安らぎを与えて下さる方 イザヤ57:19、マタイ11:25~30 2024.6.2
(順序)
招詞:詩編139:12、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:271b、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これはとても有名な聖句で、教会の入り口に掲げられていることも多いです。この言葉に引きつけられるように教会の門をくぐったという人も少なくないと思います。
イエス・キリストはいったいどういう時に、どういう思いをもって、これを言われたのでしょうか。こうした疑問をもって、今日の箇所を見るとどうでしょう。…いまマタイ福音書11章の25節から30節までを長老に読んでもらったのですが、そこで言われていることの意味はなかなか難しく、すぐにわかったという人がいたらよほど優秀な人です。ふつうはイエス様の論理の立て方にとまどってしまうと思うのです。…イエス様が父なる神様をほめたたえた。そこで口に出された「これらのこと」というのは何でしょうか。それは知恵ある者や賢い者には隠されていて、幼子のような者に示されているというのですが、今度は「すべてのことは、父からわたしに任されています」となって、イエス様とは誰かということが問題になり、そのあとに「疲れた者、重荷を負う者」が出て来ます。何がどう展開して、疲れた者、重荷を負う者を休ませてあげようとなっていくのか、すぐには理解が難しいので、だからこそ牧師の役割があるのですが、私にとってもここはかなりの難問です。ご一緒に説き明かしていきたいと思います。
主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これは印象に残る言葉です。この言葉に触れた人の多くは、安らぎを与えて下さる方のそばで休みたいと思うにちがいありません。
おそらく疲れていない人、重荷を負っていない人というのは、この社会の中でいないことはないでしょうが、少ないだろうと思います。小さな子どもならともかく、どんな人も、それぞれ人生の中で苦しみや悩みをかかえており、程度の差はあれ、そこから逃れて休みたいと思っているのです。…しかし、誰もがこのみ言葉を信じて、イエス様のもとに来ているわけではありません。
この言葉は信じるに足りるものなのでしょうか。……その人が、イエス様にはこれを発言されるだけの資格と力があると納得していないと、受け入れるのは難しいでしょう。……うまい話をもってくる人なら、世の中にいくらでもいます。そんな話に飛びついて、失敗したことは誰でもあるでしょう。そうした中にあって、この人の言うことはうそではないと信じられものをイエス様は持っておられるのでしょうか。…実は、「疲れた者、重荷を負う者」に先立つ25節から27節までの間で、イエス様はご自分が信じるに足るお方だということを仰せになっているのです。
まず25節を見ましょう。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』」。
主イエスが呼びかけられた相手は「天地の主である父」です。お二方は父と子の関係なのです。……私たちにとってこれは常識です。主の祈りでも「天にまします我らの父よ」と祈っています。しかし、私たちが「父なる神様」と言うことが出来るのは、主イエスがそうしなさいと言って下さったからです。…旧約聖書には「父なる神」という言い方は出て来ません。イエス様が洗礼を受けた時、天から「これはわたしの愛する子」という声がありました。そしてここで、イエス様は父と呼んでおられます。そして今、私たちにも父なる神という呼び方が許されているのです。
では、主イエスが天地の主である父なる神をほめたたえている理由は何でしょうか。マタイ福音書でこの直前に書いてあるのは、イエス様がご自分の言葉を受け入れず、悔い改めない町を叱ったことですから、そこだけ見ればイエス様の気持ちがわからなくなります。そこで参考になるのは並行箇所のルカ10章21節と22節です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました』」。同じ喜びの言葉が出て来るのですが、その直前に、イエス様が伝道のために派遣した弟子たちが成果をあげて帰ってきたことが書いてあります。なお、その前は、イエス様がご自分の言葉を受け入れず、悔い改めない町を叱った話になっています。
そこで、主イエスと弟子たちが行った伝道に、成果をあげたところとそうでなかったところがあり、イエス様はこの二つを踏まえて、父なる神をほめたたえていると考えるとすっきりするのです。マタイの方では、伝道で成果をあげたことが11章5節に出ています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を注げ知らされている」。……これと反対なのが11章16節です。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった』」。人々の精神生活がいかに空虚であるかが言われています。同様に11章20節以降、イエス様は悔い改めない町々に「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」などと叱っておられます。
主イエスと弟子たちが行った伝道に対し、その言葉を喜び、恵みを受けた人々と、それを拒絶した人々がいたのです。このように二通りの反応が出たことが、主イエスが「父よ、あなたをほめたたえます」と言われた直接の契機になっているのですが、これだけでは何のことかわかりませんね。…25節の言葉をもう一度見てみましょう。「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。…「これらのこと」とは何でしょう。注解書によると天の国の秘密(13:11)、み国の秘義、また「あなたの真理」とされています。あなたとはもちろん神様です。神様の真理が、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたということが、たたえられているのです。
主イエスと弟子たちが伝えた真理、ただ一つすべての人を救う福音を受け入れない人たちがいました。そこにファリサイ派の人々や律法学者たちがいます。彼らは当時の社会では知恵ある者や賢い者とされ、うぬぼれていた人たちです。彼らはイエス様を認めませんでした。主イエスが叱りつけたコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の大部分の人々もイエス様が語っていることを受けつけなかったのです。こんなの聞くだけ時間の無駄だと思ったのではないでしょうか、…一方、神の恵みにあずかった人たちとは、体に障害をかかえている人や重い皮膚病に苦しんでいる人、貧しい人たちなどでありました。当時の社会において評価されることの少ない人たち、その人たちは疲れた者、重荷を負う者となるでしょう。しかし、その人たちが信じたのです。…神様の真理は自分には知恵があると思っている人のところには届かず、かえって社会から低く見られていた人、けんそんな人に届いた。これが御心に適うことだったのです。
私たちだって、神様の真理は知恵ある者や賢い者の上に注がれていると思っています。イエス様が言われたことは私たちの常識とかけはなれています。なぜこんな常識はずれことが起こるのか、その理由を的確に説明しているのはⅠコリント書の1章26節以降のところです。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
神はなぜそんなことをなさるのでしょう。…29節、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。生ける神のみ前には人間の知恵がどれほどあったとしても愚かなものでしかありません。イエス様にとって、貧しい人たちなどが神の恵みにあずかったことが喜びであるのはもちろんですが、福音を受け入れない人たちが大勢いたことがダメージになることはありません。神の知恵がすべてにまさっていることを見て、父なる神をほめたたえておられるのです。
こうして主イエスは、父なる神のみこころをご自分が担ってゆこうとする思いを新たに導かれたといえます。そのために今度は、ご自分が何者であるかを明かされます。「すべてのことが父からわたしに任せられています」。こんなことが言える人はイエス様の他には誰もおりません。父なる神が天地の主として君臨しておられる全領域を、主イエスも受け持っておられるのです。
そして、「父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」という言葉が示すのは、父なる神と主イエスが一つに結ばれているということです。目に見えない神を目に見えるようにあらわしたのがイエス様です。ですから誰でも、イエス様を通ることによって父なる神を知ることが出来るのです。しかし、これを逆に言うと、イエス様を通らなくては、父なる神を知ることが出来ないということになりませんか。今もユダヤ教徒はイエス様をメシヤとは認めず、いつか現れるという別のメシヤを待ち続けています。イスラム教徒が礼拝しているのも、私たちの父なる神で同じなのですが、彼らは神と人をつなぐメシヤをいっさい認めません。だから、少なくともこの二つは信じるに足りない教えなのです。
主イエスは父なる神様から世界のすべてを任された方です。人はイエス様を知ることなしに、神様のことがわかり、神様を信じ、礼拝することは出来ません。イエス様は十字架刑を引き受けられるという究極の愛を示して下さいました。これほどのお方が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるのです。…私たちはこの方を信じて、この方のもとに休らうほかないではありませんか。
牧師は、主イエスのもとに皆さんを案内する役目を仰せつかっています。イエス様は日曜日ごとに教会で私たちの礼拝を受け入れて下さいます。皆さんがイエス様のもとで、休むことが出来、「ああ、生き返った」と魂の甦りを体験することを願って、私も仕事をしているのです。私自身もこれまで、主イエスに招かれて教会に通い、み言葉を聞き、主の恵みの中に憩うことで、失敗と挫折の人生の中から立ち直る経験をしてきたことを感謝しています。
しかしながら、主イエスが疲れた者、重荷を負う者を休ませて下さると言われていることに疑問を持つ人もいるでしょう。「自分も人生の中で失敗と挫折を経験しているが、だからといってイエス様がいやしてくれるとは思えません」という人がいるかもしれません。…早い話が、疲れたときには朝寝坊したり、趣味に没頭したり、お酒を飲んだり、温泉に入ったりする方がずっと良いのではないでしょうか。…もしかしたら、クリスチャンの中にも、イエス様のおられるところではあんまり休めないから、教会に来るより自分のしたいことをしている方がゆっくり休めると思っている人がいるかもしれません。
現代人の多くは疲れきっています。子どもまで疲れた目をしています。…だから「早くこの状況から逃れて、旅行でもして温泉にゆっくりつかりたい」などと思います。旅行も温泉もそれはそれで良いことです。しかし、それだけで本当の休みになるのでしょうか、精神的に満たされるのでしょうか。主イエスのもとに来るよりももっと良いことなのでしょうか。
疲れた者、重荷を負う者が楽しみに没頭することで休むことが出来たとしても、それは一時しのぎでしかありません。ある人が言いました。人生とは、「ああ休みたい、休みたい」と言いながら、結局は、本当の休みがわからないまま死に至ってしまうものではないだろうかと。誰であれ、このような人生を送ることを主イエスは望んではおられません。
実際には、主イエスのもとに来ることで新たな重荷を負うことがあります。このことを否定することは出来ません。しかし主イエスは、その人の重荷を一緒にかついで下さるのです。イエス様が共に闘って下さるのです。だから本当の安らぎは、イエス様のもとに来ることによってのみ得られます。父なる神からすべてのことを任せられた主イエスは十字架刑を引き受けてまで、ご自分を信じる者と人生を共に生きていこうとされているのです。皆さんはイエス様に自分の人生を託すことが出来るでしょうか。すでにその人生を歩まれている方は、その思いをさらに深めることが出来たでしょうか。
心のいちばん深いところでイエス様の声を聞く人は、自分がイエス様を通して天地の主である父なる神に結ばれて、かけがえのない人生を歩んでいることを確信して、喜び、たたえずにはいられないのです。
(祈り)
天地の主である父なる神様。あなたがイエス・キリストと一つであり、イエス様を通して私たちを愛して下さることを知って、あつく感謝申し上げます。
神様は私たち一人ひとりのかかえている重荷をすべてご存じです。その重荷がどういうもので、どうすればそれを軽くすることが出来るのかということを、神様は私たち自身よりもよく知っておられ、イエス様によって究極の救いの道を与えて下さいました。私たちそれぞれがかかえている重荷を、イエス様も一緒にかついで下さいますから、休むことが出来ます。もう一度やってみようという思いが与えられます。まことに不思議な、恵みの道が私たちに与えられておりますことを感謝いたします。
神様、私たちが心のいちばん深いところ、霊の領域でみ子イエス・キリストを迎えることが出来ますように。そうしてキリストにあって、神さまの恵みのもと、苦しいこと悲しいことがあっても喜びと希望をもって生きる者として下さい。教会に集うことを楽しみとし、兄弟姉妹と信仰の喜びを分かち合いながら歩む者でありますように。また、それゆえに、教会に来ることのない、あるいはそれが出来ない人たちのために、祈り、仕える者として下さい。キリストの愛がこの教会から広島の町に広がってゆきますように。この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげします。アーメン。