麦と毒麦のたとえ 創世記18:23~33、マタイ13:24~30、36~43 2024.10.6
(順序)
招詞:詩編141:9、讃詠:546、交読文:詩42:2~7、讃美歌:67、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:169、説教、祈り、讃美歌:234a、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)(讃美歌Ⅱ-179)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣
今日、与えられた麦と毒麦のたとえは前回学んだ「種を蒔く人のたとえ」に関係する話です。「種を蒔く人のたとえ」の方はマルコとルカの福音書にも載っていますが、麦と毒麦のたとえはマタイ福音書だけに載っています。これはマタイ福音書の編集方針によるもので、13章には天の国に関するたとえ話が7つ入っています。種を蒔く人のたとえ、麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえ、畑に隠された宝、高価な真珠、網にかかった魚のたとえ、その内「毒麦のたとえ」を含む4つの話はマタイ福音書だけにある話です。マタイは、天の国についてどうしても書かなければならないということで、そのために材料を出来る限り集めてきたのだと考えられています。
マタイ福音書が成立したのは紀元80年代であったと考えられています。主イエスが天に帰られてから約50年、激動の時代が続いていました。…それまでいくたびとなくキリスト教徒への迫害がありました。それは一つにはイエス様をキリストと認めないユダヤ人から、もう一つはローマ帝国の方からですが、そうこうしているうちに紀元66年からユダヤ戦争が始まります。ローマ帝国の軍隊は紀元70年、エルサレムを陥落させ、神殿は崩壊、ユダヤ人は世界各地に散っていきます。キリスト教徒はなんとか逃げ延びたようです。
そうした中、教会は維持され、信者数は増えていきました。しかし、それで喜んでばかりはいられないことが起きました。言ってみれば、こんなはずではなかったという体験です。難しい時代の中でも伝道はなんとかうまく行き、教会員が増えていった、けれどもその中に異物が混じってくる、間違った信仰が忍びこんで教会が混乱するということがあったのです。マタイ福音書の著者は、当時の教会が直面する問題を解決するにもっともふさわしい主イエスの言葉を選んで、ここに置いたのではないかと推定されるのです。
このたとえ話に描かれた情景は、当時の人々には、なじみ深いものでありました。毒麦というのは西アジアかヨーロッパ原産で、日本には明治時代に入ってきたということです。今ではしばしば道端で見られるそうなので、私たちもどこかで目にしたことがあるかもしれません。
聖書植物図鑑という本は、「ドクムギが混入したえさを食べると家畜は中毒を起こすが、この毒はドクムギ自身の毒ではなく、ドクムギにつく糸状菌の毒であるとも言われている」と書いていましたが、これ以上のことは専門家にお任せします。毒麦は今日、農家とって大きな問題なのかそうでないのか私にはわかりませんが、昔の農民にとっては頭の痛い問題だったのです。…毒麦は「ほそむぎ」とも呼ばれていて、これが育つ間は本物の麦と全く見分けがつかず、穂が出て初めて、麦の穂よりひげが長く色も黒いので、判別できるのだそうです。しかし、その頃になると、麦と毒麦の根がからみ合っているので、毒麦を抜き取ろうとすると、本物の麦の根まで抜いてしまいます。だから農民も、この段階で麦と毒麦をより分けようとはしません。そこで刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておき、脱穀のあとに毒麦をより分けたということです。
主イエスはこのお話に出て来る畑や種を蒔く人、毒麦、刈り入れなどそれぞれが意味を持つことを明らかになさいました。
主イエスはこの話を、13章24節で、「天の国は次のようにたとえられる」と言って、始められました。そして38節で、畑は世界だと言われます。つまり天の国について話すときに世界が出てくるのです。…天の国を天国と訳した聖書もありますが、そうなると、そこは人が死んだあとに行くところだと思ってしまう人が出て来るでしょう。しかし、イエス様が世界だと言われた以上、それは死後の世界ではありません。…この世界は天と直結しています。だから、天からこの世界に良い種が蒔かれます。良い種は御国の子ら、それは教会を通して広がってゆくのです。
刈り入れが世の終わりであることも重要です。私たちは、世の終わりと言ってもすぐにはピンと来ませんが、しかし、すべてのことに初めがある以上、必ず終わりがあるのです。…ここで畑が世界と違うところは、畑はわずか一年で実って刈り入れをするのに対して、世界は収穫までどれだけの時間を要するのか明らかにされていないということです。収穫までの時間が異なるにすぎません。
畑はこの世界、良い種を蒔くのは人の子、すなわちイエス様です。しかし、悪魔がそーっとやって来て、毒麦の種を蒔きます。悪い者の子らが育って行きます。…ほんものの麦と毒麦が見分けがつかないように、善人と悪人の見分けもなかなかつきません。…毒麦が広がっていくようなことが教会の中でも起こります。間違った教えを広げようとする人が出現して、そこに引きずりこまれる人が出て来るのです。
こういうことは今日の教会にとっても、依然として大きな問題です。どんな教会でも、初めから毒麦の茂った教会を作ろうとは思いませんが、結果的にそうなってしまったということがあるのです。
初代教会では、教会制度がしっかり整っていたかどうかはっきりしません。何の資格もない人が礼拝説教をすることがあったかもしれませんが、その人が間違った教えを語ったとしたらどうでしょう。たとえばパウロが教えていることには気をつけろだとか、イエス様は父なる神と比べて一段劣る存在だとか、…、それに惑わされる人が出て来るのです。…いま日本キリスト教会では、牧師や伝道師になるためには試験を受けなければなりませんし、長老が礼拝説教をする時にも小会の承認が必要です。講壇で間違った教えが語られることがないようにしています。かりにも私がここで異端の説を語ることがないよう、長老の方には説教をチェックする責任があるのです。
しかし、そういうことに気をつけていたとしても、問題が起こることがあります。私が広島に来る前、教会に突然、統一教会らしき新聞が届き、その後しばらくしたら礼拝に二人の見知らぬ青年が出席しました。彼らが再び来ることはなかったのですが。おそらく、こんな小さな教会、乗っ取ってしまっても仕方がないと思われたのでしょう。
報道によると、日本では教会が乗っ取られるケースがあるということです。教会に新来会者が訪れます。その人は教会のためにいろいろ奉仕に励み、みんなの信頼を集め、やがて教会の役員となります。そして自分の仲間を増やして、教会の主導権を握ります。ついには異端の説をはびこらせ、教会をそれまでとは全く違ったところに持っていこうとするのです。
ただ、そうしたことがなくても、教会が内側から腐っていくこともあるでしょう。牧師の言動がもとで教会員がつまずいたり、教会員同士「なんだ、この人は。これでもクリスチャンなのか」と思ってしまうこともあるかもしれません。教会の裏の面を見てしまいますと、信じていたものがガラガラと崩れ落ちてしまうことがあるのです。…なぜ、教会の中に毒麦が生えてしまうのか、根本の理由、それは悪魔が働いているからだと主イエスは言われるのです。
教会という人間の集まりの中に悪魔が働いて混乱が起きます。それは決して珍しいことではありません。神様がついておられるのだから絶対に大丈夫とは言えないのです。…なぜなら、神様が働いておられる所では必ず、そうはさせまいとして悪魔が必死に抵抗するからです。…主イエスの弟子の間にさえ裏切り者がいたのですから、多くの教会の中に、悪魔に心をとらわれてしまった人がいたとしても不思議はありません。私たちの誰もが、そういう人たちの中に入ってしまいませんように。
では、教会の中に毒麦が生えているのがわかった時、どうすれば良いでしょうか。パウロはコリント教会に、父親の妻をわがものとしているというとんでもない会員がいることを聞いて、こう書きました。「わたしは…そんなことをした者を既に裁いてしまっています。…わたしたちの主イエスの名により、…このよう者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」。サタンに引き渡すとは強烈な言い方ですが、これはパウロによると教会から除外するということです。その理由をパウロはこう書きます、「それは主の日に彼の霊が救われるからです。」(Ⅰコリント5:1~6)
少し難しいのですが、これは、毒麦にたとえられる人に教会から出て行ってもらうということです。…日本キリスト教会の規則には戒規という項目があって、軽い処分から順に、教戒-いましめること、譴責―厳重注意、停職-役職の停止、免職、培餐停止、権利の停止、除名となっていて、いちばん罪が重いのが除名、教会から追放ということになっています。
ただ、こうした処分が行き過ぎてしまうことには注意しなければなりません。
左右を問わず、いくつかの政治団体では、そこのメンバーが実は敵と結びついていたなどとわかると大変なことになります。昨日までの同志が不倶戴天の敵になってしまうのです。組織の中で裏切り者と見なされた人がリンチにあったり、いのちを奪われることがあります。
教会がそれと同じであってはなりません。もっともその点で、キリスト教の歴史の中には多くの失敗があります。毒麦退治が行きつくところまで行ってしまったのです。
中世のヨーロッパでは異端審問と魔女狩りが猛威をふるいました。
16世紀にはプロテスタント教会とカトリック教会の間で宗教戦争が戦われました。どちらも自分たちは絶対正しいとし、毒麦を一掃しようとしたのです。
19世紀、アメリカでモルモン教が誕生したとき、彼らは残酷な迫害を受けました。私たちはモルモン教の教義をぜったいに認めることが出来ませんが、それとこれとは違う話です。正統派を自認する人たちは、あの人たちは毒麦だ、悪魔と一体だからと言って殲滅しようとします。自分が正しければ、敵に対して何をしても許されるのでしょうか。…実はこのとき、毒麦に相当する人はもちろん、本物の麦に当たる人も悪魔のわなに引っかかってしまったのです。その陰で笑っているのは悪魔です。
畑に毒麦が現われたとき、主人は「敵の仕業だ」と言いました。しかし、「行って抜き集めておきましょうか」という僕たちに対し、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と命じるのです。私たちは、こんな毒麦がいては教会の発展は望めない、まず邪魔者を取り除かなければ、と考えるものです。だから、そういう人に対し、教会からの追放ということもあるのです。しかし、急ぎすぎてはなりません。主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。これはいいかげんな気持ちから出ているのではありません。
主なる神が悪徳の都ソドムを滅ぼそうとした時、アブラハムは「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と問い、これに対し主は「もしソドムの街に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と言われました。五十人が四十五人になり、ついに十人までなるのですが、神様はそれほど忍耐しておられます。私たちも神様の忍耐に倣うべきです。
教会はどんなに問題が山積していても、毒麦がはびこっていたとしても、それが神の畑であることに変わりはありません。毒麦にあたる教えには厳しく対処し、また咎められるべき人に忠告したり、それでもきかなかければ除名ということもありえますが、それ以上のことをして悪魔を喜ばすようなことはすべきではありません。最終的に毒麦を取り除くのは、神様の仕事です。私たちはどうやって自分のまわりの毒麦を抜こうとするかより、まず自分を省みて、自分が名実ともに本物の麦であるよう、祈り、力を尽くすべきです。
なおここで主イエスが述べておられることは、ただ単に教会内のことだけにとどまらず、たいへん大きな広がりを持っています。自分とは違う考えを持っている人とどうやって平和に生きるかということにも関係しています。これは21世紀のキイワードとも言われる共生=共に生きる、ということを考えるときに大きな手がかりを与えてくれるでしょう。
「罪と罰」という小説の中に、主人公が見た悪夢のことが出ています。それは全世界が伝染病に襲われるというものです。その病気にとりつかれた人は皆、自分が賢く、不動の真理を把握したものと考えるようになります。自分だけが正しい、誰も彼もがそう考えた結果、互いに殺し合いを始めて、大混乱が起こるというのです。…まるでいまの世界情勢を予見しているかのようで私は驚いたのですが、こういう時代だからこそ、麦と毒麦のたとえはもう一度見直されなければなりません。小さな教会の中から国際政治まで、主イエスが示された忍耐と寛容を学んでいく必要があるのです。
刈り入れは世の終わり、世の終わりはいつか必ず訪れます。その時、生きている者もすでに死んだ者もみな神様の前に立ち、麦と毒麦がより分けられるように、裁かれることになります。神の裁きの対象になるのは一人一人の全生涯です。私たちはみな麦として育っていかなければなりません。毒麦に対しては賢くふるまい、自分自身が毒麦にならないよう気をつけなければなりません。…すべてのことは、世の終わりに明らかになるのです。
(祈り)
恵み深い父なる神様。私たちがみな、神様が土を掘り起こし、種をまいて下さった世界の中で礼拝を捧げ、恵みを賛美するこの時が与えられていることを心から感謝申し上げます。
イエス様のたとえ話にあった通り、教会の中に毒麦が入りこんできているかもしれません。もしかしたら、自分自身が毒麦なのかもしれない、そんな恐ろしいことだってありえます。しかし神様は忍耐をもって、そのままでは滅ぶしかない人間をも生かして下さいます。
神様、私たちがこの世に生きている間、悪魔に自分の心を占領されないために、イエス・キリストの愛を満たして下さい。私たちの心が帰るべきなのは、いつもキリストが私たちのためにとうとい命をさしだして下さったところにあることを心に刻ませて下さい。私たち一人一人の人生が神様のものとなるように、自分が自分がではなく、神様が主となることを祈り求めてゆきたいと思います。そして、イエス様が示された忍耐と寛容の精神を教会を通して世界中にひろげて下さい。悲惨な戦争を一刻も早く止めて下さい。 この祈りを主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン。