いつもあなた方と共に

いつもあなた方と共に  イザヤ6012、マタイ281620 2024.3.31

 

(順序)

前奏、招詞:ヨハネ1125、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:454、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:151、説教、祈り、讃美歌:148、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌207)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 今日のこの礼拝は合同礼拝で、教会に子どもたちも集まっていますが、皆さんはこれまで偉い人のお話とか偉人伝などを読んだり、聞いたりしたことがあるでしょう。偉人伝の中にはたとえば野球のイチロー選手のように、今も元気で活躍している人の伝記もありますが、それ以外はすべてその人が生まれたところで始まり、死んだところで終わっています。人間は誰でも最後に、死んで終わるからです。けれども歴史上、ただ一つだけ例外があります。それがイエス様の伝記です。イエス様だけは死んで終わっていません。イエス様は死なれたあと復活されて、永遠に生きておられるからです。

 

 私たちは毎年クリスマスにイエス様がお生まれになったことをお祝いしています。イエス様は今からおよそ2000年の昔、天からこの世界に降って、ユダヤの地でお生まれになりました。イエス様はその後、ユダヤの地をまわって神様のことを教え、病気の人をいやし、ひとりぼっちで悲しんでいる人の友だちになられたことは皆さんもよく知っていることでしょう。しかしイエス様の評判が高くなればなるほど、イエス様がうっとうしくてたまらないという人も増えてきました。その結果イエス様はつかまえられ、十字架にはりつけにされて死んでしまわれたのです。それはイエス様を慕い、救い主として仰いでいた人たちにとって、これ以上考えられない悲しく、恐ろしい出来事でした。生きる望みがすべてなくなるにひとしいことだったのです。

 ところがイエス様が亡くなられから三日目の日曜日の朝、とんでもないことが起こりました。弟子たちのところに女の人たちがかけこんできて「イエス様は甦られました。お墓にご遺体はありません。」と言うのです。その日の朝、この女性たちがイエス様のお墓に行くと、お墓はもぬけのから、そこにみ使いがいてイエス様は復活されたと告げたのです。さらに、そこから戻ってくる途中、今度は生きているイエス様ご本人に会ったというのです。この時、イエス様は言われました。「怖がらなくていいんです。男の弟子たちにガリラヤに行くように伝えなさい。」

 この話を聞いた弟子たちは信じられませんでした。それもそのはず、世界の歴史の中でそれまで、死んだ人がよみがえったなんてことは聞いたことがなかったからです。皆さんだって、まさかそんなことがって思うでしょう。しかし、イエス様はそのあともたびたび現れなさいました。弟子たちも次第にイエス様は本当によみがえられたのだと信じるようになりました。そんな中で、ガリラヤの山でのイエス様との出会いが行われたのです。

 

 弟子たちはガリラヤの地に向かい、かねてよりイエス様から指示された山に登りました。するとそこにイエス様が現れなさいました。おそらく天から降って来たのでしょう。みんなイエス様をひれ伏して拝みました。いまそこにおられるイエス様こそ神であり、救い主であられます。自分の人生のすべてを捧げても悔いのないお方です。ところが、聖書はこんなことを書いています。イエス様を拝みながら、しかし心の中で疑っている人がいたというのです。「これは本当に十字架にかけられて死んだイエス様なのか。おれたちは夢でも見てるんじゃないか」と思ったのです。自分が見ているのが本当のことなのか、それとも夢の中のことなのか、わからなくなってしまったのです。ここを読んで「イエス様の弟子ともあろう者がなんたることだ」と残念がる人がいるくらいで、イエス様の弟子でさえ何が本当なのかわからない、復活というのはそれほど信じがたいことだったのです。

けれどもイエス様が目の前まで近く寄って来られた時、心の中で疑っていたお弟子さんもついに、それが本当によみがえられたイエス様であると信じるようになったのです。その理由は何だったのか、聖書には書いてありませんが、私は、弟子たちがこの方の口から出た言葉を聞いたことで、そこにおられるのがまぎれもなく、死んでよみがえられたイエス様だと信じたのだと考えています。

イエス様はどのようなありさまで復活されたのか、聖書には、イエス様が亡霊ではないこと、魚を食べられたこと、鍵のかかった部屋の中に入ってこられたこと、イエス様を見た人がそれがイエス様だと気づかなかったことなどが書いてありますが、実際、よくわかりません。その方向で考えてもなかなか答えにたどりつけないのです。しかし十字架につけられたイエス様を見上げる時、イエス様が復活されたことが見えてきます。理屈ではないところに真実があるのです。……私たちだってイエス様の復活をなかなか信じられません。「キリスト教の話は素晴らしいけど、復活だけはどうしてもわからない」と言った人がいました。信じられないのは当然といえば当然です。しかしイエス様はその疑いの心を打ち破って下さる方なのです。

 

 こうしてイエス様は、弟子たちの前に、死に打ち勝って復活された方として、現れなさいます。イエス様は言われます。「わたしは父なる神様から、宇宙と世界のすべてを治めることを許されました。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。イエス様は弟子たちに、世界のどこにでも出て行って、すべての人がイエス様を信じるようにしなさい、とおっしゃったのです。

 それは途方もないことでした。弟子たちは、「イエス様、そんなことを言われても、たった11人の私たちで何が出来るんですか」と思ったのではないでしょうか。でも大丈夫です。イエス様が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って下さったからです。…イエス様は十字架につけられる前、私たちと同じ生身の人間でした。だから同じ時刻に違う場所にいることは出来ません。広島にいながら同じ時刻に東京にもおられるなんてことはないのです。しかし復活なさった今、イエス様は自由自在に、世界のどこにでも出かけて、イエス様を祈り求める人のそばについていて下さるのです。

 その時まで、弟子たちを含むすべての人々の中におそれやあきらめの気持ちがいっぱい満ちていました。強いやつにはかなわないとか、お金持ちにはかなわないといったことがありましたが、中でも、死にかなうものなどないという気持ちがいちばん大きかったのです。誰も、人が死ぬという定めから逃れることは出来ない、神様だって人を死から救うことは出来ない、と思われていたのです。ところがイエス様は、十字架につけられて死んだのに復活されました。神様が死より強いことがそれでもって世界に宣言されたのです。このことを知ったことで、弟子たちは信じられないくらいの喜びに満たされました。だから、そのあと世界の果てにまで出かけて、イエス様のことを語り伝えました。イエス様を信じて、罪と死から救われ、幸せな人生を全うしましょうと呼びかけていったのです。そうして人々に洗礼を施し、教会を建てて行きました。それは死んでよみがえられたイエス様が一緒におられたからこそ、出来たことでした。

 イエス様は弟子たちを派遣されましたが、その弟子たちがいなくなった後今度は、弟子たちの弟子を派遣され、そうしてイエス様を信じる人を世界中に起こして下さいました。その中に皆さんもいます。イエス様を信じる信仰はユダヤからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパからアメリカに、そして日本に、広島に来ました。イエス様はここにいるみなさんにも言って下さいます、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

この世の勢力は、イエス様を十字架をもってしても打ち倒すことが出来ませんでした。死に打ち勝たれた方、イエス様が私たちみんなの救い主であられるとは何と素晴らしいことでしょう。皆さんの中に、いま苦しい思いをいだいたままここにいる方がおられるかもしれませんが、どうかこのイエス様がついておられることを忘れないで下さい。命満ちあふれるイエス様の恵みが皆さん一人ひとりの上にありますようにと願います。

 

(祈り)

 天の父なる神様。今私たちがこのイースターの礼拝で、神様を賛美することの出来た恵みを心から感謝します。

 イエス様は私たちの疑いの心をも打ち破って、本当に復活なさいました。死を打ち勝って復活されイエス様が、いま私たちと共におられます。有難うございます。神様、イエス様がよみがえられたことをもって、私たちに生きる望みを与え、弱い心を強くして下さい。こうして私たちみんなが、明るく幸せな、いのちの道を歩むことが出来るようにして下さい。また教会の外にいる多くの人たちにも、死を超える希望があることを示して下さるようにと願います。

 いまここに出席している子供たちのために祈ります。みな、神様の大切な子供たちです。どうかこの子供たちが神様の御守りの中、復活されたイエス様に導かれ、すこやかに成長していくようお願いいたします。お年寄りのためにも祈ります。どうかその一人ひとりの上に健康を与え、永遠の命をいただく希望をもってこれからも歩ませて下さい。

 

とうときイエス様のお名前によって、この祈りをお捧げします。アーメン。