獄中からの賛美

獄中からの賛美    イザヤ35110、マタイ1126  2024.3.10

 

(順序)

招詞:詩編1386、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:301、使徒信条、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

バプテスマのヨハネが入っていた牢獄は、死海という湖の東岸にあり、現在もヨルダンに残っています。

死海は、塩分が海水の6倍ほどあり、どんなかなずちでも沈まない湖として有名です。そのすぐ東に山が連なっています。死海の湖面からの高さが1200メートルと言われる山の頂に、昔ユダヤの王はとりでを築き、城壁をめぐらし、町を造ったそうです。今では廃墟になってしまいましたが、この天然のとりでに、敷きつめられた石だたみがあり、地下牢の跡があります。その中で、ヨハネは囚われの身になっていたのです。

私を含め、今ここにいる人の中に牢獄に入った経験のある人はおりません。そんな人がいてもかまわないのですが。……私たちは、いわば善良な市民の一人として、牢獄に入るような人は自分たちとは違う、悪い人なんだと思いがちです。しかし、悪い人ばかりがそこに入るのではありません。無実の罪を着せられて入る人もいれば、正しいことをしたり言ったりしたために、時の政府から憎まれて投獄される人もいます。

バプテスマのヨハネがどうして牢獄に入ることになったか、そのいきさつはマタイの14章やマルコの6章に出ています。ヨハネはユダヤの荒れ野の中から、力強く神の教えを宣べ伝え、洗礼を授けていましたが、その頃、ローマ帝国にユダヤの国の統治を任せられていた領主ヘロデ、有名なヘロデ大王の子でヘロデ・アンティパスと言いますが、自分の異母兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを奪って結婚するという事件を起こしました。ヨハネはこれを認めることが出来ず直接、領主ヘロデに向かって「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と告げたのです。その結果、彼は捕らえられてしまいました。

ヨハネが牢獄に入ったのは、30代前半だったと考えられます。ヨハネはそのあとしばらくして、領主ヘロデによって殺されてしまいます。若い身空で鎖につながれ、臭い飯を食べ続け、しかもそう遠くないうちに殺されてしまうのです。

ヨハネは捕らえられてから死ぬまでの間に何をして、何を思って生きていたのでしょうか。聖書に記録されているのは、彼がキリストのことを聞き、自分の弟子たちを送って、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたということです。

 

ここでバプテスマのヨハネとイエス・キリストの関係を簡単におさらいしておきましょう。ヨハネの母エリサベトとイエス様の母マリアは親類同士で、ヨハネが生まれてからおよそ半年後にイエス様がお生まれになっています。

その後ヨハネはユダヤの荒れ野に野人のような姿で現われて、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というメッセージを力強く語りました。ヨハネの役割は、大昔から預言されていた救い主がついに現われたことを伝えて、人々を悔い改めさせ、洗礼を授けることでした。

ヨハネの一生は、ただただ救い主キリストに仕えることのためにありました。ヨハネはイエス様について、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と語っていましたが、ついにイエス様が現われ、ヨハネはこの方に洗礼を施しました。ヨハネはそのあともずっと、イエス様のことを語っていました。それは救い主が来られたことで、神が直接に自分たちを導かれる全く新しい時代が始まったということでありました。

 

しかし、そうだとすると、ヨハネが牢獄の中からイエス様に向かって、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのは、たいへん不思議な感じがいたします。そうではないでしょうか。皆さんはどう思われますか。

それまで人生のすべてを費やして、イエス様のことを宣べ伝えていたヨハネがいったいどうしたことでしょうか。これは、それまで「イエス様を信じなさい。この方こそ救い主キリストです」と言っていたヨハネが、この期に及んで「イエス様。あなたは本当にキリストなのですか。それとも他の人がキリストなんですか」と聞いたようなものです。ヨハネともあろう人が、まるでイエス様のことを疑っているかのように見えるのです。……だからこの場所は、聖書の中でも解釈の難しいところとされてきました。

そこで、ある人は考えました。それまで自分の持っているものすべてをかけてイエス様のことを伝えていたヨハネでしたが、牢獄に閉じ込められ、あまりのつらさ苦しさのためにすっかり心がくじけて、イエス様を信じられなくなったのだ、心がぐらついてしまったのだと。……しかし、ヨハネはそれほど弱い人間だったのでしょうか。

次にこういう話が出てきました。ヨハネ自身の信仰はびくともしなかったのですが、彼の弟子たちの中で、「イエスという男が本当に救い主かどうか疑わしい」という者がいた、そこでヨハネは弟子たちを直接イエス様のもとに送って、イエス様ご自身の口から答えてもらおうとした、と言うのです。……しかし、これは考えすぎのようです。聖書では、弟子たちを送って、尋ねさせたのははっきりヨハネだと書いてありますから、この説はだんだん説得力がなくなっていきました。

そういたしますと、真実はいったいどこにあるのでしょう。結論から申しますと、ヨハネの心がぐらついたということはやはり本当だと考えられます。しかし、それはヨハネの信仰が弱かったのだと片付けられるようなことではありません。

マタイ福音書の3章には、ヨハネがイエス様について語った言葉がありますが、その中に「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)という言葉があります。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」、これはたとえを用いてイエス様のことを語っているのです。そこに出て来るのは、率直に言って、恐るべき力を持ったキリストの姿です。ヨハネが声をからして語り、待ち望んだ救い主とは、神の怒りを体現なさる方、人々の罪を容赦なく裁いてゆく恐るべき存在でありました。

ところが、です。ヨハネが伝え聞いたイエス様に関する情報はそれとは違うのです。神の怒りを体現する、恐るべき力を持った救い主とは思えません。…イエス様は人々に嫌われていた重い皮膚病を患っている人に手を伸ばしていやされました。徴税人を呼びとめて弟子とし、その人たちと一緒に食事をしました。その一方で、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々が行っている断食をしようとはしません。つまりヨハネはイエス様の噂を聞くたびに、面食らってしまったのです。

ヨハネは自分の命をかけて領主ヘロデと対決した人です。正しいと信じたことのためには、どんな権力者が相手であってもひるまない、勇気ある伝道者でした。……このヨハネから見て、イエス様がなさっていることは物足りないのです、厳しさが足りないように思えたのです。「イエス様が本当に救い主ならば、なぜ悪人を滅ぼさないのだ?なぜ俺を救いに来ない?ユダヤの王となって軍隊を指揮することだって出来るはずだ。小さな仕事ばかり、いつまでやっているんだ」とも考えたかもしれません。

繰り返しになりますが、ヨハネはその人生をかけてイエス様に仕えて来た人です。それなのに、もしもイエス様が救い主でなかったら、キリストでなかったとすればどうなるでしょう。……ヨハネには、自分がヘロデのために殺されるかもしれないという予感があったことと思います。生涯の終わりが遠くないだろうことを予感しているヨハネにとってみれば、自分がすべてをかけて追い求め、人にも説いて来たイエス様がかりにも偽物の救い主だとしたら、死んでも死にきれません。いわばほかの誰にも増して、すべてをそこにかけたために、彼はイエス様に対し問いを発せずにはおれなかったのです。イエス様を疑ったからと言って、誰がヨハネに対し、信仰が足りないのだと批判することが出来るでしょう。

 

ヨハネの質問を受けたとき、イエス様はご自分がヨハネの追い求めてきた「来るべき方」かどうか明言なさいません。そのかわり「言って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。私のしていることを見なさい。聞きなさい。そして自分で判断しなさいと。……イエス様が救い主キリストとして信じるに足るお方かどうか、それは人から教えてもらってああそうですかとすませられることではありません。その答えに自分の人生がかかっているのです。自分で見て、自分の頭で判断することがなければ、意味がないのです。

イエス様は続けてこうも言われました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は告げ知らされている」。

皆さんはこの言葉がイザヤ書から来たことがおわかりでしょうか。イザヤ書35章は、「荒れ野よ、荒れ野よ、喜び踊れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」で始まるきわめて美しい歌です。4節の最後の行から読みます。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。

見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が聞こえる……そこには神の国が始まったしるしがあります。イエス様が来られて初めて、こう言ったことが本当のことになりました。……福音書には病気の人や障害を持った人、またそれらのことで人々から差別されていた人がイエス様によっていやされ、救われたた話がたくさん書かれていますが、そんなことはそれまでなかったことなのです。つまりイエス様が、悩み、苦しみ、病んでいる人たちと共におられ、この人たちを救って下さった、そのことを見ずに、「イエスは来たるべき救い主キリストだ」だと言うことは出来ません。……イエス様の口から「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉が発せられたのも重要です。それまで、貧しい人は神様の救いから漏れていると考えられていた可能性がありますから。……なるほどイエス様は悪人を実力をもって滅ぼしたり、貧しい人々を立ち上がらせて武装蜂起させるようなことはなさいません。しかし、それにかわる、いや、それ以上の喜びの出来事、解放の出来事が始まっています。それが、神様が人間と共におられるということです。新しい世界が古い世界にとって変わりつつあります。イエス様はこの現実を見なさい、とヨハネに勧められたのです。

 

イエス様の言葉を伝え聞いたヨハネはどう思ったでしょうか。聖書にはヨハネの反応は何も書いてありませんが、彼が喜びと感謝をもってそのメッセージを受け取っただろうことは間違いありません。

暗い牢獄に閉じ込められていたヨハネはこの時、不安も絶望も吹き飛ばしてくれる希望の光に出会ったのです。イエス様はヨハネに、牢獄からの解放よりもっと尊いことを伝えました。今この国で、この世界で始まった出来事は、神ご自身がそこに来ておられることを現わしています。神の使いではありません。神ご自身がイエス様の内に、救い主キリストとなって来ておられるのです。……ヨハネの受け取った喜びを皆さんにも共有していただきたいと思います。

 

私たちにしても、もしも自分がこれまで、一生をかけてやってきたことが間違いだったとわかったなら、これほど残念なことはありませんが、それを判定する基準はただ一つ、自分のしてきたことが神様のみこころにかなったことであったかどうかです。ヨハネはイエス様が本当に救い主であられることを再確認して、自分の信じてきたこと、してきたことが正しかったと知ることが出来ました。…その後ヨハネは、とうとう牢獄から出ることがないまま殺されてしまいましたが、キリストに出会った喜びの前にそれが何だと言うのでしょう。

イエス・キリストは「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。世の中には、何にもかえがたいイエス様との出会いを軽んじ、どぶに捨ててしまうような人がいます。そういう人がヨハネだけではなく、イエス様をも殺してしまいました。しかし、イエス様を尊び、この方を救い主キリストと信じる人は、生きている間だけでなく死んだあとまで永遠に続く喜びが与えられます。どうか、ここにいる私たちがみんな、本当の意味でイエス様を救い主キリストと信じ、この方によって幸いが与えられますよう、願います。

 

(祈り)

恵み深い父なる神様。みことばを聞き、あなたを崇める喜びが今日、新しく与えられましたことを心より感謝申し上げます。私たちが神様を求める思いはまことに不十分で、時々マンネリになったり、神様から離れてしまいたいと思うときもあれば、また疑いの気持ちをいだくこともあります。しかし、たとえどんな所に行っても、帰ってくるところは神様のおそば以外にありません。

イエス様に対する信仰のぐらついたヨハネは、イエス様に自分の思いをぶつけ、思いにまさる答えをいただくことが出来ました。私たちも自分の願いや思いばかりでなく、わからないこと、また神様への疑いの気持ちでさえも、それを祈りによって神様に伝えることが出来、そして自分が期待すること以上の神様のお答えをいただくことが出来る幸いを感謝いたします。

 

私たちのうち誰もイエス様の前でつまずくことがありませんように。イエス様にすべてをかけたことを喜びとする人生が与えられますように。そのためにもあなたによって建てられた広島長束教会を恵み、導いて下さい。主イエス・キリストのみ名によって、祈ります。アーメン。