種蒔きのたとえ話 詩編65:10~14、マタイ13:1~23 2024.9.8
(順序)
招詞:詩編141:2、讃詠:546、交読文:詩42:2~7、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:422、信仰告白:使徒信条、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣
イエス・キリストは地上におられたとき、たくさんのたとえ話をお話しになりました。それらはごく身近な出来事を題材に作られたお話で、今日のお話もその一つです。農民が種をまくという、どこの国にもあることが取り上げられているのは、私たちにとってたいへん心強いことです。というのは、イエス様がお話しなさることが、もしも現実とはまったくかけ離れた、雲をつかむようなことばかりだったとしたら、私たちはどうして良いかわからなくなってしまうからです。
主イエスは大工の家に生まれ、30歳になって伝道を始めるまでは一介の労働者でしたから、庶民の生活をよくご存じでした。主イエスのたとえ話には、たくさんの働く人々が出て来て、それを聞いた人たちは、自分のこととして受けとめることが出来ました。主イエスの言葉に「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)というのがあります。神様は労働をとうとぶお方なのです。
しかしながら、たとえ話に庶民の生活が出ているからといって、お話自体がわかりやすいとは言えません。今日の種蒔きのたとえ話にもたいへんに理解しがたいところがあるのですが、まずはその内容を確かめてみることにいたしましょう。
そこで、このたとえ話に入りますが、一度でも種まきの経験のある方なら、これを読んで、こんなやり方はむちゃくちゃだと思ってしまうのではないでしょうか。
普通、種まきというのは、土をよく耕してから種を埋め、水をかけます。しかし、ここに書いてあるのはそれとは全く違い、農民は土を耕す前に種をパッパパッパとまいてゆくのです。すると、人がよく通って踏み固められた土の上に落ちる種があります。それが、道端に蒔かれた種です。…その次の石だらけで土の少ない所とは、石がたくさんある土地というより、パレスチナによくある、石灰岩の上に土が10センチほどかぶさった土地だそうです。…茨の間に落ちる種がありますが、これは種を蒔いているときにはわかりません。土の中に茨の根が残っている土地です。…最後の良い土地とは、土が深くて、混じりものがなく、やわらかい土地です。
いくら大昔の農民でも、種を蒔いたまま土地をほったらかしにはしません。種をこの方法で蒔いたあとで耕すのです。ですから、種が落ちていった道端も、石灰岩の層がある土地も、茨の根が残っている所も、はたまた良い土地も、みな同じように鋤で起こして、土をかけます。農民にとって、そこが良い土地かどうか見分けるのはかなり難しいのだと思います。蒔いた種がどうなるかを見て、初めてそこが良い土地かどうかが明らかになるのです。
こういう農業のやり方が理に適ったものなのか、また、今でもこの方法が用いられているのかどうか、私は専門家ではないのでわかりませんが、ご存じの方がありましたら、あとで教えていただきたいと思います。
「種を蒔く人」のお話で、主イエスはもちろん種まきのやり方を伝授しているわけではありません。19節で主はこのお話を説明して、「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ……」等と言われておりますから、農民のまいた種が御国の言葉、すなわち御言葉であることがわかります。そこから種をまく人とは主イエスご自身であることも明らかになります。むろん、あまたの伝道者もそこに入るのですが。
主イエスは伝道のご生涯を通して、御言葉の種をまき続けられました。では、その結果はどうだったでしょう。皆さんは、イエス様の伝道はいつも大成功だったと思いますか。イエス様のことですから、いつもたくさんの人たちが集まって、みことばに耳を傾けていたと思いますか。
聖書には、主イエスが自ら伝道しても、その言葉を聞かない町があったことが書いてあります(マタイ11:20~24、13:53~58と並行記事)。いくらイエス様であっても、伝道がいつもうまくいっていたわけではありません。……
つまり御言葉の種をまくという事業は、そもそもの初めからたいへん難しい仕事なのです。主イエスが手ずからまいた種といえども、そのすべてが実を結ぶのではありません。こういう状況は今日まで変わらないのです。主イエスはご自分のなすことがどれほど多くむだになるか知っています。しかし、それでも種をまきに出かけます。結果がどうなるか予想して、仕事をしたりしなかったりはいたしません。主イエスが、この世という畑に出かけてゆくとき、困難に出会うでしょうし、ついには自分自身の十字架の死が待っています。しかし、それにもかかわらず、主はひたむきに種をまく仕事を続けていかれたのです。
それでは、主イエスが御言葉の種をまかれた畑について、お話しましょう。
「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」、これについて主は「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」と言われました。これは主イエスの説教を聞いても理解しようとしない人です。それは頭が悪いからではありません。頭の良し悪しとは関係なく、初めからみことばを受け入れようとしない人です。だから御言葉を悟らないうちに、悪い者、すなわちサタン(マルコ4:15)が来て、主イエスから受けた御言葉を奪い取ってゆくのです。こんな人は、まったくお話になりません。
「石だらけで土の少ない所に蒔かれたもの」と言うのは、御言葉を受け入れはしますが、実を結ばない、いっときだけの信者です。こういう人は、御言葉を聞いたとき、すぐに喜んで受け入れますが、しっかりしたものを持っていないので、艱難や迫害が起こると、そこまで行かなくても何か困難なことが起こるとすぐにつまづいてしまいます。
かぼちゃは一夏で屋根の上までつたをはわせて広がってゆきますが、秋になると根が浅いためにすぐに枯れてしまいます。しかし松の木は、下に深く根をはっていますから、冬の寒さにもよく耐えます。人は大きく空に伸びてゆこうとするなら、地面に深く根をはっていなければなりません。根というのは、目には見えないけれども大切な場所で、そこがイエス・キリストにしっかりつながっていなければ、いざというとき崩れてしまうしかありません。
次の「茨の中に蒔かれたもの」とは、世の思い煩いとか富の誘惑といったことに心が引っぱられてしまう人たちです。世の中には、信仰のさまたげになるものには事欠きません。お金、名声、地位、異性……、しかし、主は言われました。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(6:31、33)。私たちは、本来神様がお選びになった畑である私たちの心に、茨がはびこってしまっていないか、省みる必要があるのです。
このようにせっかく御言葉の種がまかれても、その働きを無にしてしまうことがこの世に満ちています。だから伝道とは本当に失敗の連続で、その困難さを主イエスご自身体験されました。だから伝道者たるもので、自分のやっていることは無駄ではないのか、いったい何のためにこんなことをやっているのかという思いを経験していない人はいないと思います。
さて、この「種を蒔く人」の話では、どうにもわからないところがあるのです。それは10節から17節までのところです。主イエスは、弟子たちから「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問された時、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と答えられます。その理由は、この人たちは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」からだというのです。
この日、主イエスは舟に乗っていて、群衆は岸辺に立ってお話を聞いていたのですが、「種を蒔く人」のたとえだけでは、何もわからなかったはずです。
わからない話をして、その説明もされない、群衆はそのままほっぽり出されたことになります。その理由について私は一生懸命調べてみましたが、納得のいく説明が見つかりません。ただし、その中で正解にいちばん近いかと思われるものがありました。…「私たちはまず、御言葉については、それを聞くことのみか、それを理解することも、いっさい主の主権のもとにあり、人間の主権のもとにはない、という厳粛な事実を知らなければなりません」(渡辺信夫)。主イエスが伝道なさって、その中には失敗に終わって骨折り損のくたびれもうけになってしまったのも多かったのですが、それにもかかわらず、伝道の働きの主導権はイエス様が握っていて、人々ではなかったのです。神はご自分が選んだ人をみもとに召して天の国の秘密を告げられますが、その恵みにあずかれない人もいるということです。…イエス様の御言葉の種蒔きの内の多くが失敗したことをもって、キリスト教に反対する人たちは、嘲笑したり、まずお話を聞く側のニーズにこたえなければならないだろうと言うかもしれません。しかし、あくまでも伝道の主導権はイエス様が握っておられるのです。あまりすっきりしないのですが、このように言うしかありません。
これに対し、弟子たちは主イエスにたとえ話の説明を求め、これを受け取ることが出来ました。主イエスは16節で「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言われます。弟子たちは天の国の奥義を悟ることが許されました。…このことは、聖書を通してたとえ話の説きあかしをいま聞いている私たちも、同じく天の国の奥義を悟ることが許されているということにほかなりません。
主イエスが蒔かれた御言葉の種は、道端に落ちたり、石だらけで土の少ない所に落ちたり、茨に覆われてそれ以上伸びなくなってしまいました。しかし、それがすべてではありません。主イエスはもう一つの現実を見ています。……「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。
主イエスの呼びかけに応えて神様の前に悔い改め、神の国の到来を信じ、神の愛の中で生きることを始めた人々がいるのです。この人たちの数は少ないです。実際、キリスト教国と呼ばれている国も含めて、いまだかつて本物のクリスチャンが多数派を占めた社会などありません。しかし、量よりも質が重要です。御言葉を聞いて悟る人が一人でもいるところ、そこに私たちの思いもよらない豊かな実りが約束されているのです。
考えてみますと、農民がまく一つ一つの種は、とても小さくて弱いものです。それはたやすく風に吹きとばされ、踏みにじられ、注意しないと鳥に食べられ、また茨に覆われてしまいます。しかし、どんな大木でも初めは一粒の種でしかありません。種は新しい命を内に秘めており、そこから豊かな実が育ってゆきます。伝道はむだの多い、困難な仕事だとは言え、主イエスはこの仕事を弟子たちに託し、すべての民をわたしの弟子にしなさいと命じられました(28:19)。あらゆる教会が主のこの言葉に従っています。だから教会は、世界のどこの国にもあって、集う人がたくさんいても、あるいは全然いなくても、変わらずにみことばを語り続けているのです。
教会で語り継がれる聖書の言葉と説教の言葉は、この世の中では、とても小さく頼りない声に聞こえるかもしれません。しかし、この中にこそ主イエスから一人一人の心の中に蒔かれた大切なメッセージが込められているのです。これを踏みつぶすのも、悪魔が食べるにまかすのも、個人の自由ですが、そこに永遠のいのちがかかっています。御言葉の種を大切に育てようという人には、神は与えられた賜物をさらに増やして下さいますが、ぞんざいに扱う人はすでに持っているものまで取り上げられてしまうでしょう。
主イエスは今も、種まきの仕事を続けておられます。私たちはしっかりと御言葉を聞いているでしょうか。そして悟る人になったでしょうか。…御言葉を聞いて悟る人は、今度はこれを他の人に伝えていくことが出来るのです。どうか私たちみんなが、心にまかれた小さな種を育み、大地の中にしっかり根をはると共に天に向かって大きく伸びてゆきますように。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神様。
私たちは毎週日曜日、こうして礼拝に参加し、恵みにあずかっておりますが、今日は特にこの礼拝が主イエス・キリストのとうとい御働きによって与えられていることを覚え、感謝いたします。
主イエスのまかれたみことばの種の多くが悪魔に食べられたり、枯れてしまったりしましたが、それでも主のお働きが無に帰すことはありませんでした。良い土地に落ちた種が実を結び、こうして遠い日本まで伝わってきたことを覚え、神様のみわざを賛美いたします。
信仰のうすい私たちでありますが、どうかみことばを聞いて悟る者として下さい。困難に遭遇するとつまずき、神様を疑い、また世の思い煩いや富の誘惑のために神様が二の次になってしまうというのは私たち自身であり、また私たちの愛する人たちもそうです。神様、どうか今、こうした誘惑の中でたたかっているすべての者たちの上に、神様から力が与えられますようにお願いいたします。今ここで生きて働いている神様こそ、私たちの人生のすべてでありますように。
主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。
(説教前の祈り)
主イエス・キリストの父なる御神様。9月になっても残暑が続き、教会に集まり、御言葉を聞こうとするより、冷房のきいた部屋でゆっくり休みたいという思いも心にわいてくるのですが、それでも私たちがこうして礼拝のために集まり、御言葉を聞こうとする思いが与えられたことを感謝いたします。
神様、いま世界を見ると大きな戦争があり、日本の国も困難な状況の中にあります。この世の中を見ても、自分をとりかこむ現状を見ても、複雑怪奇な現状に比べて自分の力はあまりにも小さく、ただ流されるだけしかないように思うことがあります。しかし、世の中を動かす大きな力の背後に、さらに大きな神様の導きがあることを確信させて下さい。現状がどれほど厳しくとも、どうか私たちにまことの希望を見せて下さい。私たちに与えられた信仰によって、厚く覆われた黒雲の向こうに太陽が輝いていることを見せて下さいますように。
神様、今日も聖書の言葉を通して、神様の正義と愛を私たちに教えて下さい。
この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。