悪霊を追い出す力 イザヤ34:14、マタイ12:22~32 2024.7.7
(順序)
招詞:詩編139:23、讃詠:546、交読文:詩42:2~7、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:85、説教、祈り、讃美歌:379、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式)(讃美歌207)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣
ガリラヤにおいて主イエスの評判がどんどん高くなっている中、ファリサイ派の人々がイエス様を殺そうと相談を始めた、今日はこうした状況の中で起こった一つの出来事を見ていくことにいたします。
この時、主イエスはどこかの家の中にいたものと思われます。悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が連れて来られました。口が利けないなら、おそらく耳も聞こえなかったのでしょう。この人は、悪霊に取りつかれていることを考慮すると、三重苦の聖女ヘレン・ケラーよりさらに多くの苦しみを背負った人だったのではなかったのかと思います。…主イエスはこの人をいやし、ものが言え、目が見えるようにして下さったので、これを目の当たりにした群衆は驚いて言いました。「この人はダビデの子ではないだろうか」と。……この人こそ、ダビデの子として我々ユダヤ人のところに来て下さると教えられてきたメシアではないかと。しかし、それに水を差す人々がいたのです。
聖書には主イエスが悪霊を退治した話がたびたび出て来ます。旧約聖書にもサウル王が悪霊によって悩まされた話とか、先ほど長老に読んでもらった箇所(イザヤ書34章14節)のようなところがあります。昔のユダヤの人々は悪霊が存在することを信じており、イエス様が地上におられた時代には、現に悪霊に取りつかれているとしか思えない人がたくさんいたようです。現代人の中には悪霊など存在しないと割り切って、それらの症状すべてにこれはなになに病だと言って片づける人がいますが、はたしてそれだけで解決するのでしょうか。陰謀論みたいになっては困りますが、現代においても得体の知れない闇の力が働いているのかもしれないということは可能性の一つに入れておいてもかまわないと思います。
主イエスが追い出されたのは目を見えなくし、口を利けなくする悪霊だったのですが、そのことは視覚障害者や聴覚障害者の人たちがみな悪霊に取りつかれているということでは絶対にありません。…この時代、目が見えず口の利けない人が自分の意思を表現する手段はほとんどなかったはずです。この人は、言葉が奪われているために、他の人々と正常なコミュニケーションを結ぶことが出来ません。人と人との関係の中で生きることがたいへん困難だったのです。さらにそのことは、この人の人生にさらに大きな困難をもたらしたことを予想させます。それは神様とこの人を結ぶチャンネルがなかったかもしれないということです。…この人は神様がおられることをはたして知っていたのでしょうか。
体に、また精神に障害をかかえた人が生きる環境は、歴史の中で少しずつ改善してきましたが、まだまだ不十分です。7月3日、日本の最高裁判所は旧優性保護法は違憲であるとし、かつて強制不妊手術を受けさせられた人たちへの救済を命じました。日本ではつい最近まで、「不良な子孫の出生を防止する」との名目のもと、はなはだしい人権侵害が行われていたのです。
2000年前のユダヤでは、主イエスの前にいた人のような、二重、三重の障害を持っている人のことを、神様に呪われた人であるかのように見なし、さげすむ人がいたはずです。しかし主イエスは、この人は神のご意思によって障害を負っているのだなどとは言わず、敢然と悪霊追放のわざを遂行なさいました。
主イエスのいやしを受けた人は、ものが言え、目が見えるようになりました。群衆はこれを見て驚嘆しました。ところが、その輪の中に加わらない人たちがいました。それはファリサイ派の人々で、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ってのけたのです。
私たちはまず、主イエスが悪霊を追い払って、目が見えず口が利けない人をいやしたことは事実であると認定出来ます。イエス様に反対する人たちでさえも、この事実を認めざるをえなかったのです。しかし、ここから今度はイエス様に決定的なダメージを与えようとして、悪霊の頭を持ち出してきたのです。
「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」というのは、たいへん巧妙な言い方と言えます。…なぜ悪霊が言うことを聞いたのか、自分の仲間の言葉を聞いたからだ。仲間の、しかもボスの言葉だったからだ。イエスと悪霊たちのボスはつながっていて、悪霊だってボスの言葉なら聞かないわけにはいかんだろう、こういう理屈です。
ベルゼブルというのはもともとバアル・ゼブブと言われていました。列王記下の1章に、イスラエルの王アハズヤが屋上の欄干から落っこちて病気になった時、エクロンの神バアル・ゼブブにお伺いを立てようする話が出て来ます。この時、神様はおこって、「イスラエルには神がいないとでも言うのか」と言われ、王を罰するのです。…当時バアルの神への信仰があり、またゼブブとは蝿に由来する言葉のようです。ぶんぶん飛んでいる蝿、ですからバアル・ゼブブとは「蠅の主」とか「蝿の王」を意味することになります。このバアル・ゼブブがやがてベルゼブルと言われるようになったのですが、そこにはさらに「糞尿の主」という意味が込められているということです。
話が少し脱線しますが、キリスト教の神学に対して悪魔学という学問があります。いったいどんな人が研究しているのか、神学校でそんな授業はなかったのですが、広島の大型書店にはその手の本が売られていました。そこではベルゼブルは、悪魔の世界の中でも非情に高い地位が与えられているようです。アハズヤ王がお伺いを立てようとした偶像の神が、なぜ悪霊の頭と呼ばれるほど悪魔の世界で出世したと考えられるようになったかは調べていないのでわかりません。…イエス様が悪霊の頭と結びついていると決めつけることは、日本でいうと、お前は妖怪だ、死神の仲間だと言うのと似ており、これ以上の冒涜はないほどの言葉を投げつけたことになるのです。
主イエスはファリサイ派から、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言われた時、2つの理由をあげて反論なさいました。第一の理由は、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」ということです。
もしも主イエスが悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出しているのなら、サタンがサタンを追い出すことになります。いくら悪魔でも、自分で自分の首をしめあげるようなことはしない、と主は言われます。
主イエスのこの論法は、ちょっと考えてみると不十分に見えなくもありません。というのは、神に敵対する勢力同士が闘っているふりをしながら、裏では手を握っているということが実際にはあるからです。しかし、主イエスにそのような疑いを抱かせるものは何もありません。イエス様は悪霊に対し正面から闘って、これを打ち破られました。イエス様に救い出された人にとっても、またそれを見た群衆にとっても、これは悪魔のわざであるとか、悪霊が悪霊を追い出したという主張が説得力がないことは明白です。
主イエスが反対派を論破した第二の理由は「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか」ということでありました。当時、あちこちにユダヤ人の祈祷師がいて、悪霊を追い出すことをしていました。ルカ福音書9章49節でも、イエス様の名前を使って悪霊を追い出していた人のことが書いてあります。ファリサイ派の人々は彼らのことを問題にしません。それでいてイエス様が悪霊退治を見事にやってのけると、ことさらに騒ぎ立てて悪霊のしわざにしようとする、それは矛盾ではないか、と言われるのです。
このようにファリサイ派の言い分が論破されたあと、主イエスはいよいよ積極的な主張をなさいます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。
主イエスが悪霊の力によってではなく、もちろん人間の力によってでもなく、神の霊によって、つまり神の力によって悪霊を追い出しているのであれば、すでに神の国は来ているのです。皆さんはイエス様が神の国のことを宣べ伝えたことをご存じのはずです。主イエスの伝道の第一声は、マルコ福音書によれば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。しかし、今日のところでは、神の国は近づいたのではなく、「あなたたちのところに来ている」のです。神の国がすでに到来したのです。それはイエス様が悪霊とたたかい、勝利をおさめたからです。
皆さがはそのことが了解されると、次の言葉も理解できるようになります。「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。
インパクトの強い表現で驚かれたかもしれません。ここで攻め込まれて縛り上げられる強い人というのは、それこそ悪霊であり悪魔です。サタンは一人ひとりの力をはるかに超えた恐ろしい力を持っています。強い者でもあるのでしょう。闇の世界の帝王です。けれども、それよりもっと強い者が現れた時、とうてい太刀打ち出来るものではありません。主イエスはこのたとえで、ご自分こそ、悪霊の本拠地に討ち入り、悪魔を縛り上げることが出来るのだと主張しておられます。…悪霊によって、目と口をふさがれ、神と人とに見放されたかに見えた人が、神と人との間で、人として生きて行くことが出来るようになりました。「私が人々をこうして悪霊から解き放っている今、まさに神の国は来たのだ。神の国は始まったのだ」とおっしゃっておられるのです。
イエス・キリストはご自分とサタンとの関係を、武装した人間同士の戦いにたとえられましたが、これは実際の戦争のように血で血を洗うようなものではありませんが、やはり命をかけ闘いです。主イエスはそののち、十字架上で勝利し、悪霊の頭である悪魔は縛り上げられました。その命運は尽きているのです。いま私たちが見ているのは、悪魔にとっての最後のあがきにしかすぎません。私たちの目が曇らされているために、悪魔が恐ろしく見えてしまうのですが、神と悪魔の闘いの結果は明らかです。…この段階において主イエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われます。主イエスの側に立って一緒にたたかう人がいる一方、そうでない人がいます。主イエスの側につくか反対するか、神の側につくか悪魔の側につくか、どちらか一つの選択があるだけで、中間の道はありません。
主イエスは最後に重大な言明をなさいます。それは赦される罪と赦されない罪についてです。赦される罪についてはこう言われます。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」。また、「人の子に言い逆らう者は赦される」。……ありがたいことです。むろん、だから何でもやっていいということではありませんが、たとえこのような罪を犯しても、神様の前に悔い改めれば、赦されるのです。
しかし、神様に赦してもらえない罪があります。「“霊”に対する冒瀆は赦されない」、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。
これは難解な言い方だとされています。いったい聖霊に対して冒瀆したり、言い逆らうとは何のことなのか、考えれば考えるほどわからなくなってしまいそうです。……けれども当時、イエス様から直接この言葉をいただいた人たちには、その意味は明らかだったのです。なぜなら、その場所にファリサイ派の人々という生きた反面教材があったからです。
ファリサイ派の人々は、主イエスが悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出したと言いましたが、実際は、主は神の霊によって悪霊を追い出されたのです。ファリサイ派の人々は神のみわざであることを悪霊のしわざだとしました。それは神を冒瀆することになります。主イエスはご自分が悪口を言われるくらいなら辛抱し、悔い改める者を赦して下さいますが、神のみわざを悪魔のわざだとすることは絶対に赦したまわないのです。
主イエスを前にして、この方を信じるか信じないか、この方の側に立つか反対するか、2つの道以外にはありません。そしてイエス様がなさったみわざを悪霊のしわざと考えないかぎり、私たちが取るべき態度は一つしかありません。私たちは主イエスの敵でないことはもちろん、われ関せずというただの傍観者であってもいけません。主イエスがなされたことを神のみわざと心から信じるなら、この方に人生をかけて従って行くことが必ず出来るはずなのです。
(祈り)
恵み深い神様。今日、私たちが神様の家、教会で愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝をささげることの出来ている恵みを感謝いたします。どうか、神様の前に立とうとする私たちを斥けず、みことばの光によって生きる者として下さい。聖霊の御助けによって、私たちの心におおいかぶさろうとする悪霊があればそれを払いのけ、守って下さい。
主イエスはすでに悪魔を打ち破られました。しかし、それにもかかわらず、神様が勝利したことに確信が持てず、すぐふらついてしまうのが私たちです。恥ずかしいことに信仰が弱いのです。どうか今も主イエスが世界中で続けておられる、神の国を拡げるたたかいの中で、私たちが勇気ある信仰者として立つことが出来ますよう、弱い信仰を強めて下さい。この教会を、神様のみわざを力強く語り、行い、伝える教会として下さい。この祈りを主イエス・キリストのみ名によってみ前にお捧げいたします。アーメン。