的な手段を取ることをなさらず、身を低くして、一人ひとりの心を開こうとされているのですから、誰もがそのお招きに耳を傾ける者でありますように。

 

いったい主イエスからの呼びかけというのは、当事者にとって、予想もしていない状況、自分が考えもしなかった時に起こることが多いのです。ペトロたち4人にとっても、まさかこの自分がということだったでしょう。しかも、仕事をしている最中で、全く思いもかけないことでありました。

この人々は漁師でありました。漁師は、この時代の社会の中では、人々に尊敬される職業だったとは言えません。むしろ人々から軽く見られることの多い職業だったようです。ですから、この時代の一般常識から言って、漁師がイエス様の弟子に選ばれたことは、異様なことに見えたにちがいありません。なぜ、もっと家柄が良く、裕福な家の人たちが選ばれなかったのでしょうか。…何より本人たちが一番びっくりしたことでしょう。

神がなさることは人の思いをはるかに越えています。ペトロたち4人は学問があるわけでもなく、また高い社会的地位があるわけでもない、この時代においてはどこにでもいるような人たちでした。しかしイエス様はこのような人たちを選ばれたのです。

誤解のないように申しておきますが、漁師がこの時代、軽く見られることが多かったといっても、漁師という仕事が誰にも出来る仕事だったということではありません。彼らを軽く見てしまう人たちと比べて能力的に劣っているのではありません。漁師に要求される特質とは何でしょうか。漁師は体力がなければ勤まらないし、忍耐力や不屈の精神、勇気が必要とされます。天気を見定め、網をおろす時間と場所に注意する、魚によって餌を変えたり、嵐に見舞われたら舟と自分の命を守らなければなりません。経験と知識も大切です。主イエスは、漁師が持っているこのたまものこそ、伝道者にとって必要だと考えられたのかもしれません。 

私たちが主イエスに招かれるとき、一人一人に与えられたたまもの、それも神様から与えられたものですが、それを見ておられないはずはありません。

神の召しは、信仰生活に入ることや伝道者になることに現れるのはもちろんですが、そのことばかりではありません。神の召しによって伝道者になる人がいるのと同様、神の召しによって長老や執事や日曜学校教師になるのです。神の召しによって会社員になったり、学校の先生になったり、主婦になったり、公務員になるのです。自分には何のとりえもないと思っている人がいても、それは自分で気がついていないだけで、神はその人から良いものを引き出すことがお出来になります。神は一人一人に、与えられたたまものに応じて、最も相応しい道を用意なさいます。

 

主イエスがペトロたちをお招きになった言葉は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というごく短い言葉でした。考えてみればこれはとても無茶なやり方です。初めて出会った人に向かっていきなり自分について来なさいとは普通は言いません。そんなことを突然言われても、言われた方は戸惑ってしまうだけです。ところがペトロたちはすぐ主に従いました。本当にこんなことがあったのか、と誰しも思うでしょう。しかし、このあまりにも簡潔な記事は、人が主の弟子になるために本当に必要なのはただこれだけなのだということを告げています。それは、他の誰でもない。主イエスが選び、招いて下さったということです。主イエスの選びと召しがありさえするならば、私たちはどんな人間であっても、主に従ってゆくことが出来るのです。

 

主イエスが4人の漁師を弟子にした話は、マルコ福音書にもルカ福音書にもあります。特にルカの方では、漁師たちが夜通し漁をしても何も取れなかったのに、イエス様の言葉を聞き入れて漁をしたら、舟が沈みそうになるほど魚がたくさん取れたという話になっていて、そちらを覚えている方が多いのではないかと思います。一つの同じ出来事が、書き手によって違う書き方になっているのです。マタイ福音書は、魚が取れたか取れなかったかということは一切省いていまして、そのかわりに強調しているのは、4人が主イエスの言葉を聞いて、すぐに従ったということです。

ペトロとアンデレは、湖で網を打っているその最中に、イエス様の呼びかけを聞いて、すぐに商売道具の網を捨てて従いました。ヤコブとヨハネは父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしていましたが、イエス様の呼びかけを聞いて、舟と父親とを残し、当然、網も捨てて、従ったのです。ゼベダイが「お前たち、行くな」と言ったのかどうか、何も書いてありません。

4人は自分の仕事と商売道具を捨てて主イエスに従いました。ヤコブとヨハネはさらに父親を置いていったのです。これはもちろん、なかなか出来ることではありません。人は主イエスから呼びかけがあった時、それまで大切にしていた何かを捨てなければならないことがあるのです。イエス様の前にかけよってきた金持ちの青年が、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい、…それからわたしに従いなさい」という言葉を聞いて、悲しみながら立ち去ったという例もあります(ルカ1822)。主イエスに従おうとする時、後ろから引っ張っている何かに打ち勝たなければなりません。しかし、キリストを知ることの素晴らしさに比べれば、それ以外のものは大した価値はないのです。

もっとも、今日のお話には危険な読み方をする人がいるのではないかと思います。というのはこういうことを言う宗教団体があるかもしれないからです。「信じたからには何もかも捨てなさい。家族も仕事も捨てなさい。そうして一緒に共同生活をして信仰を深めましょう。あの4人の漁師のように」。…こういう団体があったら、カルトではないかと疑ってみる必要があります。

マタイ福音書8章14節には、主イエスがペトロの家に入って、ペトロのしゅとめの病気を治した話があります。ペトロには妻がおり、イエス様の弟子になってからも母親を重んじていたことがわかります。…また、ずっとあとになりますが、第一コリント書9章5節では、パウロが「わたしたちには、他の使徒たちやケファ(ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と言っているところがあり、パウロにも妻があったのかもしれません。

ヤコブとヨハネの兄弟についても、マタイの20章に書いてあることですが、二人の母親がイエス様のところに来て、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(マタイ2021)と頼みこんでいます。

このようにペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは主イエスの弟子になったあとも、家族とのつながりがずっと続いていまし。だから、イエス様に従うことが家庭を顧みなくなったり、家庭が崩壊してもやむをえないということでは決してないのです。

 そうして、今日最後にお話ししたいのは「人間をとる漁師」のことです。…ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネには、イエス様についていけば何かご利益があるのでは、という思いがなかったとは言えません。人間はたいがい、この教えを信じたら良いことがあると期待して、信じるものです。…しかしイエス様はそんなことは約束しておらず、そのかわり、人々を獲得して天の国に連れて行く手伝いをしてもらう、と言っておられます。4人の漁師に立身出世や安楽な生活を約束しているのではありません。むしろその反対ですが、人間をとる漁師の仕事、つまり福音を宣教して多くの人を救いに導くことは、結果的に、そうして獲得した人々と共に、思いにはるかにまさる恵みを分かち合うことになってゆくのです。

 ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは今日まで2000年続いているキリスト教会の土台を作った人たちで、私たちにとてもその真似はできませんが、この人たちに比べて微々たるものであっても、それにつながる仕事をすることができますように。

今の時代、人間をとる漁師の仕事が簡単なことでないことは誰もが知っています。しかしそこであきらめてしまってはなりません。家族や友人のために、祈って、祈って、ついに信仰を持ってもらうことが出来たということが私たちの身近なところにもあります。ある人は、愛する二親が何としても救われることを願って祈り続け、二人がそれぞれ亡くなる前に信仰を持ってもらうことが出来たので大変喜んでいました。

ただの一人の魂でも滅びるのを臨まない主イエスのみこころが、この私たちを通しても現わされる、そのことを真剣に考える時が来ています。

 

(祈り)

天の父なる神様。コロナ禍による閉塞状況が続き、広島も感染が拡大して、教会に行くことにも多大な注意と警戒をしなければならない中、私たちはあなたのもとに集まることができました。私たちは神様のみ前にあって小さな者ですが、あなたが私たちの中に生きていることに希望をいだいています。どうか、あなたの聖なるみことばをもって、私たちを支えて下さい。主イエスが4人の漁師を弟子として召されたことを通し、神様が私たち一人ひとりに望んでいることに気づかせて下さるように。若い人には、主の召しに応えて、自分の人生をはっきり見定める勇気を与えて下さい。人生の旅の半ばにある者に、いま進んでいる道が希望に続くことを見せて下さい。年取った者には、その年齢に相応しい、円熟した知恵を与えて下さい。

神様、私たちの愛する家族や友人に信仰を持ってもらいたいという私たちの願いを顧みて下さい。そのための祈りを怠って、罪を犯すことがありませんように。

 

とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。