神との契約

神との契約     創世記17114、ロマ4912  2024.4.21

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1394、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:80、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:191、説教、祈り、讃美歌:448、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、二つの聖書に出て来る神様が違うみたいに思っている人がいないでしょうか。旧約聖書は天地創造から始まってイスラエル民族の歴史を、新約聖書はイエス・キリストのことを中心に書いています。旧約聖書と新約聖書を両方読み比べて、旧約の神様は何か怖そう、だけど新約の神様はやさしい神様だなんて思っている人がたまにいるのですが、もちろん、二つの別々な神様がおられるということではありません。恐ろしそうな神様も愛の神様も同じ一つの神様です。

しかしながら旧約聖書に描かれている信仰者の生きかたと、新約聖書に描かれている信仰者の生きかたを比べてみると、そこにははっきりした違いがあるのです。こう言うと、皆さんも思いあたるところがあるかもしれませんね。…旧約聖書の登場人物は戦争をしたけど、新約聖書の登場人物は戦争をしなかった、これも大きな違いですが、人間の外に現れた部分だけでなく内面を見つめてみましょう。ある人が、旧約聖書では人は試験を受ける学生のようだ、でも新約聖書で人はすでに合格が約束されている学生のようだ、と言いました。どういうことかと申しますと、旧約聖書の時代、人は努力し、最善をつくして神様のいます所に近づいていかなければなりませんでした。これに対し、新約聖書を読むと、人はそれぞれ、イエス・キリストから頂く恵みの中で自分の持ち場が与えられています。努力して神様に近づき、神様を喜ばせなければ救われないということではありません。人は初めからイエス・キリストによって救われているからです。イエス様を救い主と信じる、これだけで人は誰もが、神様のみ前で自分の居場所を確保出来るのです。私たちも、その恵みの中で生かされているのです。

もちろん旧約聖書の中の人間の生き方と、新約聖書とそれ以降の人間の生き方が全く断絶しているというのではありません。旧約聖書の時代の信仰の土台の上に、イエス・キリストが打ち立てて下さった全く新しい道が開けているのです。

 

パウロがそれまで、ローマの信徒への手紙で力を込めて語ってきたのは、人が義とされるのは信仰によるということです。平たく言えば、私たちは何か善いことをしたからといって神様に正しいと認められるのではない、ただ信ずれば良いということでありました。人間にとって、これほど良い知らせはないのですが、パウロの口からそのことを聞いた人たちの多くは、すぐには信じることが出来ません、猛反発し、パウロを殺してしまおうとする人たちもいたのです。それは特にユダヤ人にとって、自分たちが大切にしていた伝統をひっくり返すような話だったからです。

 ユダヤ人にとってアブラハムとは、民族の祖先であると共に信仰の父であり、敬愛してやまない人物でありました。ユダヤ人は、アブラハムが神様から祝福されたのは、彼が「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行き、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という命令を受け、激しい心の葛藤を乗り越えて神様に最後まで忠実に従ったことにあると信じていました。しかしパウロは、アブラハムがその出来事が起こる前、神様から「天を仰いで、星を数えることができるか、…あなたの子孫はこのようになる」と言われた時、これを信じたことが彼の義だと認められたことに注意を向けさせます(創世記1556)。アブラハムが主なる神を信じ、神がこのことをもって彼を正しいと認めて下さったのが先にあります。イサクをささげようとしたのはその結果、つまり神様がアブラハムの信仰を認めて、彼を義とされたことが第一で、アブラハムが偉大な行いをしたので義とされたのではない、と主張したのです。

今日の箇所はその延長線上にあって、割礼について扱っています。割礼というと、私たちはずいぶん遠い世界のことのように思ってしまうのですが、一説によると、今日でも割礼を受けている人は世界でおよそ2億人いるということです。モンゴル、中国、日本などでは全く行われないのですが、中近東などでは病気の予防とか成人儀礼として行われています。アフリカでは女子割礼が危険で残酷だとして、たいへん大きな問題になっています。…少年ダビデがペリシテ人の巨人ゴリアトと一騎打ちをして勝ったという有名な話がありますが、彼は戦いの前、ゴリアトについて「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」と言っています(Ⅰサムエル1726)。割礼を行っているのは当時、イスラエルだけではなく、周辺のモアブ、アンモン、エドム、エジプトといった諸民族も同じだったのですが、ペリシテ人は無割礼でした。イスラエルとしては、自分たちが割礼をしているということが民族としての誇りになっていたのです。…その後、紀元132年から136年にかけて、ローマ帝国の支配に対しユダヤ人が叛旗をひるがえしたバル・コクバの乱というのが起こるのですが、その原因の一つがローマ皇帝が割礼を禁止したことにありました。こんなこと、信じられますか。でも本当の話です。…このあたり、私たちにはなかなか想像がつかないことなのですが、この民族の歴史を学ぶと少しは理解できるかもしれません。そこで、割礼が制定されたいきさつが書いてある創世記17章を見てみましょう。

 

その時アブラハムは99歳になっていました。それまで、長らく沈黙していた神が再びアブラハムに語りかけられました。神は「わたしは全能の神である」と、ご自分がどんなお方かを告げられ、そうして命令されます。「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」。

 神様がご自身のことを全能の神と言われるのは聖書の中でこれが最初です。ということは、アブラハムはそれまで神様が全能であることを知らなかった可能性があるということです。そういえば、この世界に神と称されるものはたくさんありますが、「わたしは全能の神である」と宣言したのは、私たちが礼拝している神様以外にはないようです。

全能の神はアブラハムに「わたしに従って歩み、全き者となりなさい」と命じられました。それまで、神様の前でけんめいに、神様に従って歩もうとしていたアブラハムですが、それでも信仰の上での失敗がありました。彼はのちに信仰の父と呼ばれるようになりますが、初めから完璧な人だったのではありません。神様からの働きかけがあって、その名にふさわしい者となっていくのです。

信仰とは、心の中で何となく神様を信じていれば良いというものではありません。ちょうど結婚において、二人が籍を入れなければ法的に認められないことと似ています。神様は「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て」と言われます。神様と人間の間に法的な関係が立てられます。それが契約を結ぶということでありまして、神様の側からはアブラハムに対し、「あなたは多くの国民の父となる」という言葉で子孫の繁栄を、さらに「あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」と土地についてのことを約束して下さいました。

今日、神がアブラハムとその子孫にカナンの地を与えたということをもって、ここは神が約束して下さったユダヤ人の土地だ、パレスチナ人は出ていけという人がいて、これがいま進行中の悲惨な戦争に深く関わっているのですが、アブラハムの子孫はユダヤ人だけでありません。たしかにアブラハム、イサク、ヤコブと続く流れはユダヤ人ですが、アブラハムには他にイシュマエル、のちにさらに6人の子どもが生まれ、その子孫はパレスチナ人やアラブ人になったはずです。だからカナンの地は、神がユダヤ人ばかりでなく他の民族にも与えた土地なのです。

話を元に戻します。契約とは一方通行のものではありません。神と人間の相互の間で成り立ち、取り決められるものです。神様から約束の言葉を頂いたアブラハムに対し、神は次にアブラハムの側で守るべきことを命じられます。それが割礼でした。…それは契約のしるしです。割礼は男性だけに行われますが、女性をも代表するものです。神の恵みのもとに置かれていることを体に印づけたのです。

1723節、「アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した」。26節、「アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた」。それ以来、このしるしを身につけている者は、そのことによって自分がアブラハムの子孫であり、神のものであることを証しするのです。割礼を受けた者は、そのことを通して,神とアブラハムの間で結ばれた永遠の契約に対して然り、つまりアーメンと唱えることとなるのです。割礼はこうして神様の恵みのしるし、救いの保証と見なされることになりました。なおバプテスマのヨハネもイエス様も生後8日目に割礼を受けています。医学の専門家の話では、その時期の赤ちゃんは痛みを感じないということですが、私には真偽のほどはわかりません。

ユダヤ人の間ではその後、次第に、神様の恵みのしるし、救いの保証である割礼が律法を守ることと結びつけられて考えられるようになりました。どういうことかと言いますと、割礼を受けるということはモーセの律法を守ることだ、そして律法を守っているわれわれが救われていることの保証が割礼だと信じられるようになっていくのです。…このあたりかなり複雑な事情があります。例えばバビロン捕囚の時期、異国に連れて行かれたユダヤ人には民族としては消滅する可能があったのですが、無割礼の支配民族の間で割礼を行い、律法の言葉を守りぬくことにおいて民族としての尊厳を守りぬいたということがあったようです。しかしながら、ユダヤ人において割礼は次第に形式に流れてしまい、自分は割礼を受けているから、救われていると思う人が多くなりました。体に割礼を受けるだけでなく、心にも割礼を受けることが必要なのです。

 

パウロがロマ書で言っているのは、まず、アブラハムが主なる神を信じ、神がこれを彼の義と認められた、そのあとに割礼の執行があったということです。アブラハムの割礼は信仰によって得た義の証しでありました。割礼をしたから救われるのではない、信じること、信仰が先なのだということです。

主イエスが昇天されたのち、教会が世界に広がっていきましたがその時、異邦人すなわち割礼を受けていない外国人を信者として認めるかどうかで激しい論争が起きました。ある人々は「外国人にも割礼を受けさせるべきだ」と主張しました。しかしパウロを中心とした使徒たちはこれに反対しました。割礼が形式的なものとなってしまったからです。律法の条文をただやみくもに守ろうとするだけのひからびた信仰しかない者が救いのしるしであると頼りにする割礼は、イエス・キリストを信じる者にとっては意味のないものとなってしまったからです。そこで使徒たちは、バプテスマ、洗礼をもって割礼に代わる新たなしるし、神との契約を結んだしるしであると定めます。こうして教会において割礼は行われなくなりました。 

洗礼式が行われる時、大切なのは誓約です。「あなたは天地のつくり主、全能の父なる神を信じますか」、「信じます」、「あなたは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信じますか」、「信じます」、…これらが信仰の告白なのです。私たち日本キリスト教会の信仰は、割礼を行うことや律法の順守ではなく、イエス様への信仰の告白によって立っています。それは、アブラハムが神様を信じて、正しい者とされたことを受け継いでいるのです。

しかしながら、不信仰がしのびよる時、人は洗礼についてもこれを、かつて割礼がそうなってしまったような形式的なしるしのようにしてしまうことがあるのです。自分は洗礼を受けたからもう安心だ、救われることが保障されている、だったら多少悪いことをしても大丈夫だとなってしまったら、一度はイエス様を信じて受けた洗礼も、時の経過と共にその意義が失われてしまう結果となってしまいます。その人が洗礼を受けている以上、神様の所有であり、神の子の一人であるという事実は変わりませんが、神様の前に不肖の息子、娘に過ぎなくなってしまうのです。ここにおられる、まだ洗礼を受けていない方は出来るだけ早く洗礼を受けてほしいと願いますが、すでに洗礼を受けた方についても、洗礼を受けたこと自体がその人の功績となったり、救いの保証になるのでなくて、むしろ自分が受けた洗礼にふさわしく生きるよう努めなくてはなりません。私たちが「信仰によって義とされた」ことの保証として洗礼があります。要は生きて働く信仰なのです。

 

(祈り)

 神様、私たちの多くは、洗礼を受けてキリスト者となり、神の民の一員となりました。洗礼を受けたことはまことに感謝すべきですが、水による洗いそのものに意味があるのではありません。人は水と霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないからです。

 神様、教会に救いを求めて来ながら、まだ洗礼を受けていない人が洗礼を受けて神の民の一員となるようお導き下さい。そして、すでに洗礼を受けて神の民の一員となった者も、本当の意味でそのような者となるため、思慮の浅い信仰理解から来る思い上がりがあればこれをしりぞけて下さい。洗礼を受けたからもう安心なのではなく、洗礼を出発点に、ますます深くイエス・キリストに深く結びついていく者として下さい。

 私たちの広島長束教会には年を取って何かと不自由となり、さらに病気と闘っている人がいますが、全能の神様、どうかその広いみこころによって一人ひとりの上に健康を与えて下さい。また若い人たちが世の風潮に流されてイエス様を見失うことがないように、若き日にこそ創造主であり贖い主である神様に心を向けるようにして下さい。

 

 神様、私たちが今日も新たな思いで信仰の歩みを始めることが出来ますように。とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。