心からあふれ出る言葉 イザヤ55:6~11、マタイ12:33~37 2024.7.21
(順序)
招詞:詩編140:2、讃詠:545a、交読文:詩42:2~7、讃美歌:19、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:73、説教、祈り、讃美歌:333、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣
マタイ福音書の礼拝説教は前回、「悪霊を追い出す力」というお話でした。イエス・キリストが悪霊退治をなさったことを聞いたファリサイ派の人々が「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったのです。「イエスは悪霊の頭と仲が良いから、悪霊を追い出すことが出来たのだ」というとんでもない言いがかりなのです。これに対し主イエスは、サタンがサタンを追い出せばそれは内輪もめで、そんなことがあるはずがないと言って彼らを論破され、さらに「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない」と言われました。
霊すなわち聖霊を冒瀆する罪はいつの世でも絶対に赦されることはないということで、何を教えておられるのか難解な箇所ではあるのですが、ごく簡単にまとめてみると、神のみわざであることを悪霊のしわざにしてしまうことは絶対に赦されないということです。その大罪を犯したのがファリサイ派の人々ということになり、これに続くのが今日与えられた言葉です。
そこに書いてあること、「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる」、これは皆さん、だいたい理解できることと思います。木が良ければ、良い木ということで、いちじくやぶどうなどおいしい実をつける植物を想像してみて下さい。木が悪ければ、悪い木とはたとえば茨がその代表格で、とげがあって人を傷つけます。人間の都合によって良い木があったり、悪い木があったりしますが、そうしたことは難しく考える必要はありません。ぶどうの木が食べると毒になる実を産みだすことはありませんし、茨から果物が採れることはありません。そんなことは当然不可能です。木はその結ぶ実によって、良い木か悪い木かを見分けることが出来ます。
では、主イエスはそのことで何を言っておられるのでしょう。イエス様は植物の見分け方を講義しているわけではありません。植物にたとえておっしゃりたかったことが、人の口から出る言葉です。34節、「蝮の子らよ」、ここで想定されているのはファリサイ派の人々だと考えられます。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」。…彼らはイエス様に対し、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」という言葉で、イエス様をこともあろうに悪魔と同類にしてしまいました。それは彼らが悪い木であって、そのために悪い実を結んでしまったからなのです。
良い木であれ悪い木であれそれが結ぶ実というのは、人間にあてはめるとその口から出る言葉です。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。それが良い言葉であれ悪い言葉であれ、心の中にあるものが出て来ます。その理由について36節は述べています。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」と。良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶように、善い人の口は心からあふれ出る良いことを語り、悪い人の口は心からあふれ出る悪いことを語ることになるのです。
でも主イエスがここで言っておられることを聞いて、ああそんなことか、当たり前じゃないかと思っている人がおられるかもしれません。しかし、その当たり前のことが当たり前ではないということを、これからお話しします。
イエス様の言葉を聞いた私たちとしては、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」のですから、自分も良い言葉を口に出そうと心がけようとするのですが、そうはなっていないことがたびたび起こるものです。
言葉というものは、もちろん教会の中ばかりでなく、私たちが生活しているあらゆる場で、他の何ものにも変えられない大きな役割を果たしています。私たちが言葉を発するとき自分自身が差し出されています。互いに語りあう言葉によって、人格と人格がふれあいます。人格と人格がぶつかりあいます。
最近、動物や植物もお互い同士コミュニケーションをとっているのだという研究が出て来て、たとえば「外敵が来たぞ」というのを鳥の言葉ではどう発音するかということを発表した科学者もいるのですが、これを言葉と言うことが出来るのかどうか、動物や植物が自分たちはどう生きるべきかなどと考えたり、創造主である神様を礼拝することはなく、そうしたことが人間を他の生物たちと分かつものでありましょう。
言葉は人を生かします。多くの人の中に、自分が苦しかった時、このひとことをかけてもらったおかげで立ち直ることが出来たというような経験があるのではないでしょうか。言葉は人を慰めたり、励ましたり、生きる希望を与えたりします。そういう言葉を私たちは語りたいし、受け取りたいと思います。…しかしまた、人を傷つける言葉もあります。あのひとことによって深く傷ついたということがあるでしょうし、逆にあの時カーッとなってあんなことを言わなければよかったとあとで悔やむこともあります。さらに、はっきり言うべき時に何も言えなかったということもありますね。
言葉で失敗しなかった人はいないでしょう。人はたいがい言葉で失敗することから学習して、どんな時にどんな言葉を使うべきかを身につけていくものです。それは簡単なことではないのでありまして、さんざん失敗して、苦しみながらその場にふさわしい言葉を身につけていくことがよくありますが、その反対に、まわりとの間に波風を立たせまいと、言いたいことも言わないでいるうちに、今度は言うべき時に何も言えなくなってしまうこともありますから、なかなか厄介です。…よくあるのは、自分より上の立場に立つ人の前ではていねいな言葉遣いをするけれども、自分より下の立場にいる人のことは見下し、時にはパワハラをするという例、これは言葉遣いを中途半端に学んだ人です。
世の中には、自分の心にはない美しい言葉を駆使して、人から信頼を得るに至った人がいます。しかし、そうやって世の中を上手に渡ってきた人がひょんな調子に本音をもらして大きな問題になることがあります。そのことは一部の政治家の失言騒ぎを見るだけでも明らかです。
自分の口から出る言葉を完全にコントロール出来る人は誰もいません。このことを聖書はヤコブの手紙3章で述べています。ヤコブの手紙3章2節、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」、次いで5節の後半、「御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません」。
天地創造の時、神は人間に対し、あらゆる生物を管理するよう委託されました。これは動植物を人間が自分の欲望のために殺し尽くして良いということではなく、この地球上で、人間があらゆる生物たちと協同して素晴らしい世界を築いていくようにという命令です。そのことが実際にどこまで果たされているかということは大きな問題ですけれども、人間たちは世界をリードしてきました。…しかし、それにもかかわらず、舌は自分の主人の言うことを聞きません。それどころか、主人がそんなこと口に出すなと言っていることまで好き放題にしゃべろうとするのです。
ヤコブの手紙はさらに続けて、述べています。「舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」。
神が人間に舌を与えられた理由は、むろんその言葉によって罰するためではありません。「主を賛美するために民は創造された」という言葉があります。詩篇102篇19節、「主を賛美するために民は創造された」、そのために礼拝があるのです。
もしも人が言葉によって父なる神を賛美するなら、それと同時に言葉によって他の人を呪うことは出来ないはずです。呪うとは、藁人形と五寸釘のこともありますが、多くはその人の人格を無視した発言です。それは正当な批判とは違います。ところが、それがまかり通っているのが現状です。人の口からは、心にあふれていることが出て来るからです。…もしも、ある人の口から賛美と呪いが出て来るとしたら、いったいどちらが本当の気持ちでしょうか。賛美ではなく呪いの方だと思います。本当に神様を賛美しているなら、呪いの言葉が出て来るはずはありません。さらに神の名を使って特定の人を呪うということがあるのなら、例えば「地獄に落ちろ」と言うような、それは正しい信仰からの著しい逸脱です。人はそうすることで、神が人間に言葉を与えられたそのみこころに背いているのです。自分がどんなに嫌いな人であっても、それが人である以上、神にかたどって造られた人なのですから、その人を呪うことは神を呪うことになるのです。
私たちは教会や家やいろいろなところで、父である主を賛美しますし、隣人をほめることがあります。しかし、どうかすると、そういうことよりも他の人のわるくちを聞いたり、言ったりすることの方が好きなのです。それは私たちがもともと悪い木なので、悪い実を結ぶのはごく当然のことなのです。
「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出す」、この言葉を私たちは畏れをもって受け取らなければなりません。教会に集まるどんな人も、神の言葉と人間の思いの間で多かれ少なかれ分裂状態になっています。信仰を語っている時でも自分の思いを押えきれず、建て前はこうだけど実際には無理だと割り切っていることがないとは言えません。特にみ言葉を語る者は、まず自分自身が神の言葉によって、造り変えられなければなりません。
同時に、み言葉を聞く側であやまちを犯すことがあります。テモテへの手紙二の4章3節と4節に次の言葉があります。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」。
私はかつて人から「思ったことをすぐに口に出すのではなく、よく考えてからしゃべれ」と注意されたことがありました。他の人の前で話す時に、こんなことを言っていいかどうかと自分の言葉をしっかり省みなければならないのですが、それ以上に、自分が神様の前で生きていることを自覚しなければなりません。主イエスは「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と言っておられるのですから。
キリスト教において、言葉というものはさらに独特な重要な意味を持っており、そのことをぜひ皆さんに知って頂きたいと思います。それはイエス・キリストが「言」と言われていることです。言語の言、一字だけでことばと読みます。ヨハネ福音書1章1節には「初めに言があった」、14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。「言」というのは苦心の訳で、そこには深くて汲みつくせない意味があるのですが、今日は取り上げません。イエス・キリストが「言」と呼ばれていることが重要です。
一方、父なる神はイザヤ書55章の中で「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と述べておられます。この偉大なみ言葉がイエス・キリストになって、世界の前に現われたのです。
二枚舌を使う、心にもないことを言う、自分の信じてもいないことを語る、さらに他人の失敗を喜ぶ、人のわるくちを言う、ばかにする、罵倒する、呪う、そんな思いが偉大な神とキリストのみ前に消え去って行きますように。私たちの語るべき言葉はすべて聖書に書いてあります。キリストにあって造り変えられた心が、それにふさわしい言葉を口から出して行くことを望みます。
(祈り)
天の父なる神様。私たちが神の子とされ、この礼拝に集められている恵みを感謝します。私たちは神様から、教会において、またこの世の中において、それぞれ自分にしか出来ない役割が与えられていることを心に刻んでいます。ところが私たちは神様が自分にかけて下さったみこころをないがしろにして言葉を発し、行動していることが多いのです。気をつけていないと、サタンの手の平の上に乗っているということが起こります。これまで、自分の言葉でもって隣人の心をいたく傷つけてしまったことがどれほどあったでしょうか。
どうぞ神様、私たちがふだん口から言葉を出す時、それがみこころにかなった言葉かどうかよく考え、判断することが出来ますように。キリストが一人ひとりの心の中に生きることで、心からあふれ出る言葉が自分と他の人を生かし、幸せを運んでいくものとして下さい。特に自分の言葉が、自分と他の人、あるいは他の人同士の間にいさかいを起こさないように、小さいながらも神様の愛する平和を伝えてゆくものとして用いられますようにと願います。
主イエス・キリストのみ名を通して、この祈りをお捧げします。アーメン。