イエスの兄弟、姉妹、母 詩編123:1c~3、マタイ12:43~45 2024.9.1
(順序)
招詞:詩編141:1cd、讃詠:546、交読文:詩42:2~7、讃美歌:9、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:132、説教、祈り、讃美歌:433、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)(讃美歌207)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣
イエス・キリストが群衆を前に話しておられる時、母親と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていました。その場所はガリラヤ湖畔のカファルナウムだと考えられますが、母親や兄弟たちの多くはイエス様のふるさとナザレから来たものと思われます。なぜ身内の人たちがそろってイエス様と話すために出て来たのか、マタイ福音書にその理由は書いてないのですが、マルコ福音書の3章にそれをうかがわせる言葉があります。
マルコ福音書3章20節、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」。…なぜ、そのように言われたのかといいますと、そのあとの22節に書いてあることと関係がありそうです。こう書いてあるのです。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」
私たちは、主イエスが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いがかりをつけられ、これに対してみごとな反論をしたことを礼拝で学びました。かりにイエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出しているのなら、サタンがサタンを追い出すことになってしまいます。いくらサタンでも、自分で自分の首をしめあげるようなことをするはずはないのです。
マタイ福音書ではそのあと「木とその実」について、また人々がしるしを欲しがることについて書いていますが、いずれも悪霊と関係のない話ではありません。そうして43節に至って汚れた霊が登場します。再び悪霊が登場するのです。
汚れた霊が人から出て行ったあと、休む場所を探すけれど見つからない、そこで自分が出て来た家に戻ってくる、それも自分より悪いほかの七つの霊も一緒に、という話です。これはたいへん謎めいたお話で正直なところ、私もよくわからないのですが、皆さんが混乱してしまわないよう、理解出来たところだけ紹介しておきましょう。
「汚れた霊は、人から出て行くと」と書いてありますが、悪霊が自発的に出て行くとは考えにくいので、これは追い出されたということでしょう。イエス様に追い出されたのです。そのため悪霊はあちこちさまよいますが、落ち着く場所がありません。そこで、もともと住んでいた人のところに戻ってしまおうとするのです。
これに関連するのが第一コリント書6章19節の言葉です。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。…聖霊が宿ってくださる神殿というのは、口語訳聖書では「聖霊の宮」という言葉になっていました。一人ひとりの人間に聖霊が宿り、聖霊の宮となっていることが大事です。しかし現実には悪霊が宿っていて、悪霊の宮となっていることがあります。イエス様はそうした人たちから悪霊を追い出されました。ただし、悪霊が追い出されたからといって安心は出来ません。そこにイエス様を受け入れなければ、聖霊の住まうところにしなければ、再び悪霊が戻ってきて、以前よりもっと悪い結果になることがある、ということです。
カルト宗教など何かとんでもない教えにとらわれてしまった人が、正しい教えを聞いて洗脳が解け、正しい信仰に立ち返ったとしましょう。しかし、それが中途半端で、心の底からイエス様を受け入れているのでなければ、つまり聖霊が宿っていなければ、やがて自分の中から追い出したはずの悪いものが、前よりひどい形で戻ってくるということがないとは言えません。このようなことが言われているのではないでしょうか。
昔、北海道の北見教会の牧師を長く務めた小池創造先生という方が日本キリスト教会の大会でこう発言しました。…昔の日本人は神ではないものを神と信じて拝み、大戦争を起こしてしまった。これは悪霊のしわざである。戦争に負けたあと日本は平和国家、民主国家になったけれど改革は不徹底だった。そのため一度は追い出された悪霊が再び戻ってきた。それがいま日本で起きつつあることであると。…この発言は会場で驚きをもって受け取られました。これが当たっているかどうかについては、皆さんそれぞれのご判断にお任せします。
では、主イエスの母親と兄弟たちが来たことに話を戻します。イエス様の母親がマリアで、マリアの夫がヨセフであるということは皆さんご存じですが、イエス様と血のつながった家族についてはあまり知られていません。
ナザレの町に住んでいたおとめマリアは天使から受胎告知を受けた時、あまりのことに初めは信じられなかったのですが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とみごとな告白をして、主なる神に従う決心を言い表しました。ヨセフとマリアがベツレヘムにいる時にイエス様がお生まれになりました。その後3人はエジプトに逃れますが、そこからガリラヤに戻って、ナザレの町に住んでいました。
イエス様はおよそ30歳になってから、伝道を始められました。ふるさとのナザレで教えられたとき、そこにいた人たちが驚いて言った言葉がマタイ福音書の13章54節と55節に出ています。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。ここに主イエスの弟たちの名前と、おそらく結婚してナザレの町に住んでいた妹たちのことが書いてあります。ここにヨセフの名前はないので、この時点ですでに亡くなっていたと思われます。
この兄弟姉妹をどう考えたらよいでしょうか。カトリック教会は、これは近い親戚を指す言葉だとか、ヨセフがマリアの前に結婚していた別の奥さんとの間にもうけた子供であるとか教えているようです。カトリック教会では、マリアはイエス様を産んだ時はもちろん、一生を通しておとめであったと教えているので、イエス様以外に子供がいたら都合が悪いのです。しかし、これはこじつけというもので、兄弟姉妹とはやはり、イエス様がお生まれになったあと、ヨセフとマリアから生まれたと考えるのが自然でしょう。ヨセフが亡くなったあと一家を支える責任は長男のイエス様にかかってきます。イエス様は30歳になるまで、働いて母親を助け、弟や妹たちの面倒を見ていたものと考えられます。
主イエスが伝道しているところにマリアと兄弟たちが来た、一家総出に近いかたちでやってくるというのは尋常なことではありません。先に申し上げたように、マリアと兄弟たちは、イエス様が気が変になっているとか、悪霊に取りつかれているといった話を聞いて、取り押さえに来たのです。その気持ちは、皆さんもわからないことではないと思います。…それまでずっと一緒に住み、同じ釜の飯を食べ、同じ大工仕事をしていた息子であり兄貴である人が、突然伝道を始めて、評判になりますが、悪い噂も伝わってきたので、家族としては仰天してしまったのです。
ただ、そこには私たちが首をかしげたくなるようなこともあります。私たちはイエス様の家族というと何か特別な人たちのように思っているかもしれませんが、そこに出て来るのはごく普通の人たちです。マリアはイエス様誕生の時、あれほどみごとに神様に従い、この子どもが普通の人間と違うことはわかっていたはずなのに、ここでのふるまいは普通の母親と何も変わりません。マリアはわが子が大事なあまり、弟たちも兄のことを思って、イエス様のしている常識はずれの行動をやめさせようとしたのです。イエス様が自分たち家族から離れて、遠いところに行こうとするのを阻止しようとしたようにも見えます。
このことに関連して思い出すのはパウロの言葉です。パウロは第二コリント書の5章16節で、「わたしたちは、今後だれも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」と書いています。肉という言葉が難しいのですが。私たちはかつてキリストをその姿の素晴らしさとか、世間の評判といった人間的な思いによって知っていたかもしれない。しかし今はそのような知り方はすまいと。肉でなければ何によって知るのか、それは霊によってです。神の霊によってキリストを知るのです。
これをマリアたちに当てはめてみますと、イエス様と血のつながった家族であることが、かえってその目を曇らせ、イエス様に対する判断を誤らせてしまったということです。マリアたちはイエス様がなさろうとしていたことをやめさせようとしました。いちばん近いはずの肉親が、その人の前途をさえぎるというのは今でもよくあることです。私もそのことで苦い経験をしています。学校や職業の選択、結婚の問題、その他さまざまな問題をめぐって子供と親が対立することがあります。信仰生活において、自分は教会に行こうとするけれど、未信者の家族が猛反発する、自分の信仰を貫こうとすると家族の間で浮き上がってしまい、肉親の情にほだされてしまうと自分の信仰を貫けなくなるというようなことは、皆さん方の中にも経験された方がおられると思います。イエス様も同じだったのです。
「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」とイエス様に告げる人がいました。するとイエス様は「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われました。ずいぶん冷たい言い方をなさるものだと思われた方がおられるでしょう。私たちがこんなこと言えるはずはありません。これはイエス様だから出来た発言です。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。ここで、わたしの天の父の御心を行う人とはどういう人のことを言っているのでしょうか。私たちがまず思いつくのは、善いことを一生懸命にやる人です。社会のさまざまな分野で、人のためになる善い活動があって、それを実践することが言われているのだろう、と思うのです。…ただし、自分では善いことを一生懸命行っているつもりでも、そう思っているのは自分だけで、実際には人に迷惑をかけ、神様のみこころとは全く違っていたということもあるかもしれません。
まず父なる神の御心を知っていなくてはいけないわけですが、これは人間が勝手に推測できるものではありません。父なる神を現したのはイエス・キリストなのです。ですから私たちは、イエス様を通して現わされた天の父の御心を受けとめて、それを行うというステップを踏まなくてはなりません。では、イエス様によって現わされた天の父の御心とは何か、たくさんのことがあるとは思いますが中心点は一つです。ヨハネ福音書6章38節以下にその端的な解答が示されています。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
天の父の御心の中には、世界の平和から私たち一人ひとりの幸せな人生までたくさんあるでしょうが、その中心にあるのは、神様が選んでイエス様に与えられた人々が一人残らず救われ、永遠の命を与えられることでありまして、その尊い御心に応えて歩んでいる人は誰でもイエス様の兄弟、姉妹、また母である、イエス様の家族なのです。
主イエスを中心とする新しい家族の中に、初め、マリアもイエス様の弟たちも入ってはいませんでした。イエス様のことを理解できていなかったのです。しかし、イエス様が十字架につけられたあと、心を合わせて熱心に祈るグループの中に、マリアもイエス様の弟たちも入っていました。彼らは、他の大勢の信者たちと共に、ペンテコステの日に聖霊を受けることになります。その後、イエス様の弟の一人、ヤコブは初代教会の中で有力な指導者になりました。こうしてみると、マリアもイエス様の弟たちも、自分の息子であり兄であったイエス様を救い主と信じ、天の父の御心を信じて行うことによって、他の大勢の人々と共に主イエスの本当の家族になったことがわかるのです。
天の父の御心を行う人はどこの時代、どこの国に住んでいてもひとつの家族です。この大きな家族の中に広島長束教会に集まる私たちがいますが、それだけで満足することは出来ません。この家族の中に、まだキリストを知らないさらに多くの人も入ってこれますよう、そのための知恵と力が私たちに与えられますようにと願います。
(祈り)
恵み深い神様。私たちの愛する家族に、日ごろ親しい交わりをしている人に、また私たちと良い関係を持てない人や全く知らない人々の中にも、みことばの種を蒔いて下さい。親しい間柄の人であっても信仰のことをわかってもらうのは難しいのです。どうか私たち自身の不信仰がその人にとってのつまづきになりませんように。もしも、あなたはなんで信仰しているのかといったことを聞かれたら、いつでも適切な答えが出来るようふだんから準備を整えさせて下さい。
神様、私たちの体を聖霊の宮、聖霊が宿ってくださる神殿とし、間違っても悪霊が再び戻ってくることのないようにと願います。広島長束教会にかかわるすべての人の健康を守って下さい。神様の御心を求め、それを行うことで、イエス様を中心とする大家族のメンバーであることを続けさせて下さい。
神様、いまこの国で台風と闘っている人々を強め、災害に強い強靱な国土とそこに生きる人々を育てて下さい。主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。