真実の証言とは

真実の証言とは  出エジプト2016、エフェソ4:2532 2024..17

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1387a、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:26、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:142、説教、祈り、讃美歌:260b、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 「隣人に関して偽証してはならない」、これはモーセの十戒の中の第九の戒めで、その意味するところはまず、裁判の席で虚偽の証言をしてはならないということにあります。

聖書には昔のイスラエルでの裁判のありさまがたくさん出てきます。出エジプト記の18章には裁判制度の始まりがあります。十戒が与えられる前のことです。モーセがイスラエルの民の裁き手でした。もめごとや犯罪があると裁判官モーセが判断し、判決をくだして、皆が納得するようにことをおさめていたのです。そうしなければ社会の秩序を保つことが出来ません。人々の生活が成り立ちません。しかし、やがてモーセ一人では間に合わなくなりました。人々が朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいるのを見たモーセのしゅうとのエトロという人がモーセに忠告しました。このやり方はどうしたことか、あなた一人ではこの仕事は負いきれないと。そこでモーセは裁判の仕事につく人を任命し、小さな事件は彼らに任せ、難しい事件だけを自分のところに持って来させるようにしたのでした。

こうして裁判官の数はいちおう整いますが、裁判でなんといっても大切なのは証拠となるものです。もめごとや争いごとにおいて、真実を明らかにするためには証拠がなければなりません、特に証人の証言が必要でした。

申命記19章には証人の数についての規定があります。15節を読みます。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人によって、その事は立証されねばならない」と。…しかし、たとえたくさんの証人がいたとしても、みんなが口裏を合わせて虚偽の証言をしたなら、無罪の人が処罰されてしまうことになります。死刑になってしまうことだってあるのです。それだけに、証人となった人は何があっても真実を語ることで、正しい証言をしていかなくてはなりません。

裁判というと自分にはあまり関係がないように思ってしまう人がいるかもしれません。しかし、人と人が隣り合って住み、社会をつくるとき、裁判がしっかりしていないとその社会は根底から崩れてしまいます。国の指導者がひどい政治をしたり、力のある者が好き勝手にふるまったりし、法律もあってなきがごとく、人々が塗炭の苦しみをなめているとき、唯一の希望は裁判所だということが少なくありませんし、だからこそそこで行われる証言が重要なのです。    

私は伊方原発運転差止広島裁判に関わっていく中で、裁判における言葉の大切さを知りました。裁判所で使われる言葉は、時に普通の日本語能力では歯が立たないくらい難しくなることがあり、何を言っているのかわかりづらい言葉に隠れてごまかしや不正が入りやすいのです。もしも裁判所が不正の温床になってしまい、法を曲げてでも有力者のごきげんをとっていたとしたら、それはもはや人々の信頼に値する社会ではありません。裁判の権威が確立してこそ国は成り立ち、社会も機能していくのです。

そのことの重要な一つの例としてナボトのぶどう畑というお話があります。列王記上の21章に書いてあるお話です。アハブという王の宮殿の隣にぶどう畑があり、その持ち主をナボトと言いました。よっぽど素晴らしいぶどう畑だったのでしょう。アハブ王はその畑を買い取ろうとしましたが、ナボトの方はどうしても承知しません。そこで王の妻であるイゼベルが策略をめぐらして、二人の証人を立て、ナボトが神様と王様を呪ったと虚偽の訴えをさせたのです。ナボトは死刑になりました。そこでアハブ王がナボトのぶどう畑を自分のものにしようとして出かけると、預言者エリヤが現われて、王に神の裁きの言葉を伝えたのです。……この世では王に対抗する力を持っている人は誰もいませんでした。しかし神はそのようなことを決して許されないことがこの話を読んでいくうちに明らかになります。

法廷における答弁は真剣なものでなければなりません。その言葉によって人が生きるか死ぬかまでもが決定されてしまうのですから。……それだけに、そこは人間の罪があらわれやすいところです。誘惑が起こりやすいところです。

裁判における偽証、これは神の戒めにそむいても自分にとって利益だと思ったら他人を陥れてもかまわないという気持ちがなせるものです。…それはついにイエス・キリストの裁判にきわまりました。イエス様の裁判のとき、多くの人が偽りの証言をしてイエス様を非難しましたが、その証言もくいちがっていたということが聖書に書いてあります(マルコ14555659)。イエス様は当時の法律に照らしても違法な裁判によって、命を断たれたのです。

神はただ裁判でうそをついてはいけないと教えているのではありません。それ以上のことです。個人レベルの倫理というより社会の中での正しい生き方です。公の場での言葉の使い方において、隣人に対する義務と責任を果たしなさいということなのです。

法廷という公の場で真実が語られなければ、どうして日常生活の場で真実が勝利すると言えるでしょうか。ふだん家庭や地域社会では良い親、良き市民で通っていながら、もしも法廷という公の場で偽りの証言をするなら、その人は良い親、良き市民でもなかったのです。法廷という公の場における真実の証言こそ、国全体に祝福が広がってゆく原点です。

 

さて第九の戒めにはただ「偽証してはならない」と言うだけでなくて、はっきり「隣人について」と記されています。ここから私たちは、真実の証言についてさらに深く考えることが出来るのです。神は「隣人について」ということをつけ加えることによって、隣人の名誉や人格を重んじることを教えているのです。

エフェソの信徒への手紙4章25節にはこう書いてあります。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」。続けて29節、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。

ここにはいっけん簡単そうだけれども含蓄のある言葉があります。偽りの言葉に生きるのは古い人間の態度です。イエス・キリストによって救われた人は、他の人々と共に生きる中で、根本から偽りを捨て去り、悪い言葉を口にしないようでなければなりません。私たちが偽りを言うとき、隣人との真実の心のふれ合いはありません。そして偽りがばれると隣人との関係も断ち切られてしまいます。しかし私たちは互いに、大きな枝につながる一部分です。自分のためだけではなく、お互いがお互いのために生きることが出来るよう、結ばれているのです。

真実の証言についての戒めは、人と人が織り成す社会の中での事柄です。この戒めは法廷の上での態度にとどまらず、私たちの口から出るすべての言葉についても当てはめていかなければなりません。しかし、このことは簡単ではありません。聖書は悪い言葉を口にするなと言いますが、悪い言葉ほど人間が好きなものはないからです。法廷以外でも偽りの証言はたびたび見られます。そんなことはない、悪い言葉が好きなのはお前くらいのものだと言われるくらいなら良いのですが。

出エジプト記23章1節に「あなたは根拠のないうわさを流してはならない」という言葉があります。しかし、根拠のないうわさは今も大手をふるって歩いています。人が隠して起きたいことを暴き出し、その行動に対して悪意に満ちた解釈をすることによって隣人の名誉や尊厳を傷つけるということがたびたび起きています。これは裁判の席ばかりでなく、一部のジャーナリズムにおいて、また人と人同士の交際においてもひんぱんに起こっています。その根底には人間の罪の現実があるのです。

根拠のないうわさを流す人が悪いのはもちろんです。が、そのようなことを聞くのを喜ぶ人もたくさんいます。私たちはどうでしょうか。……週刊誌などによく有名人やタレントのスキャンダルが載りますね。それまで世間からちやほやされていた人が、あることをきっかけに袋叩きになってしまうのです。その背後には、他人の悪事を聞くことを好み、その人が落ち目になるのを見て拍手する人が大勢いるからです。それまで雲の上の人だと思っていた人が恥ずかしい失敗をすると、あああの人も自分と同じレベルの人間だったのかと思って安心するからではないでしょうか。

私たちのふだんの生活でも同じです。私たちは隣人から良いことを聞くのは退屈で、それより悪いうわさを聞くことを好みます。うわさ話でその場が盛り上がることがあります。人の悪口ばかりしゃべる人もいます。

人は自分がいかに悪い人間であったとしても、他人が自分を良く言ってくれることを望みます。自分が悪く言われたり批判されることはなかなか耐えられませんが、それでいて他人を悪く言うことを好みます。他人をほめることはなかなかおっくうなのです。全く矛盾していますね。

根拠のないうわさを流したり、悪口を言う、このような無責任な言動はそこに登場する人を傷つけるのはもちろん、それを喜んでしゃべる人の価値をもおとしめます。他の人の悪い評判が耳に入ってくるのはある程度避けられないことですが、それを面白がってさらにほかの人にふれまわるのではなく、これを他山の石とすると共に、聞いたことを胸にしまっておくことも必要です。隣人の悪いところではなく良いところを語り、それでもって話が盛り上がることこそ目指していかなければなりません。

 

しかし、そうしますと他人を評価することは出来なくなってしまうのかという疑問が出てきます。私たちは自分が出会う人たちを心の中で評価するばかりでなく、それを口にします。学校の先生は生徒の通知表を作り、会社は社員の評価をします。男女が互いにあの人が良いなとか良くないとか品定めするときがあります。本人に向かって、そうした評価を口に出すときがあります。そうしたとき、どこからどこまでが許されるのかという問題が出てきます。

まず、私たちは人を正確に評価することなど出来ないということを踏まえたいものです。ある人が言ってましたが、他の人への評価を口にする場合、自分の知る範囲においては、この人はこうだという謙遜さが求められます。神様ならすべてをご存じですが、自分の知っているのはその人のほんの一部分でしかありません。ひどい人だとしか思えない人でもよく見れば良い点があるかもしれませんし、どんなに良い人だと思っても悪いところがあるかもしれません。その点を考慮せず、あの人は全然だめだということでその人を全面否定するような言い方がされることがありますが、それは少しも建設的な結果を生みません。エフェソ書4章29節、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられように、その人を造りあげるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」、このことがすべてを語っているのではないでしょうか。

自分の舌を制御できる人は一人もいません。よく政治家が口をすべらして失敗し、「誤解を与えたとすれば申し訳ない」などと弁明しますが、口で失敗するのは政治家だけではありませんね。あの時あんなことを言わなければというようなことが、これから先ないためにはどうしたら良いでしょう。それは、ただ口に気をつけるだけでは足りません。心から神を愛し、そうして隣人を愛することから始まるのです。……神様の前に偽りを言わないのはもちろんのこと、隣人を愛しているとき偽証してはなりません。根拠のないうわさ話をすることも、他の人を悪しざまにののしることもないでしょう。第九の戒めに反することは、すべて愛がないことの現われです。キリストの愛があってすべての偽証の罪は消え去ります。どうか私たちの日々の言葉が、神の愛を映し出す言葉となるように祈り求めたいと思います。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。いま礼拝の恵みにあずかっている私たちに真実の言葉が与えられますように。裁判の席に出たときはもちろん、ふだんの生活におきましても、神様の前で、人と人との間に心を通わせる言葉を口から出すことが出来ますようにとお願いします。…これまで心のこもらない言葉によってどれほど人を傷つけてしまったでしょうか。人に傷つけられたことはなかなか忘れないのに、人を傷つけてしまったことは忘れてしまいがちな私たちですが、今後はそのようなことがありませんように。イエス様にならって、少しでも真実な言葉を語る者として下さい。

 

そして、もしも私たちが心をつくしてあたたかい言葉をかけているのに、心を閉ざしている人がおりましたら、どうかその冷え切った心をとかして下さい。誰も自分から不幸になろうとは思いません。しかしそうなってしまいがちなのは、みな神様から離れてしまっているからです。神様が願っておられるのは人々が互いにいがみあうことではなく、共に愛し合うことです。どうか神様の力が、まず礼拝に集う者たちの間から現われますように。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。