安息日の主であるキリスト 詩篇118:22~25、マタイ12:1~14 2024.6.9
(順序)
招詞:詩編139:13、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:26、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:77、説教、祈り、讃美歌:272、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539l、祝福と派遣
今日取り上げた2つのお話は、いずれも安息日の中で起こった出来事です。マタイ福音書の礼拝説教では前回、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というところを学びましたが、イエス・キリストのもとで得られる休息とか安息とか平安ということが、今日の話につながっています。
安息日というのは最近、あまり使われていない言葉です。今日の週報でも左上に「主日礼拝」と書いてありますね。安息日と言うより、主日と呼ぶことの方が多いです。聖書の中でも、イエス様が安息日にこんなことをなさった、あんなことをなさったという話がいくつかありますが、黙示録1章10節には「ある主の日」という言葉が見えています。主日とか主の日とか呼ばれるようになっても、それが安息日、真の安息にあずかる日であることには変わりありません。
一週間のうちの一つの日が安息日となっていることは、申すまでもなく素晴らしいことです。江戸時代までの日本では休日という概念自体がなく、日曜日が休みではなかったということです。休めるのはお盆と正月、お祭りの日だけだったということですから、そうなると何日もぶっつづけで働くということがあったのでしょう。明治時代になってから日曜日が休みになったのです。そこに欧米のキリスト教世界の影響があることは言うまでもありません。
日本の国民はこのようにして日曜日の休みを獲得しましたが、今も休日返上で働かなければならない職場がありますし、そうはならなくても、せっかくの休みを一日中寝て過ごしたり、レジャーのためだけに使う人が多いのは残念です。確かに毎日けんめいに働いている人が、日曜日くらいのんびりしたいというのはよくわかるのですが、ごろ寝やレジャーだけでは真の安息は得られません。また、仮に働かなくても高収入が保証される身分になったところで、ただ遊んでいるだけでは安息は得られません。肝心なことは、神がそこにおられるということです。たとえ毎日倒れそうなほど働いている人であっても、そこに神様の導きがあるなら安息があるはずです。七日に一度、休日が設けられているのは、神を見上げ、みことばを聞いて、本当の安息を得るためなのです。
この安息日の成り立ちについて、創世記の初めに書いてあることを思い出してみましょう。父なる神が天地万物を完成されたところ、それは極めて良かったのです。まことに満足の行く出来栄えでした。創世記2章2節、「第七の日に、神は自分の仕事を完成され、……安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創2:2~3)。
英語で休日のことをホリデーと言います。このホリデーという言葉は、ホーリー・デーから来ています。ホーリーは聖なるという意味ですから、聖なる日なんですね。つまり、神を仰ぎみことばを聞く、特別な、清められた日なのです。神様の安息が人間に与えられた、聖なる日なのです。
さてイエス様の時代の安息日は週の終わりの日、つまり土曜日でした。神は天地創造の時、日曜日に仕事を開始され、金曜日に仕事を完成され、土曜日にお休みになられたからです。ユダヤ教やイスラム教は、今でも土曜日を安息日にしています。
マタイ福音書の12章に書いてある2つの安息日の出来事のうち、第一が麦の穂を摘んで食べた事件です。麦畑を主イエスと弟子たちが通っていましたが、弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めました。……私たちはまずそこから、彼らの激しい仕事ぶりを想像することが出来るのではないでしょうか。町々村々に福音を宣べ伝え、失われた魂をたずね求めるために、この一行は夜を日についで歩きまわらばければなりませんでした。お腹も空くわけです。
この麦畑は他の人がつくったものです。しかし、そこで麦の穂を摘んで食べること自体は、盗みの罪には当たりません。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」、これは申命記23章26節の言葉です。ひもじい人が麦畑で穂を摘んで食べることを律法はゆるしておりました。問題は、その日が安息日だったということにあります。
十戒の第4条にはこう書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出20:8~10)
安息日には仕事を一切やめて、その日を神様のために捧げなければならない――と律法は命じています。だから、ファリサイ派の人たちは、弟子たちの行為は安息日に麦刈りしたことになる、つまり労働に当たる、だからいけない、律法違反だと言ったのです。
ファリサイ派の人々に対し主イエスは反論されます。しかし、その論理は2000年後の私たちにとってはたいへんわかりにくいものです。注解書では複雑な議論が展開されていて、私も整理できないので大まかなところだけ取り上げます。
主イエスはまずダビデを取り上げて反論します。これはサムエル記上21章1~7節に書いてあります。ダビデがイスラエルの王になる前のことです。ダビデと部下たちは逃亡中で、食べるものもなく飢えていました。そこでダビデはひとり、エルサレムの北ノブにあった神の家、幕屋に行って、ただ祭司だけしか食べることの出来ないお供えのパンを無理にもらって来て、部下と共に食べたのです。これはお供えのパンに対する掟を破った行為で明らかに律法への違反でしたが、これが聖書に書いてあり、ダビデたちは罰せられていません。主イエスはこのことを根拠に弟子たちの行為を正当化されたのです。……しかし、皆さんはこれをすんなりとは受け入れられないでしょう。…とにもかくにも、ダビデは食べ物がないという非常事態を乗り切り、イスラエルの王となっていったのです。
主イエスのもう一つの言葉もやはりわかりにくいのです。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にある(レビ24:8~9、民28:9~10)のを読んだことがないのか」。…祭司は神様にいけにえを捧げる仕事をしていました。…以前、私のうちで隣の久保さんが銃で仕留めた鴨をもらったことがあるのですが、湯を沸かして羽をむしり取り、食べられるまでにするのはたいへんでした。祭司は聖書の言葉を読み上げたり祈ったりするだけでなく、このような仕事もしていたのでそれは重労働だったでしょう。しかし祭司が安息日に仕事をするのは当然のことでありまして、これをしなければ神殿での儀式を執行することは出来ません。…しかしそのことと、お腹のすいた弟子たちが麦の穂を摘むという労働をして食べることとどういう関係があるのでしょうか。この論理もわかりにくいのです。
一つひとつ検証していくと頭が混乱してしまうので、単純に話をまとめます。この話の謎を解く鍵は、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」という言葉です。これまでのごちゃごちゃした議論もすべてここに収斂します。「昔ダビデだけは、普通の人が食べてはならないお供えのパンを食べることが出来た、それならダビデより偉大な者は同じことをしても罪にならない。祭司は安息日に仕事をする、それなら祭司よりも偉大な者が、安息日に麦刈りと見なされる仕事をしても良いはずだ」、これが主イエスがおっしゃりたかったことの本質だと思います。皆さんは、主イエスがここで「神殿よりも何よりも偉大な者はご自分である」と言われたことを覚えて下おいて下さい。
主イエスは次に入ったところは会堂です。そこに片手の萎えた人がいました。脳溢血か何かで半身不随になっていたのかもしれません。イエス様を訴えようとする人々は、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。主イエスが片手の萎えた人を治せば、律法への違反で告発出来るからです。しかし、主イエスは挑発してくる人々に対して、少しもひるまず、苦しんでいる人の側に立って、神の正しさを明らかになさいました。
「あなたがたのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。かけがえのない一匹の羊が穴に落ちて、命が危険だったとすれば、それが安息日であろうとなかろうと助け出すのは当然です。そうだとすれば、ここに羊よりもはるかに大切な人間がいて苦しんでいるのですから、この人を治すことこそ、安息日にふさわしいことではないか、そうおっしゃって、主イエスがこの人の手を元通りに直して下さったのです。
主イエスのなさった奇跡は不思議なことですが、それより、この日に示して下さった愛のわざとその言葉にこそ注目して下さい。
十戒はそのほとんどが「なになにをしてはならない」と教えています。しかし第四の戒めだけは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」、禁止命令ではありません。……皆さんは信仰者として、これはしてはいけない、このことは我慢しなければいけないなあ、ということがあるかと思います。しかし、そういう信仰は結局不自由なものです。掟で自分をしばるのでなく、積極的に良いことを求めて行くとき、新しい、自由な世界が開かれます。主イエスはその見本を示して下さったのです。
主イエスは、ご自分は神殿よりも偉大だと、そしてさらに8節で「人の子は安息日の主なのである」とおっしゃられました。「人の子」とは、イエス様ご自身のことで、ここにも、主イエスの体を張った自己主張があります。イエス様が安息日の主であるとは、ご自分こそ安息を与える者である、という約束なのです。主イエスは片手の萎えた人のいやしを通して、このことを示して下さったのです。
時を支配するのは誰なのでしょうか。元号というのは昔、中国は漢の時代、皇帝の武帝によって始められ、日本も西暦645年、大化の改新が起こった時に取り入れました。元号は、中国では皇帝が時を支配していること、日本では天皇が時を支配していることをあらわしているのです。しかし教会では神が主でありますから、西暦を使います。イエス様の誕生以前を紀元前何年、誕生以降を紀元何年と言っています。…日本のいくつかのカレンダーでは一週間は月曜日に始まって日曜日に終わりますが、教会では一週間は日曜日に始まって土曜日に終わると考えます。時の流れはすべてキリスト中心、礼拝中心なのです。
むかし安息日は土曜日でしたが、キリスト教会はそれを日曜日に変更しました。その理由は何だったのでしょうか。
詩編118編22節から23節はこう教えています。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」。家を建てる人がいらないと言って捨てた石が、隅の親石、すなわち土台になったということです。さらに24節、「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう」。これは捨てられた石が隅の親石となったその日こそ、神が設けられた、神の御業が行われた日であることを言っているのです。
神の御業が行われた日がいつなのか、使徒言行録4章11節と12節はイエス・キリストを指して言います。「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
皆さんはおわかりですね。家を建てる者が石を捨てた時とは、主イエスが十字架につけられた時です。この石が隅の親石になった時というのは、主イエスが死人の中から復活された時です。主イエスは金曜日に十字架につけられ、日曜日に復活なさいました。ですから「今日こそ喜び祝い、喜び踊ろう」という「主の御業の日」とは、主イエスが復活なさった日、日曜日なのです。
それまで人々は、神が天地創造の御業を終え、安息なさった土曜日を安息日としていました。しかし、主イエスの復活は歴史上ただ一つ、新しい人間を創造した空前絶後の日ですから、その日は新しい安息日として、永遠に喜び祝う日となったのです。
ここにいる私たちの心の中には、悩み苦しみ、疲れ、嫉妬、傲慢、恐怖などなどさまざまな負の感情が満ち満ちているかもしれません。そうならざるを得ない、つらい状況があるのはわかります。しかし、そのまままで一生を終えるわけにはいきません。私たちに与えられた時は、すべて神様から与えられた時です。どうか私たちの人生が安息日の主からいただく真実の安息の中にありますように。これは決して、出来ない相談ではありません。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神様。神様はご自身が造られた世界の中で、とるに足らないような私たちの名前を呼んで下さいます。祈りに応えて下さいます。すてばちになって、自分なんかどうなってもいいと思っている人にも、お前は世界にただ一人、私の目にお前はとうとい、と言って励まして下さいます。心から感謝申し上げます。
神様、私たちはあなたがみ子主イエス様を通して与えて下さる恵みの中でしか、安息を得ることが出来ません。温泉に入り、おいしいものを食べても、それだけで本当の安息は与えられません。一方、仕事の悩み、人間関係の悩み、体や心の病気など、私たちを絶望に陥れる苦しみならいくらでもあります。しかし、たとえどんなにつらい状況の中にあっても、神様がおられるところに真の安息があることを覚えて、喜びと希望をもって生きる者でありますように。安息日を中心とした一週間を積み重ね、礼拝に参加するごとに心が清められて、主イエスの教えられた真の自由な世界に入ることが出来ますように。とうとき主のみ名によって祈り、願います。アーメン。