隠された宝物

隠された宝物  詩編4969、マタイ134452  2024.11.3

 

(順序)

招詞:詩編1426、讃詠:546、交読文:詩4227、讃美歌:67、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:181、説教、祈り、讃美歌:235、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(讃美歌202)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

今日はイエス様の「天の国」に関するたとえ話から、宝物にまつわる話を中心に学んでゆきます。

皆さんの中には、子どもの時、宝探しが出てくる物語を夢中になって読んだ方がおられるかもしれません。海賊が隠した宝を、わずかの手がかりを基に探してゆくというような話は、いろいろスタイルを変えながらも現在まで引き継がれ、子どもたちの心を躍らせていることでしょう。…子どもがもう少し大きくなると、宝探しの話などこの世にそうたくさんある話ではないことに気がつきます。しかし、いい歳になっても一攫千金の夢を見続けている人がいます。また、青い鳥を探しに行ったチルチルとミチルのように、本当の宝物は遠い所にはなく、ほんの身近なところにあるのだとわかる人もいます。このように、宝物についていろいろな見方、考え方があるのですが、しかし幼い日に心に描くことが出来た大きな夢は、その後、厳しい現実にたびたび裏切られながらも、心に残り続け、人生を支えてくれるに違いありません。主イエスは、そんな隠された宝物が確かにあるのだとおっしゃって下さいます。

 

まず「畑に隠された宝」を見てみましょう。皆さんは、絶海の孤島ならぬ畑の中に宝物を隠す人なんているのだろうかと思われるかもしれませんが、今とは時代が違います。……2000年の昔です、宝物を家で金庫に収めても、また銀行に預けたとしても、いつ何が起こるかわかりません。自分が住んでいる地域が戦場にならないとも限らないのです。戦乱に巻き込まれ、軍隊に蹂躙されそうになると、人々はお金や宝石や貴重品を地下に埋めるということがあったのです。いつの日にかまた戻って、それを取り戻すことを期して、遠くの地に避難していったのです。……けれども、再び戻ってくることが出来なかったりして、それがそのまま忘れられてしまうということがありました。……ある日、農民が土を掘り起こしていて、たまたま隠された宝物を掘り当てました。この人は畑の持ち主ではなく、小作人であったと考えられます。農民は大喜びでしたが、これを誰にも気づかれないように運び出そうとは考えません。そんなことをしたら、盗みの罪を犯すことになります。そこで自分の持ち物をすっかり売り払って、そのお金で畑を買い取ったのです。

二つめの話の主人公は商人で、真珠を売買している人です。真珠といえば、日本にはむかし御木本幸吉という立志伝中の人物がおりまして、世界で初めて人工養殖に成功したために、真珠は昔に比べて大量に出回るようになりました。そのため、真珠のありがたみが少し薄れたかもしれません。しかしイエス様の時代に、真珠はダイヤモンドにも劣らない最高の宝物でした。ユダヤの人が真珠を手に入れようとしたら、遠くペルシャ湾の方から取り寄せなければならなかったそうです。ですからこの商人は、自分の国では見つからない真珠を、はるばる遠い異国まで行って探しに行き、そうしてやっと素晴らしい真珠に巡り合えたのです。その喜びのほどは私たちの想像を超えます。全財産をはたいて買っても、惜しいとは思わなかったのです。

 

二つのたとえ話はたいへんよく似ています。宝を見つけるまでの過程は違っているのですが、持ち物をすっかり売り払って宝を買うという点では両方とも同じです。では、ここで何が教えられているのでしょうか。

主イエスはこの話を始められるとき、「天の国は次のようにたとえられる」と前置きしています。ここで農民と商人が、持ち物をすっかり売り払っても手に入れようとした宝物が象徴しているのは天の国です。天の国は神の国、これを死後の世界だけに限定してしまうことは出来ません。天の国とは神がご支配なさっている国ですから、いま生きている人の中にも天の国に入れられている人がいるのです。

心の底から神様を信じている人にとって求めてやまないこと、それは天の国の一員となることです。救いに入ることです。それこそ信仰者の目標です。主イエスはここで信仰生活を語っているのです。

私たちがこうして教会の礼拝に集まり、信仰生活を送っているのは、一人ひとりそれぞれが探し求めている宝物があるからです。しかし、それを探し当てるのは簡単なことではありません。…宝物と思っても偽物をつかまされることがあります。…すぐそこに宝物があるのに、まったく気がつかないということもあります。…特に畑に隠された宝の話が示しているのは、他の人にはただの畑にしか見えず、ただ通りすぎるだけにすぎなかったものに実はたいへんな価値があったということです。これを信仰という面から考えると、礼拝生活、祈り、聖書の勉強などは退屈そうに見えることがあり、未信者の方はもとより信者であっても大切に思えないことがあります。しかし、その中に、自分の全生涯を捧げても悔いないような宝物が隠されていたとしたらどうでしょうか。どんな犠牲を払ってでも買い取るべきとならないでしょうか。

畑を耕していた農民は自分が宝を掘り当てるなんて夢にも思っていませんでした。だから宝物を見つけたのは、思いもかけないことだったのです。一方、商人の方は、良い真珠を探しに探して、やっと見つけています。本当に人さまざまでありまして、自分でも思ってもいなかった時に神様と出会い、救われる人がいるかと思えば、長い間神様を求め続け、苦しい求道を経たあげく、やっと救いにあずかる人もいます。…人が信仰に目覚めるようになるさまざまなきっかけは神様の方から与えられます。そして信仰することで与えられるものは、それまでその人が期待していたことをはるかに超えたものなのです。なぜ、そうなるのか、それは、神様の知恵が人間の知恵をはるかに超えているからです。

人間が神様にお願いすることはいろいろあります。神社に行くと願いごとを書いた絵馬がたくさん置いてあります。人間がお祈りし、お願いすることはどの宗教でも大して変わらないのかもしれません。私たちだって商売が繁盛しますようにとか、いい人にめぐりあいますようにとか祈ります。そして、そうした願いがかなった時には神様有り難うございますと感謝しますが、願いがかなわないと信仰心は薄れてしまいます。しかし神様は人間の願いに応えてくれるだけの存在ではありません。自分や家族の幸せも大事なことで、けっしてゆるがせには出来ませんが、私たちは神様からいただくそれ以上のことにも目を向けなければいけません。パウロはこう語っています。フィリピ書3章7節、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」。

2つのたとえ話は、金銀財宝へと人を導く話ではありません。

 

それまでの古い生活を捨てて天の国の一員となることを選ぶ人というのは、ふつう一般の人が知らないし知ろうともしない、キリストと共にある素晴らしさに目覚めた人です。その値打ちさえわかれば、どんな困難なこともいといません。それも、命じられたからしぶしぶということではなく喜びのあまりです。あの農民や商人のように。

私たちはまず、隠された宝を手に入れるにはどれほどの代価が必要なのかを確認しておきましょう。このことに関して、詩編49篇8節は「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない」、続けて9節で「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と書いています。まともに代金を払おうとしてもとても払いきれるものではありません。…しかし、たとえ話の農民が支払ったのは土地の代金だけです。真珠も同じで、商人が持ち物をすっかり売り払って買ったとしても、本当の値打ちに比べたらはるかに安かったのです。…天の国の一員となる、これは人間の持っているありったけのものを捧げたとしても出来ることではありません。ただ神様がキリストに免じて、私たちをあわれんで下さり、原価より安い値で提供して下さったのです。…これに対し、農民と商人が持ち物をすっかり売り払ったというのは、自分のすべてをもって神様に服従することです。自分の力によっては、とうてい手に入れることが出来ない宝物ですが、神様が自分の前にそれを示して下さったからには、自分のすべての誠をささげて、神の恵みに応えようとするのです。

 

さて、主イエスは隠された宝物と高価な真珠の次、3番目に湖に投げ降ろした網のたとえを語っておられます。漁師が魚をとるとき、良いものと悪いものとを分ける、売り物になるものとそうでないものとをわけるように、世の終わりのとき、天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者たちをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むということです。…これは前の二つのたとえとはずいぶん違っているように見えます。しかし、これも天の国について語るたとえです。

神様はすべての人が救われて、天の国の一員となるために、恵みの宝物をあらゆる所に置いておられますが、それは隠されています。一つ残らずそれが見つけられて、人々が共有するようになることが神様の願いですが、現実にはそうなっておりません。たとえ話の農民と商人のように、天の国に入るための宝物を持ち物をすっかり売り払って手に入れて、喜びにあふれている人がいる一方で、宝物を見つけることができないままの人たちがいます。教会の礼拝に出席し、日曜ごとに礼拝し、み言葉を聞いている人の中にももしかしたらそういう人がいるかもしれません。まして教会から外に出たら、神様の光が見えなくなってしまっているかのような場所はいくらでもあります。世の中全体を見るなら不条理で悲惨なことには事欠きません。

教会に来ている人ばかりでなく世の中全体が良くならなければ、天の国は完成しませんし、本当の救いはありません。そのためにいろいろな場所で人知れず努力する社会各層の人々の努力は大変とうといものですし、宣教のわざもさらに力強くすすめられなければなりません。……けれども、それがどれほど成果をあげたとしても、それだけでは世の中は変わりません。大変大まかなことを言っていますが、現在の混沌とした状態はまだまだ長く続くでしょう。いつの日のことかわかりませんが、最後に、キリストが再びおいでになり、世界のすべてを神の支配下におさめる時が来ます。それが世の終わりです。その時、天の国を見いだした人たちとそうでない人たちがより分けられることになるのです。世界の歴史も、私たちの人生もそこに向かっているのです。

 

主イエスはここまで語ったあとで、弟子たちに「これらのことがみな分かったか」と尋ねると、弟子たちは「分かりました」と答えました。すると主イエスは言われます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。弟子たちはもともと漁師ですが、イエス様によれば立派な学者です。学者以上の学者と言ったら良いかもしれません。彼らが倉から新しいものと古いものを取り出す、つまり新しいものであれ古いものであれ、宝物を取り出して来ることが出来るのです。だから、それを取り出して、分配していかなければなりません。

私たちが自分で聖書を読んだり、教会でみ言葉を聞いたとしても、何もわからない、何も感じない、まして何も知ろうとしないなら、宝物は隠れたままです。そこで、宝物を探すため手助けするのがまず主イエスの弟子の弟子である牧師の役目ですし、これに長老の方々が加わっておられます。

たとえ話では農民も商人もやっと手に入れた宝物をほかの人にあげようとはしないと思います。しかし、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人は、それを独り占めしないで、出来るかぎり多くの人に分配しようとするのです。それが伝道です。自分だけ救われればほかの人がどうなろうとかまわない?そんなことはないわけです。宮沢賢治の言葉に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」というのがありますが、主イエスはそれと似たことを言っているように思います。終わりの日に正しい人と悪い人はより分けられますが、悪い人が少ないに越したことはありません。私たちも隠された宝を探り当て、自分の人生をかけてそれを手に入れるだけでなく、その宝物を他の人々と分かち合うことが期待されているのです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。

今年も残すところあと2か月となりました。時の経つのが早いのに比べ、私たちの信仰の成長があまりに遅く、自分でも情けなくなりますが、そんな私たちを神様は見捨てず、大切なみ言葉を語って下さいました。

主イエスは弟子たちに、浅はかな人間には考えも及ばない、神様の知恵を示して下さいます。隠された宝物や高価な真珠の話を通して、神様は世界を奥底から支えている霊的な世界を見せて下さっただけでなく、湖に投げ降ろした網のたとえによって、この世界の究極の姿を示して下さいました。

 

神様、終わりの日へと向かっていく世界の中に、私たちの人生が正しく位置づけられますように。隠された宝を見いだし、これを他の人たちと分かち合うことが出来ますように。そうして、イエス様のお支えのもと、決して無駄に終わってしまうことのない、神様と人に祝福される人生を歩むことが出来ますようにとお願いいたします。たとえ不安だらけの社会にあっても、主イエスが歴史の中で最後の勝利をおさめられることを信じ、弱った心と体を強くして、残りの人生の日々を希望をもって歩む者として下さい。主のみ名によって祈り願います。アーメン。