あなたは何を見に行ったのか

あなたは何を見に行ったのか  マラキ3122324、マタイ11715 2024.4.14

(順序)

招詞:詩編1391c、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-177、使徒信条、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

主イエスは12人の弟子たちにさまざまな注意を与えた上で、各地に派遣され、そのあとおひとりで方々の町に出かけられました。そんな時、バプテスマのヨハネが獄中から弟子を送って「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました。ヨハネは、イエス様が自分が思ってもみなかった新しいことを次から次へと実践していることを聞いて驚き、この方が本当に自分が命をかけて伝えたメシアなのかと思ったらしいのですが、イエス様のお答えを聞いて安心し、喜んだことは間違いありません。

 今日は。ヨハネの弟子たちが帰ったあとのことを学びます。主イエスはここで群衆に向かって、ヨハネとは誰か、いったい何者かということを説いています。皆さんの中には、ヨハネがどんな人物であってもそれがどうしたのか、自分とは関係ない、と思っている人がいるかもしれません。…しかし、そうすぐに決めつけないで下さい。イエス様は群衆に対し、ヨハネとは誰かという問題が、つきつめていくとあなた方自身の生き方に関わってくるんだとまで言われているのです。そのことはめぐりめぐって、皆さん自身の生き方にまで関わってくるでしょう。

 

 そもそもヨハネとはどういう人だったのかといいますと、彼はイエス・キリストが現われる直前に世に現れ、イエス様のために準備をした人物です。バプテスマのヨハネとか洗礼者ヨハネと呼ばれています。らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたといいますから、まるで原始人か野人のようないでたちでした。ヨハネは突然、荒れ野に現れ、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と激しい言葉を用いながら、まもなくメシアが到来することを告げたのです。それは恐ろしい力を持ったメシアでした。ヨハネの登場は当時のユダヤ人の間で衝撃を持って受けとめられたはずです。

ヨハネはたくさんの人が住んでいる都会ではなく、ほとんど人がいない荒れ野から声を発したにもかかわらず、人々がエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から次々にやってきて、神のみ前で罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのです。……しかしながら、ヨハネはその後、無実の罪で監獄に収監されてしまいました。領主であるヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻を奪って結婚したことをとがめ、「あの女と結婚することは律法で許されていない」と非難したからです。

 ヨハネがこの時、監獄にいたというのは、ちょうどミャンマーでアウンサン・スーチーさんが軍の監視下にあったり、ロシアで最近謎の死をとげたナワリヌイさんがシベリアの監獄に置かれていたことと似ているかもしれません。ヨハネが投獄されてからそんなに時は経っていません。イエス様の前にいた群衆の多くは、ヨハネに会いに荒れ野に行って、彼の激烈な説教を聞き、罪の悔い改めの洗礼を受けた人たちだったはずです。みんなヨハネを、ユダヤの人々の前についに現れた預言者だと思っていて、崇拝する気持があったのですが、しかしそのヨハネが逮捕されてしまい、気持ちが揺れ動いていたのではないかと思います。…一方、領主ヘロデの方は、自分の結婚に対して非難の言葉を投げつけたヨハネがうっとうしくて、殺してしまいたいと思っていましたが、これを実行すると、ヨハネを崇拝する人々の怒りが爆発するのではないかとおそれ、手を下すことが出来ないという状況でした。

 

 ヨハネの弟子たちが帰ったあと、主イエスは群衆に向かって語り始めました。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」。群衆の多くは荒れ野に行っているのですが、それは風にそよぐ葦を見にいったのか、と。風にそよぐ葦というのはありふれたもので、ヨルダン川のほとりにいっぱい生えています。そんなものを見るために、わざわざ出かける人はおりません。

「では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる」。ふつうの人々にとって、しなやかな服を着、ぜいたくに暮らす人というのは、憧れの対象になるものです。見てみたいと思うものです。でも、そういう人は王宮にいるのです。当時、王宮のバルコニーから手を振っていたかどうかはわかりませんが、王宮に見にいけば良いのですから、わざわざ荒れ野に行く必要はありません。

「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。主イエスは、人々が見に行ったのは、風にそよぐ葦でも上流階級の人でもなく、ヨハネだということを、そして彼が預言者であることを確認させます。

預言者とはいうまでもなく神様から派遣され、神様が語られたことを、神様にかわって人々に語る人ですが、皆さんはご存じでしょうか、ヨハネが出現するまでの約400年の間、ユダヤには預言者が現れません。み言葉のききんとも呼ばれる状態が続いていたのです。ですから、ヨハネが現れたことはユダヤの人々にとって驚くべきことでありました。多くの人々はヨハネをついに現れた預言者と考えました。しかし、当時のユダヤ教の指導者たち、神殿の祭司長やファリサイ派、律法学者といった人々は、突然出現して、全く新しいことを教え始めたヨハネを預言者だと認めることが出来ません、しかし、かといって偽預言者だと断定することも出来ず、判断保留の状態でした。結局、多くの人々は、預言者だと信じたヨハネが投獄されてしまったので、心にぽっかり大きな穴が開いたような状態だったのです。…そのような人々に向けて、主イエスは注意を喚起させ、ヨハネを預言者だと宣言されます。それだけでなく「預言者以上の者である」と言われるのです。

主イエスはバプテスマのヨハネをどう見るかということをあいまいにするな、と言われます。ヨハネはあなたがたが実際に会って、教えを聞き、信じて洗礼を授けてくれた人ではないか、いま監獄にいるからといって忘れてはいけないと。このヨハネがどういう存在なのかを考えることは、その人の人生がかかってしまうほど重大なことでした。…主イエスはヨハネが預言者であること、いやそれ以上の者であることを論証するために、旧約聖書の言葉を引用されます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」、これはマラキ書3章1節の言葉で、そこから、ヨハネが出現することがすでに大昔に神様が予告されていたということが証明されます。ヨハネはやはり、神が遣わされた預言者だったのです。

しかし、そのあと、意味の取りにくい言葉が並んでいます。まず「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」ですが、どんな人も女から生まれ、それ以外の経路をたどって生まれた人はいないわけですから、これはすべての人間のことです。しかし、ヨハネより偉大な者はいないとなると、じゃあヨハネはアブラハムより偉かったのか、モーセよりすぐれていたのかということにもなって、そういう比較をするとわけがわからなくなります。もう一度27節の言葉を見ましょう。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」。ほかの預言者の中にもイエス様の到来を予告した人がいましたが、ヨハネほどはっきりイエス様の姿を示した人はいません。また、ヨハネほど力を尽くしてイエス様のために準備を整えた人はいなかったのです。つまり、救い主イエス様との関係において、イエス様の先駆けになったところにヨハネの誰よりも偉大なところがある、ということなのです。

 

ところが、主イエスのそのあとの言葉はさらに難解になっています。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。皆さん、この意味がわかりますか。最も偉大な預言者のヨハネが、神の国では最も小さな者よりも小さいと言われるので、わけがわからなくなってしまいます。二千年前の書物を読む時、こういう困難があるのですが、これはおそらく次のようなことなのです。

ここで天の国というのは、決して遠くにある天国のことではなく、神の支配と言い換えることが出来ます。神の国です。イエス・キリストの到来と共に天の国、つまり神の国が誕生し、やがてそれは広がっていきます。全く新しい時代が始まったのです。だとするとバプテスマのヨハネは、イエス様のために道を整え、神の国の誕生のために誰よりも大きな働きをした人であることにはかわりないのですが、イエス様が登場して以降、ほとんど役割を果たしていません。イエス様の前に引き下がった、イエス様の前に道を譲った人なのです。老兵は死なず、ただ消え去るのみ、そのまま消えていく人でしたから、イエス様と共に新しく始まった天の国、神の支配においては何の役割も果たしていないことになりますね。偉大であるかそうでないかは、職務の大小について言われているのです。イエス様によって新しく始まった天の国においてヨハネは用済みになってしまった、だから天の国において最も小さな役割しか果たしていない人でも、ヨハネよりは偉大なのだという論法なのです。

主イエスはここで、ヨハネの役割に目を向けさせ、ヨハネとはどういう人かを示した上で、新しく始まった天の国における一人ひとりの役割について注意を喚起されます。

主イエスは「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言われます。これもまたわかりにくい言葉で、日本語としても変です。原文はこのように訳せるけど違うようにも訳せるというような感じでまことに面倒なのですが、リビングバイブルはこう訳しています、参考にして下さい。「ヨハネが説教し、バプテスマを授け始めてから現在まで、大ぜいの熱心な人々が、天国を目指して押し寄せました」。繰り返します、「ヨハネが説教し、バプテスマを授け始めてから現在まで、大ぜいの熱心な人々が、天国を目指して押し寄せました」。

ヨハネが登場して以来、激動の時代が始まったのです。変なたとえですが、昔アメリカでゴールドラッシュが起こった時、一攫千金を求める人々がわれもわれもと押し寄せてきた、そのように、ヨハネが登場して以降、歴史上かつてない時代が始まった、大勢の人たちが救いを求めて、われもわれもと押し寄せている、ということなのです。

 それまでの長い時代、メシアが来ると予告されてはいましたがその恵みにあずかれる人はいませんでした。しかし、今やその時が来ました。ヨハネは神様が遣わすと約束された預言者エリヤであり、彼が準備した道の上についにメシアが現れたからです。主イエスの登場によって、目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らせている、というのは新しい時代の到来を証ししています。イエス様はご自分のことをあからさまには言われませんが、ここで、ご自分が来ることによって偉大な時代が始まったことを告げておられます。ふつうに考えると、新しい時代が来るために献身したヨハネをもっとたたえても良いんじゃないかとなりそうですが、イエス様はそのことを横において、ご自分の言葉を聞くすべての人に対し、あなたはこんなに面白い、素晴らしい時代に生きているのだから、その恵みの中で神様を賛美しつつ、もっと真剣に、もっと自由に生きなさいと命じておられるのです。

 

ヨハネが役割を終えたあとの新しい時代に生きる人々は、ついに現れたメシア、イエス様との交わりの中で生きており、今や十字架と復活の恵みに直接にあずかっています。私たちも、イエス様の言われる、天の国の中で生きる者です。私たちは天の国の中で最も小さな者ではないでしょうか。しかし、こんな私たちえさえ。ヨハネの知らなかった恵みを受けているのです。イエス様との結びつきは、ヨハネを含む旧約時代のどんな信仰者よりも強いのです。だからイエス様の言い方に従えば、おそれおおいことですが、私たちでさえ、ヨハネより偉大だということになりませんか。

 

皆さんに、今日のお話の最後に思い出していただきたいのは、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」という言葉です。私たちは荒れ野に行くことはちょっとありませんが、しかし毎週行くところがありますね。だからこれは、「あなたがたは、何を見に、教会へ行ったのか」ということなんです。教会の礼拝に出て神を拝み、イエス様と出会う、これはよく考えてみるほどに得難い経験なのです。だから、これをないがしろにしてしまうと、イエス様から、「あなたがたは、何を見に教会に行ったのか」と言われてしまうでしょう。

私たちも自分が思っている以上に恵まれているのです。イエス様と共にある時代に生きているからです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。世界の長い歴史の中で、神様は救いのみわざを進めて来られました。私たちがなかなか想像もつかなかったことですが、今日、イエス・キリストがおいでになったあとの、素晴らしい時代に私たちが生きているということを教えられ、感謝いたします。

 私たちは天の国の中で最も小さな者です。しかし主イエスは、この私たちがバプテスマのヨハネより偉大な者だとおっしゃいます。イエス様との生きた交わりがあるゆえに、そのことを知らずに去っていったヨハネより偉いと言われたのです。もったいないお言葉です。私たちはそれぞれ自分の人生の中で不平不満をためこんでいるかもしれませんが、実はそれほどの恵みを受けた者として、この場所にいるということを感謝し、どうかそれぞれの生きる場で神様の栄光をあらわしていくことが出来ますように。私たちの信仰を主イエスによって強め、導いて下さい。私たちは社会の中でも小さな存在にすぎませんが、どうか私たちがしようとしていること、していることが、神様が導いて下さった狭い門から入る狭い道の中にあり続けますように。

 広島長束教会の会員や求道者など、一人ひとりの健康を守って下さい。 

 

 この祈りを、とうとき主イエス・キリストのみ名によって、お捧げします。アーメン。