傷ついた葦を折ることなく イザヤ42:1~4、マタイ12:15~21 2024.6.16
(順序)
招詞:詩編139:14a、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:Ⅱ-1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:30、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-156、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣
今朝は、マタイ福音書12章15節から21節の言葉を中心に学びながら、そこに示された神様のみこころに、皆さんと一緒に心を開き、耳を傾けたていきたいと思っています。
今日の箇所は、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」から始まります。主イエスは何を知ったので、その場所を離れたのでしょうか。先週の礼拝説教では、安息日の過ごしかたについて、主イエスの言動に疑問を持ったり、不信感を持った人たちとの間でひと悶着あったところを見てきました。そこには、いつもファリサイ派と呼ばれる人々がいました。12章14節にはこう書かれています、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」
聖書の読者には悪役として名高いファリサイ派ですが、初めからイエス様に敵対的であったのではありません。イエス様を殺害することを言い出したのは、この時が初めてです。そこにはどういう原因があったのか、ちょっと考えてみて下さい。…ファリサイ派の人々にとって、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘むという、彼らから見て労働をしたことは問題でした。イエス様が安息日に会堂で、片手の萎えた人を奇跡を起こして治されるというのも由々しき問題でした。安息日は、律法の規定によっていかなる仕事もしてはならなかったからです。彼らは、イエス様が言われた、安息日に羊が穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか、また「安息日に善いことをするのは許されている」、という言葉に対して言い返すことは出来ませんでした。
その当時の、律法の条文を一字一句守っていかなければならないと考える人にとって、イエス様がなさっていることはルール違反だと判断されます。しかしそのことが、イエス様の殺害まで求める決定的な理由ではありません。もっと重大なことがあったのです。その時のイエス様は、ご自分を指して、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」、そして「人の子は安息日の主なのである」と宣言されました。これが問題なのです。…ファリサイ派の人々はイエス様が、ご自分のことを、何十年もかけて出来上がった神殿より偉大だと言うとは何たる思い上がりかと思ったでしょう。その上さらに「安息日の主」なんて言ってのけるとは、…これは自分は時を支配する存在だと言うに等しいことなのです。昔、中国の皇帝は年号を定めました。それは、その年号が続く限りこれは朕の時代だということですが、イエス様が言われるのはそれ以上のことです。天地創造の時から世の終わりまで安息日はあるわけで、安息日の主であるとは、自分を神だとでも思っているのかとなるわけで、彼らにとってはこれがもう、どうにも我慢できないことであったのです。
主イエスはご自分を殺害しようとする人がいることを知って、そこを立ち去られました。イエス様は、ご自分が最後に十字架につけられて死ぬことをご存じだったはずです。しかし今はまだその時ではありません。敵対者と正面衝突することも、死に急ぐ必要もないから、そこを出て行かれたのです。
そこに大勢の群衆がついていきました。イエス様はその一人ひとりを大切に思われ、皆の病気をいやされました。それは悩み、苦しんでいる人への愛と憐みのあらわれですが、この点がファリサイ派などとは全然違っていました。彼ら当時の宗教界のリーダーたちは、自分自身の救いのことではたいへん熱心でしたが、社会の中で虐げられた人々には関心がなかったのです。そのような宗教者は現代にもたくさんいます。
さてイエス様はその時、群衆に対し、ご自分のことを言いふらさないようにと戒められました。ご自分が大評判になることを望まれなかったのです。…すでにイエス様に対する殺害計画が始まっているわけですから、そこには敵対者に対し、必要のない刺激を与えないという理由もあったでしょう。しかし、もっと大きな理由があります。この時すでに、イエス様と群衆の間に意識のずれが生じていたのです。
イエス様のもとにかけつけた人々は飼う者のない羊のようなあわれな人々でありました。みんな、暗い世の中に光を輝かすイエス様が現れたことを喜んで、すがるような思いでやって来ました。苦しみや病からのいやしを求めてきたのです。しかしイエス様に望みを託すこうした人々の中に、やがてイエス様を王にしようとする思いがわきあがり、それは実際の行動として現れて来るのです(ヨハネ6:15)。…でも皆さんは、そうした群衆の思いとイエス様の目指すところが一致すると思いますか。
ローマ帝国の占領下にあったユダヤの人々の多くが、打ちひしがれた、言うに言われぬ思いで生きていたのですが、その彼らが待ち望んでいたのは民族を解放に導いてくれる人物、強い男です、強い指導者です。…いつ、どこにおいても、厳しい時代になって、社会の舵取りが難しくなればなるほど、強力なリーダーが求められるものです。アメリカでいまトランプ氏が一定の人気を得ているのも、そういうことでしょう。…群衆が求めていたのはイエス様が政治的リーダーとして上に立つ新しい社会です。この時代のユダヤでそれをなしとげようとするのは簡単なことではありませんが、どうすればそれが可能なのか、一つの方法は武力を用いて反乱を起こすことです。革命を起こすことです。実際、ローマ帝国占領下の時代のユダヤでは、自分はメシアだと名乗って武装蜂起をした人が何人か出ました。最終的に彼らはみな失敗してしまいましたが。
イエス様が目指していたのは、そのような、一般的な意味での強い男、強力なリーダーではありません。そのことを理解した上で、預言者イザヤの言葉を見ていきましょう。
福音書の著者マタイは、イザヤ書42章にある言葉をここに持って来ました。イザヤ書の言葉とマタイ福音書の言葉を比べてみると違いがありますが、大きな問題ではありません。マタイはイザヤ書のヘブライ語の原文をギリシャ語に訳したものから、これを引用しています、さらに意訳したところもあって、この違いがあるのです。
始めにイザヤ書の方を見てみましょう。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」。まず、この方は誰なのかということが問題になります。42章の預言が与えられたのは、ユダヤ人の歴史の中ではバビロン捕囚の末期ということになります。紀元前586年、エルサレムが陥落し、ユダ王国が滅んで、住民はバビロンに捕囚として連れて行かれました。しかし、その苦しみの時代もついに終わろうとしていた頃、神様から与えられた言葉がこれだったのです。亡国の民に主の僕が与えられるという恵みの言葉なのですが、では主の僕とはいったい誰なのか、現代の学者の中には、これはキュロスであると考える人がいます。キュロスとはペルシャの王で、この人がその後ペルシャを率いて、バビロニアを滅ぼした結果、ユダヤ人はついに先祖伝来の地に帰ることが出来るようになったのです。ユダヤ人にとってはキュロスさまさまです。イザヤ書45章1節には「主が油を注がれた人キュロス」と書いてあるほどで、偉大な人物だったのかもしれませんが、この人について知られていることとイザヤ書42章に書かれていることが一致しているとは思えません。…やはり、ここで預言された主の僕とは、イエス・キリストのことだと考えるほかありません。
なお、キュロスというのは私たちが知っておいて良い人物です。今アメリカで、トランプこそ現代のキュロスであるという人がいるのです。昔のキュロスはまことの神を信じている人ではなかったのですが、ユダヤ人を解放し、メシアに近いほどの評価を受けました。ならばトランプ氏も、スキャンダルが多く、まじめな信仰者とは思えませんが、神のみこころを体現しているではないか、ということです。この考え方が正しいかどうかは各自で判断して下さい。
マタイ福音書に戻ります。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者、この僕にわたしの霊を授ける」。皆さんはこれを聞いて、思い出されたことがないでしょうか。…イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時のことがマタイ福音書3章16節以下に出て来ます。「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
ここに書いてある通り、父なる神はイエス様を愛する子、心に適う者として喜ばれています。イエス様こそ父なる神が承認した神の愛する子であり、忠実な僕だったのです。イエス様はその時、神の霊、すなわち聖霊を受けられました。イザヤ書に、「彼の上にわたしの霊は置かれ」と書いてある通りです。聖霊を受けたことで、イエス様は父なる神に祝福される働きを開始されました。
…ここで、イエス様が神の子であったならどうして聖霊に満たされる必要があったのかと思われる人がいるかもしれません。…その理由はイエス様が人となられたからです。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければなりません。かりにイエス様が神としての能力をそのまま保持し、全知全能だったとしたら、もはや人間とは言えません。イエス様は人になられたので、私たちと同じように疲れることも、腹が減ることも、痛みを感じることもあったのです。しかし神の霊が注がれたことで、人でありながら神の言葉を語り、行うことが出来るようになったのです。
マタイが引用した言葉の中で、彼、つまりイエス様は異邦人に正義を知らせます。しかし、その時、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」と書かれています。
何の予備知識もないままこの箇所を読む人は、イエス様がただただ優しい、憐れみ深い方のように思ってしまうでしょう。それが悪いとは言いませんが、優しい性格が正義に裏打ちされていなければ、それは簡単に弱さへと転落してしまいます。先にお話しした通り、群衆は強い男、強い指導者を求めていました。だから、かりにイエス様が号令をかけたとすれば武装蜂起だって起きてしまったはずです。イエス様はご自分がそんな指導者でないことを言葉と行いに置いて示し、そのことをマタイもここで書いているのですが、そこには正義を貫くということがなければいけません。
「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。葦は水辺に生えているありふれた植物で、互いに接触しただけでも傷ついてしまうほど弱いものです。だから、これを折ったら、本当に枯れてしまいます。…そのように、傷つき倒れている人をじゃけんに扱えばどうなるか、死んでしまうこともあるのですが、イエス様は弱り果てている人を助け起こし、再び元気に歩けるようにする方だということが言われています。
「彼は傷ついた葦を折らず」、この句をさらに有名にさせたのがフランスのパスカルという人の言葉です。パスカルは聖書からインスピレーションを得て、「パンセ」という本の中でこう書きました。「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」。
もう一つ、主の僕が「くすぶる灯心を消さない」というのは、現代ではろうそくでも使わない限り、実感がわかなくなってしまったかもしれませんが、神様との正しい関係を失っているために、信仰がマンネリ化し、衰えている魂に対する警告であり慰めでもあるのです。私たちの信仰をろうそくの火にたとえると、ちょっと風が吹いても揺らぎ、消えてしまう火であるかもしれません。そうなると、神様から頂く恵みを失ってしまうことになりかねません。もしも私たちの信仰の火が消えてしまったら、誰がどうやってそれを元に戻すことが出来るのでしょう。…「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」、これはイザヤ書40章8節の言葉です。主イエスが、消え入りそうな信仰の火を消さずに保っていて下さるから、私たちの信仰も失われずに保たれているのです。
そして21節、「異邦人は彼の名に望みをかける」、ここはイザヤ書では「島々は彼の教えを待ち望む」となっていて、ずいぶん違うじゃないかとなりそうですが、カルヴァンは、マタイの方は言葉を変えているけれど、キリストの恩恵は異邦人にも伝えられ、広められることであるから意味は同じであると書いています。要するに、主イエスが体現した神の恵みはユダヤという枠を超えて、世界に広がっていくのです。
今日の話をまとめます。これはイエス・キリストがどんなお方であるかということを現わしているのです。イエス様は父なる神が愛し、選んだ方であり、神の霊が注がれています。「彼は傷ついた葦を折らず」、これは当時においても現代においても決して当たり前のことではありません。傷ついた葦など折って枯らしてしまって当然だという考えも広く蔓延しています。そんな世の中にあってイエス様は、そうした風潮に流されず、また群衆の思いに乗っかって権力をうかがうこともせず、正義をかかげるがゆえに虐げられた人々や信仰の火が消えそうになっている人々と共におられました。イエス様のこの究極の愛が十字架刑へとなっていくのです。
イエスとはいったい誰なのか、自分にとってどういう意味を持ったお方なのかということが、その人の人生を決定づけることになります。私たちはその問いから離れるわけにはいきません。今日の箇所を通して、一人ひとりが正しい決断へと導かれることを願います。
(祈り)
恵み深い天の父なる神様。今、あなたの御子イエス・キリストが、群衆の声に流されて危険な決断をすることがなく、御父の愛に立ち、まことの正義を示して下さったことを知ることが出来ました。争わず、叫ばず、しかしその声は世界に響いています。イエス様は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、だから私たちがこうして神様の前で生き続けていることを知り、感謝申しあげます。
神様の愛と憐れみこそが、世界に正義と平和をもたらします。それはいっけん回り道のように見えようとも、もっとも確実な道にちがいありません。神様、あなたがイエス様を通して示して下さった道を私たちがこれからも進んで行くことが出来ますように。私たちの信仰を試そうとするサタンのあらゆるたくらみから、守って下さい。
とうとき主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。