天からのまことのしるし ヨナ2:1~11、マタイ12:38~42 2024.8.4
(順序)
招詞:詩編140:7、讃詠:546、交読文:詩42:2~7、讃美歌:5、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:285、日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣
イエス・キリストのそばにしるしを求める人たちがいました。何人かの律法学者とファリサイ派の人々で、「先生、しるしを見せてください」と言うのです。
皆さんはしるしを欲しがるということがおわかりでしょうか。しるしという言葉自体、はっきりしないので国語辞典で調べてみたら、なかなか複雑な意味がありました。抽象的なものを表わすための具体的な形、ある事実を証明するもの、気持ちを形に現わしたものなど多岐にわたっていて、一筋縄ではいかないのですが、ただその中に「神仏の現す霊験、ご利益」というのもあって、これが今日のお話と関係があるようです。
聖書ではしるしについて、他の箇所にも書いています。…主イエスが最初に行われた奇跡は、カナの婚礼に出席され、水をぶどう酒に変えたことですが、これについてヨハネ福音書2章11節は、「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と書いています。聖書では主イエスや使徒たちが行う奇跡をしるしと呼んでいて、奇跡としるしが似たような意味で用いられています。その出来事を通して神の力が現れています。しるしを見て、イエス様を信じた人がたくさんいました。
しかし今日の箇所では、しるしを欲しがることが良くないこととされています。「先生、しるしを見せてください」という人たちに対し、主イエスが「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが」と言って、しりぞけられているからです。カナの婚礼の時など、主イエスご自身がしるしを行われたにもかかわらず、ここではしるしをお見せにならない、そこにはどういう理由があるのでしょう。皆さんはどう思われますか。
しるしについて、話をややこしくしているところが聖書の中にありました。旧約聖書の士師記の6章に、イスラエルの英雄であるさばきづかさギデオンの召命の記事が出てきます。…神様が天使を遣わして、ギデオンをイスラエルの民の指導者として立てようとした時のことです。ギデオンは士師記6章17節で、「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください」と言うのです。神様はこれに応えてしるしを見せて下さいました。…このように、神様は人からの求めに応じて、しるしを見せて下さったことがあるのですが、いつもいつもということではありません。すべてみこころ次第なのです。
主イエスに「しるしを見せてください」と頼んだ人たちは決して、人間の手で造った偶像に向かって手を合わせるような人ではありません。ユダヤ教の指導的立場にいた人たちです。彼らはそれまで、主イエスの説教を聞き、主イエスが行う奇跡を見たり聞いたりしてきたはずです。その中にはイエス様に敵意を持ち、どのようにしてイエスを殺そうかと相談している人たちがいて、イエス様をとっちめて、窮地に追いやるために質問をしたのでしょう。「しるしを見せてください」と頼んだ時、イエス様がしるしを見せることが出来なかったとしたら、こいつは偽物だと叫ぶことが出来るからです。
もっとも、律法学者とファリサイ派の中には、イエスを信じていいものか、と迷っている人もいたかもしれません。そういう人たちはイエス様が何かとてつもない奇跡を演じたら、ハハーッとなってイエス様をメシアであると信じてしまったことでしょう。その人たちが期待していたのは、たとえば天に異変を生じさせることです。かりにイエス様が人々の求めに応じて、「これから太陽の光を消してみせる」と宣言して皆既日食を起こしたとしたらどうでしょう。みんな度肝を抜かれて、イエス様を拝むようになるでしょう。…高い塔から飛び降りることでも良いのです。これは以前、サタンによってそそのかされたことでありました。イエス様がたとえば神殿の屋根から飛び降りて、無傷で地面に軟着陸したら、それこそ拍手喝采、これを見た人がイエス様を信じるようになるのは容易に想像できます。
現代でもそうしたしるしを求める人は引きも切らず、2011年に亡くなったインドのサイババという人を覚えている人はいますか。世界的に有名な、傑出した宗教指導者だったそうですが、この人が手をくるっと回すとそこからいろんなものが出て来るのです。そこにどんなからくりがあるのかわかりませんが、私がテレビで見た時、この人の手から腕時計が出て来ました。日本製でした。この人はこういうしるしを見せることで信仰を集めていたのです。
神様が、ご自分が神である証拠をしるしとして見せて下さり、それを見た人が信じるということはあります。しかし、しるしを見たら信じるという態度を皆さんはどう思われますか。先ほどのギデオンのような例はあるのですが、これを一般化することは出来ません。
ただ、「そんなことを言われても、証拠も何もない神様をどうして信じることが出来るのですか」という反論が帰ってくるでしょう。いっけん科学的で合理的な考え方のようですが、そこには私たちが見落としてしまいがちなことがあります。というのは、そうした考え方は必然的に、人間をして自分に都合の良い神様だけを信じるようにさせてしまうからなのです。
神様に対ししるしを求める、この時、人間が自分に災いをもたらすようなことを求めることはまずありません。…たとえば旧約聖書に出て来るアシュトレトの神、口語訳聖書ではアシタロテとなっていましたが、これは動植物にいのちを与える豊穣、多産、愛、快楽の女神とされていました。多くの人たちが作物の収穫がたくさんありますようにとか、子孫がたくさん与えられるようにとか祈ったわけで、それがかなえられることでこの偽りの神への信仰を増していったのです。つまりこの神は、人間の求めに応じて差し出すご利益というしるしによって、信仰されていたのです。それは人間がコントロールできる神でした。「しるしを求める信仰」とはこのようなことです。ギデオンの場合はまじめな動機がありましたが、律法学者とファリサイ派がイエス様に対し、しるしを求めたのは、イエス様に対し結局、自分の願いをかなえてくれるように求め、かなえて下さったら信じましょうということだったのです。
こんな場合を考えてみて下さい。人間の恋人同士、また夫婦において、女性が「あなたは私を愛しているなら、そのしるしとしてこれをちょうだい」と要求したとします。それをかなえることが出来ないと、「じゃあ、あなたは私を愛していないのね」となるでしょう。男性から女性に要求することもあります。こんなことがエスカレートしていったとしたらどうでしょう。相手に次々と要求を出して、それをかなえてくれるかどうかで愛を確かめる、これは愛ではないのです。人間が「神様、これを見せて下さい」と要求を押しつけるのもこれと同じ、「しるしを求める信仰」なのです。
それでは主イエスの「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」という言葉はどんなことを意味しているのでしょう。ヨナはご存じの通り、神様の前から逃げ出し、嵐の海に投げ込まれて大魚にのみこまれました。その後、ニネベの都に行き、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と告げたところ、ニネベの人々はみな悔い改めたので、神はこの都を滅ぼすのをやめられました。
イエス様がヨナについて言われた部分には二つの疑問点があります。その一つ、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたことはヨナ書にもその通り書かれていますが、イエス様が三日三晩、大地の中にいるというのは何でしょう。十字架から復活までだとしますと、イエス様は金曜日の午後3時頃に亡くなられ、日曜日の明け方に復活されたわけですから、その間38時間ほど、どう考えても三日三晩にはなりません。厳密に考えると、マタイが福音書を書く時にミスをした可能性があるのですが、大らかに判断してイエス様の死から復活までということにしましょう。
もう一つ、イエス様がヨナに関して言いたかったことは、ヨナが大魚の腹の中にいたことなのか、それともニネベの人たちが悔い改めたことなのか、あるいはその両方なのかということがあります。
そこでヨナについて調べてみると、実はヨナ書以外にもヨナは登場しているのです。列王記下14章23節以下をかいつまんで述べると、南北朝時代、北のイスラエルにヤロブアムという王がいて、主なる神の目に悪とされることを行っていました。14章25節、「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。」
ヨナは実在した人物です。そして、ヨナが神の言葉を伝えたニネベの都というのは、私のイザヤ書の礼拝説教にもたびたび登場する超大国アッシリアの都でありました。ヨナは敵国であるアッシリアの都に行くことがいやで神様のもとを逃げ出し、逃げ切れずに海に放り込まれ、大魚に呑まれて三日三晩その腹の中にいたのですが、この点について改革派の榊原康夫先生がこう書いていました。「生き身の人間が魚にのまれ、腹の中で生き続けることは、全然ないことではありません。いつかも、クジラの腹から生きた男が助け出されたことがありますが、その人は発狂しており、また皮膚が脱色されて白くなっていたと言われます。ヨナが見ず知らずの外国人の町で大きな説得力を発揮できたのも、おそらくは全身変色して、このことが異様なセンセーションのまとになったからでしょう。」一つの可能性としてこのことを心に留めておいて下さい。
ヨナは、ほとんど死ぬばかりのところから生還した人物でありました。これがイエス・キリストにおいて繰り返されています。イエス様の場合、ヨナとは違って本当に死なれ、復活され、そのことがイエス様が本当に神様から遣わされたのか疑っている人々に対し、しるしとなったのです。
ヨナについてもう一つ重要なのは、彼がニネベの人々に向かって、神の言葉を伝えたことです。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」、それは人々が求めている素晴らしい奇跡でもなければ耳に心地よい言葉でもありません。恐ろしい言葉だったのですが、それが人々を悔い改めと救いへと導いたのです。
イエス様の「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」というのは、人々が求める天変地異も素晴らしい奇跡もないけれども、新しいしるしが与えられる、それはイエス様が死んで復活されること、そしてこの出来事を通して人々を悔い改めと救いに導く、新たな宣教の言葉が告げられるということでありました。
では南の国の女王とは何でしょうか。これは列王記上10章と歴代誌下9章 に書いてあるシェバの女王のことです。口語訳聖書ではシバの女王となっています。シェバはアラビア半島の南端、いまのイエメンにあたり、当時としては地の果てでありました。ここから女王がはるばるイスラエルを訪れ、知恵あることで名高いソロモン王にあらゆる難問をぶつけますが、ソロモン王はこれにすべて解答を与えてしまいます。そして、それだけでなく素晴らしい国造りを見せたことで、女王は感激し、すっかり心腹して、自分の国に帰っていったのです。
主イエスはなぜ、この女王のことを言及されたのかということですが、この人とニネベの人々を並べてみましょう。両者ともイスラエルの民に属する人々ではなく、はるか遠いところで生きていた異邦人です。しかし、ヨナやソロモンを通して、まことの神を信じるようになったのです。
律法学者やファリサイ派の人々はみなユダヤ人です、選民です。聖書の勉強については専門家です。ニネベの都やシェバのような、遠いはるかな土地に住んでいたのではありません。それなのに、心の目はくもったままなのです。主イエスは「ここに、ヨナにまさるものがある」。「ここに、ソロモンにまさるものがある」と宣言されました。それは誰のことか、イエス様に決まっています。
律法学者とファリサイ派の人々は、ヨナやソロモンにまさるイエス様のなさることを見、語ることを聞きながら、れを疑って「しるしを見せてください」と言う。どうしてここまで不信仰なのか、ということです。もうすぐヨナのしるしである、主イエスの十字架と復活という出来事が起こるが、この時あなたたちはどうするつもりなのか?…終わりの時が来たら、神の言葉を聞いて信じたニネベの人々と南の女王は、そろって今の時代の正しい信仰を持っている人たちと共に立ち上がり、しるしを求めるあなたがたを罪に定めるだろう、ということなのです。
今日は難しい話になりました。しるしに関連して、現代でも神が存在するなら証拠を出してほしい、という人がいます。神の存在証明について、教会はその問い自体が無意味であると考えます。神のご支配の中に世界があり、私たちがいます。かりに、神が人間がその存在を証明できるような方だったら、それは人間の頭で考え出すことが出来る神、人間より下に位置する神ということになってしまうでしょう。そんなことはありえません。
それでも一歩下がって、こういう説明があります。今ここにある机も椅子も自然に出来たものではありません。誰かが作ったものです。では、どんなコンピューターよりも精巧に作られている人体は自然に出来たのか、それとも造り主がいるから出来たのかと問われると、誰もが造り主の存在を認めざるをえません。信仰の初心者に話す時はそれで良いのです。ただし、そこから話をイエス・キリストにもっていくのは簡単ではありません。
私たちにも与えられた天からのまことのしるしとはイエス・キリストが死んで復活されたことと、そのことを語る聖書の言葉です。これだけで十分、人の目を驚かす奇跡など不要です。自分の願望から出発したどんなしるしも必要ないのです。
(祈り)
恵み深い天の父なる神様。疑い迷う不信仰な私たちを、それでも辛抱強く導き続け、みもとに召して下さった神様に栄光がありますように。
私たちは周囲の人々から、「神様がおられるなら証拠を見せてほしい」と言われることがありますし、自分自身、神様がわからなくなってしまうことがあります。しかし、神様がおられるかどうか問うこと自体、何もわかっていないことに気がつきました。神様のことを言葉をどんなに尽くしても表すことは出来ず、自分が神様のことをどう考えるかに関わりなく、神様はおられるのだということから出発することが出来ますように。
神様は私たちに人の目を驚かすしるしを見せて下さらないでしょう。しかし、この世界にイエス・キリストが与えられたことを超えるしるしはありません。私たちを死んで復活されたイエス様にもっともっと深く結びつけて下さい。
とうとき主の御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。