生死を超えて導かれる神

生死を超えて導かれる神  詩16711、Ⅰテサ41318 2024.4.7

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1388b、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:171、説教、祈り、讃美歌:485、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏                              

 

 広島長束教会は毎年、イースター礼拝の次の日曜日に召天者記念礼拝を行っております。十字架につけられて死なれたイエス・キリストが、死に打ち勝って復活された、その喜びの中に私たちだけでなく、私たちの記憶の中にある召天者たちも包まれているからです。

 皆さんの前に置いてある写真は、みな広島長束教会に関係ある方々です。お配りした召天者名簿には29名の方々の名前が掲載されています。これら召天者の方々と私たちは生死を隔てているので、当然、直接会ったりお話しすることは出来ませんが、私たちが礼拝している今、神様によってこの方たちと結ばれた絆を確認できる恵みを感謝いたします。

 

 聖書は人間の生と死について何を教えているのでしょうか。今日与えられた箇所は、使徒パウロがマケドニアにあるテサロニケの教会にあてた手紙の一部となります。13節の「兄弟たち」という呼びかけのあとにこう書かれています。「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」

 既に眠りについた人たちというのは、死んだ人たちです。同じ教会で礼拝していた人たちですから、14節では「イエスを信じて眠りについた人たち」と言い換えられています。

 自分の愛する人が死んだ時、残された人たちが嘆き悲しむのはいつの時代、どこの国にもあることで、聖書にも、たとえばアブラハムは、妻のサラが死んだ時、「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と書いてあります(創世記232)。愛する人の死に際して、人はまことの神を信じているかどうかに関わりなく、嘆き悲しむことでは違いはありません。しかし、そのあり方が同じであるとは言えないでしょう。もちろん人の亡くなり方は多種多様ですし、死者と残された人との関係もいろいろあって、悲しみの表現もいろいろあるのですが、総じて言うなら、キリスト者の嘆き悲しみと、それ以外の人たちの嘆き悲しみとはどこかが違うのです。皆さんは、いろいろな葬儀に出た時にそのようなことを感じたことがなかったでしょうか。

 キリスト教では死者は神様のもとで生きています。だから、地上に残された人もいつの日か、亡くなった人と再び会うことの出来る望みがあるのです。私は葬儀を担当する時、悲しみの中にもそうした希望を訴えていきたいと思っています。しかし他の宗教ではどうなのか、亡くなった人と再び会う希望があるのか、会えるとしてもどういう形なのか、いろいろなあり方があるようですが、もしも死者と再び会える望みがなければ、悲しみは増すばかりで、心が慰められることはありません。…死者も現世とまったく同じように生活していると教える宗教もありますが、そういう信仰では死後の世界は現世の延長に過ぎず、「罪」といういちばん重大な問題は解決できません。また青森県の恐山では、死者の霊がイタコに乗り移ってしゃべりだすとされていますが、死者とのそのような交わりが生きている人間に益をもたらすことはありません。…中には、人が死ぬのは全くの無に帰ることだと割り切って、達観している人もいるようですが、それが死の問題の最終的な解決とはなりません。

 パウロはここで「希望を持たないほかの人々」と書いています。おそらく当時の世界でまことの神を知らない人たちにとって、死はすべての終わりだったので、愛する人と死に別れた場合、神様のみもとで再び会うという望みなどなく、ただ嘆きと悲しみの中にあったのだと思います。ただし、パウロが「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために」とわざわざ書いているということは、まことの神様を知っているはずのキリスト者の間にも、希望を持たないほかの人々と同じように嘆き悲しむ人がいたということなのです。その人たちの中にも、死者が復活するという望みはないのです。

 

 今日の箇所には、当時の教会の人々がいだいていた考え方が反映しており、それを理解しないと何のことかわからないので、まずそのところをお話しします。

15節に「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と書いてありますね。主が来られるとはイエス・キリストの再臨です。十字架につけられ、復活し、天に昇られた主イエスが再び地上に現れることです。

今のこの世界では戦争が続き、多くの人が飢えに苦しみ、環境破壊やその他の悲惨な出来事の前に人類の滅亡までささやかれています。こんな世界は、イエス・キリストが再びおいでにならなければ、本来の美しい、完全な世界になることはありません。キリストの再臨が切に待ち望まれているわけですが、それがいつのことになるのか、神様は明らかにしておられません。ただ主イエスは、いつその日が来ても良いように目を覚ましていなさいとだけは言われています。

キリストの再臨は、21世紀の今になっても実現していませんから、まだまだ先のことだと思っている人が多いのですが、初代教会の時代の人々は違っていました。再臨はすぐにでも起こると考えられていたのです。実は、パウロ自身もそう考えていました。それを表すのが、15節の「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という言葉です。自分が生きている間にも主イエスは再び来られると、パウロは信じていました。パウロの伝道によって誕生したテサロニケ教会の人々もそのように信じ、そのような期待をもって日々を過ごしていたのです。

私たちにはそのような思いがなかなか理解できないのですが、ちょっと主イエスが昇天なさった時のことを思い出してみましょう。使徒言行録の1章です。イエス様が離れ去っていかれた時、白い服を着た二人の人がそばに立って言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

そこではイエス様がいつ再臨なさるかは言われていません。しかし、これを聞いた人たちが、イエス様はまもなく、それも自分が生きている間に、再びおいでになると信じて熱烈に待ち望んだことは十分に考えられます。イエス・キリストの再臨によって全く新しい世界が始まるのです。そして、もしも、自分が生きている間にそのことが起これば、これほど素晴らしいことはないのです。その人は死を味わう必要がありません、再臨されたイエス様によって生きたまま永遠の命が与えられ、神様と共に全く新しい世界に住むのですから。

ところが、その思いに水を差すようなことが起こってきます。イエス様がまもなく再臨されるというのに、その日を待てずに眠りにつく人、つまり死んでしまう人が出てきたのです。あと少しがんばれば、再臨されたイエス様によって救いの完成にあずかれるはずだったのにと思うと、残された人は残念でたまりません。その人はいったいどこに行ったのかと思うのです。そしてさらに、自分もイエス様の再臨を見ずに死んでしまうかもしれないと思うと、自分は救いからはずれてしまうかもしれないと、いたたまれなくなってしまったのです。

現代の教会は最後の審判とか天国とか地獄について教えていますが、そのことが聖書にくわしく書いてあるのではありません。このことについて、神様は口数が少ないのです。旧約聖書に出て来る義人ヨブは、死後の世界を「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国」と言いました(ヨブ1021)。死者が行くのは大きな暗い穴の中のようなところだと思っていたのです。ヨブの口からは天国も地獄も出て来ません。主イエスも天の国とか地獄とか口には出されましたが、詳しい説明はありません。

現代の教会が人間の死んだ後についてある程度教えることが出来るのは、教会の2000年にわたる聖書の学びを通して積み上げてきたものがあるからです。パウロの時代でのテサロニケ教会の人々の認識はまだまだ不十分でした。生きているうちに再臨のキリストをお迎えできる人々はまちがいなく救われると信じていましたが、その日を待てずに死んでしまった人々は同じ恵みにあずかれないだろうと思っていたのです。つまりヨブが言っていたような、二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に行ってしまうと考えていたのです。先に死んだ愛する人たちは神様の手の届かないところに行ってしまった、そしてもし自分もイエス様の再臨を待たずに死んでしまうとすれば、やはり同じ定めになってしまうだろうと。これでは嘆き悲しまずにはいられません。

 

 皆さんは、テサロニケ教会の人々のこうした考え方をどう思いますか、どこに問題があるのでしょう。…彼らは神の偉大な力を知らなかったのです。イエス・キリストが死んで、復活されたことが本当にはわかっていなかったのです。

 パウロは14節でこう宣言します。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

 パウロは、イエス様を信じて眠りについた人たちが、今どこにいるのかということについては語りません。大事なことは、死んで復活されたイエス様が、イエス様を信じて眠りについた人たちを導き出して下さるということです。…だから、イエス様の再臨を見ずに死んでしまった人が望みがないということは決してないのです。死に打ち勝たれたイエス様の力は死者の上にも及ぶのです。イエス様は死者をも救われます。だから既に眠りについた人たちのことを心配する必要はないし、また自分が再臨の前に死んでしまうとしても、そのことを嘆き悲しむ必要はない。…再臨まで生き残るとしても、その前に死ぬとしても、どちらも同じく救いの完成にあずかることができるのだ、とパウロは言っているのです。

 先ほど申し上げたように、この時代の教会は主イエスの再臨が間近いという信仰を持っていました。パウロ自身、そう信じていました。だから15節で、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」と書いているのです。かりに従来の考え方を正しいと仮定すると、主イエスが再臨される時、信仰をもって生きてきた人が第一番目に救われ、信仰を持っていてもすでに眠りについた人たちはその次の段階で救われるか、あるいは救いからもれることになってしまいます。…しかし、そんなことはないのだとパウロは宣言します。両者共に救われるのです。

 パウロはこう言っているのです。イエス・キリストが十字架にかかって死んで、復活して下さったことは信じるけれども、すでに死んだ人にその恵みは及ばないとか、自分もその恵みからもれるかもしれないというのでは、結局のところ、何も信じていないのと変わりはないのだということです。…このことは私たちの信仰においてとても大事なところです。主イエスの十字架と復活という事実は信じるとしても、それに留まってしまったとしたら、いったい何のために信仰を持っているのかとなってしまうでしょう。

 

 ではパウロが16節以下で言っている、主ご自身が天から降ってくるということですが、これが具体的にどういうことなのかは、私は言うことが出来ません。アメリカではこれを文字通りに受け取り、再臨の日、イエス様が空から降ってきて、信者を引き上げて雲に乗せ、そのまま天に引き連れていくと信じている人がいます。…ただ、天が空のかなたにあるのかどうかはっきりしませんし、雲は神の偉大な力を表す言葉なので、これは象徴的な表現なのだと見なすことも出来るのです。肝心なことはパウロが、それまでテサロニケ教会の人たちが考えていた救いの順序をひっくり返したことです。「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が」という順序になります。既に眠りについた人たちは復活します。だから再臨まで生き残るとしても、その前に死ぬとしても、信仰を持ち続けているかぎり、どちらも同じ救いの完成にあずかることができるということではかわりありません。

 私たちは、主イエスの復活というのは歴史上ただ一度の出来事で、それ以後には起こらないと思いがちですが、そうではありません。死に打ち勝たれたイエス様はその恵みをご自分を信じるすべての人と分かち合おうとされています。歴史上最初に復活されたイエス様に続くのは、イエス様を主と信じるすべての人々なのです。
 テサロニケ教会の人々はそれまで、キリストの再臨まで生き残ることを望んでいて、その前に死んでしまうのは救いを失うこと、神の恵みにあずかれないことではないかと思っていたのですが、パウロは、「それは違う。死ぬこともまた、神様の救いの恵みの中にあるのだ、死の力も、神様の恵みから私たちを引き離すことはできないのだ」と言ったのです。その根拠が、「イエスが死んで復活された」ことにあるのです。

 

 今日、広島長束教会が記念している召天者たちもみな、死んで復活された主イエスによってその人生を全うされました。いま神のみもとで眠っているこの人たちも、終わりの日、主イエスが再臨なさる時に眠りから覚め、神のみ前に立って、イエス様のとりなしを受け、永遠の命をいただくことになるでしょう。

 そのことを知り、召天者ばかりでなく、私たちをも本当に支配しているのは死の力ではなく、主イエス・キリストにおける神の恵みなのだということを信じて下さい。神様は私たちを生死を超えて導かれます。召天者がいだいた主にある希望が私たちにとっても希望でもありますように。

 

 

(祈り)

 世界の創り主であり、すべてのものを支配したもう全能の父なる神様。あなたが大いなる愛をもって、私たちを導いてくださいますことを感謝し、み名を賛美いたします。

 いま私たちは、この召天者を記念する礼拝にあって、愛する亡き人々のことを思い、悲しみをおさえることが出来ません。しかしながら、神様が召天者の方々を、母の胎にいた時から生涯を通じて導かれ、死において天に召され、新しい命を与えて下さっと信じております。

 神様、どうか召天者を記念するこの場所で、残された私たちの心の目を開き、神様の御導きをさらにはっきりと見せて下さい。そのことで、神様を信じて生き、死んでもなおみもとで生きておられる召天者たちと同じ恵みを、私たちにも与えて下さい。私たちもクリスチャン、死を打ち破って勝利されたイエス・キリストの名前を与えらえた者たちだからです。

 

 とうとき主のみ名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。