剣を投げ込むキリスト

剣を投げ込むキリスト ヨエル4912、マタイ1034111 2024.3.3

 

(順序)

招詞:詩編1385、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:14、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:447、日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(献金)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という言葉を聞いて、とまどった方は多かったと思います。イエス・キリストにこの言葉があるのは、いったいどうしてでしょうか。

 

聖書では、アドヴェントでよく読まれるイザヤ書9章に、将来現れる救い主が「平和の君」とよばれることが書いてあります。

また私たちがよく知っている言葉、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(5:9)を教えられたのも主イエスです。

平和ということをその生涯と死を通して体現なさった主イエスが、ここで急に、戦いを愛するようになってしまったのでしょうか。……旧約聖書には戦争の話がたくさん出て来ますし、いま世界はウクライナやパレスチナなどをめぐって大揺れですから、主イエスはここで「戦争をためらうな」というメッセージを送っているのかと、かんぐる人が出て来るかもしれません。

……ここで一つ、確かなことがあります。これは主イエスの本物の言葉だと言うことです。学者の中には、聖書にあるイエス様の言葉一つひとつを徹底的に調べあげて、「これは本当にイエスの言葉なのか。誰か別の人の言葉を持ってきたのではないのか」と問いつづける人がいます。しかし、そういう人でも、これを主イエスご自身にさかのぼる言葉だと認めています。そこにはいくつかの理由があるはずですが、これだけ厳しい言葉を語れる人は主イエス以外にはいないということも決めての一つでありましょう。

主イエスの口から、なぜこれほどに激しい言葉が発せられたのでしょうか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ」と、なぜ言って下さらないのでしょうか。……だいたい私たちが教会に来るのも、平和がほしいからではないでしょうか。心のやすらぎとか、自分の家庭の静かな幸せなど、信仰を持ったら与えられると思っているから、ここに集まっているのではないでしょうか。ところがここには、私たちの神経を逆なでするような言葉があるのです。

誤解のないように申しておきますが、主イエスはここで、戦争や殺し合いを肯定しておられるのではありません。…まことに残念なことですが、キリスト教会がその長い歴史を通して、常に平和を訴えてきたとはとても言えません。自分の国が戦争を始めると、それに引っ張られて、戦勝祈願をしたりすることは常に行われてきました。戦時中の日本基督教団の呼びかけの中にこういう言葉があります。「旧約預言者は『剣を替えて鋤となせ』と叫んだが今はその反対に『鋤を替えて剣となす』べき時代である。今日に於ては吾々のメッセージは平和のメッセージではなく戦争のメッセージでなければならない」(教団新報2513号)と。これは先ほど読んだヨエル書を意識した言葉かもしれません。

今日でも旧約聖書のこうした言葉を取り上げて、国家が始める戦争に進軍ラッパで答えようとする教会があるのですが、私たちはいくら旧約聖書の言葉であっても注意して読むべきです。…例えば、今日取り上げたヨエル書の言葉はそのまま受け取ると、武器を取れと言われているように思えます。しかし、そこには皮肉が含まれています。諸国の民が軍備を整えて集まってくると、そこに主なる神がおられ、すべての民を裁くと書いてありますね。つまり、諸国民がそこで見いだすのは、自分たちが行った暴力のゆえに下される神の審判なのです。

主イエスは、あなたがたも聞いているとおり、このように命じられている、しかし、わたしは言っておく…という言い方を用いて、旧約聖書にある律法の言葉を大胆に解釈しなおされました。その一つの例が、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている、しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、というものです。つまり、旧約聖書にあるいっけん戦争を肯定するような言葉でも、イエス・キリストというレンズを通して、見るべきであり、判断すべきなのです。

 

それでは主イエスはどういう状況で、平和ではなく剣を、と言われたのでしょうか。…これは、伝道のために派遣されようとしている12弟子に向けられた言葉です。そこでは、主イエスに従って、福音を伝えてゆこうとする時、必ず敵が現われ、反対者たちが怒り狂い、平和とは正反対の状況になってしまうことを教えているのです。その結果、たとえば家庭の中でも騒動が起きます。親から勘当されたりといったことが起こる、と警告しておられるのです。

事実、こののちの初代教会の時代になりますと、教会と古い秩序との間に摩擦や争いが生じ、クリスチャンが迫害されます。キリストに従う者は、ローマ帝国から、皇帝を拝まない者、すなわち無神論者として弾圧されましたし、また信仰を持つことを家族から反対されたりして、たいへん苦しい思いをしなければなりませんでした。平和を求めていた人たちが、それとは似ても似つかない結果を引き受けることになってしまったのです。しかし、それにもかかわらず、主イエスが平和の君であることは変わりません。

主イエスが指し示される平和は、表面は平和だけどみんな心の中ではいがみあっているというような見せかけの平和ではなく、本当の平和です。しかし、そこにたどりつくのは簡単なことではありません。主イエスは、本当の平和を勝ち取るまで、人は剣の中を通らなければならないと言われているのです。

 

主イエスのご降誕からまもなく、シメオンという老人がエルサレム神殿の境内で、赤ちゃんのイエス様を出迎えました。その時、シメオンがこの子の未来を予言して母マリアに告げた言葉がルカ福音書2章の34節以下に出てきます。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:3435)。ここにも剣という言葉が使われていますね。

主イエスは確かに平和をもたらす者として来られました。しかし、その平和が訪れる時にたいへんな混乱が起こるのです。マリアが剣で心を刺し貫かれるというのは、マリアの目の前で、イエス様が十字架につけられてしまうということにほかなりません。…どこに息子が十字架刑にあうことを願う母親がいるでしょう。マリアも同じでした。十字架が母と子の間を引き裂いてしまったのです。…もちろんイエス様にとっても、こんな形で母親と別れることを望んでいたわけではありません。けれども、ご自分が十字架にかからなければ、神の正義と愛は実現されず、まことの平和は訪れません。イエス様は親子の情を振り捨てて、十字架への道を歩んでいかれたのです。

いったい主イエスが言われる剣とは何でしょう。私たちは、主イエスがもたらすと言われる剣がどこを向いていたのかを知らなくてはなりません。……主イエスは武器を振り回して人を殺したりはしません。剣はまず主イエスご自身に向けられました。次が弟子たち、さらにイエス様を信じるすべての人に向けられました。だから、主イエスがもたらすと言われる剣は、主イエスが来られることによって、その正体を現した罪の力であると考えることが出来ましょう。

 

この剣によって主イエスご自身苦しまれました。弟子たちもそうです。その時、自分の家族でさえ、しばしば敵となってしまうのです。

主イエスが伝道を始められた頃のこと、聖書に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書いてあるところがあります(マルコ321)。身内の人たちとはマリアとイエス様の弟たちでしょう。マリアでさえ息子のイエス様を理解できず、止めに入ったのです。弟子たちにもそれぞれ、信仰の道に進むことを妨げようとした力が働いたことは確かですし、これまでの教会の歴史の中で数え切れない人々が同じ目にあっています。クリスチャン・ホームに生まれた人でない限り、自分の信仰を家族にわかってもらうのは難しいのです。

人が信仰を持とうとするとき、家族がそれをやめさせようとすることは今でもよくあります。キリスト教信仰そのものを固く禁じている家庭もありまして、そういう環境にいますと、家族の情にほだされてやむなく信仰を放棄することも起きかねません。こういう人たちに対し、主はおっしゃいます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。

イエス様を愛する以上に肉親を愛する人は、イエス様にはふさわしくない。これは、親孝行や家庭の平和を否定するものではないのですが、たいへん厳しい言葉です。

もう一つの言葉もたいへん厳しいものです。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。これは、実際に十字架をかついで歩けということではありません。キリスト信徒の生涯が十字架に向かって進んでゆく歩みだと言っているのです。十字架は苦しみと恥のしるしですが、これを担う覚悟なくして、クリスチャンとなることは出来ません。

十字架はイエス様を主と信じる私たちが世に勝つための唯一最大の武器ですが、そのことは、十字架をかかげながら、武器を取ってたたかうことではありません。自分は最高の信仰を持っているのだとうぬぼれて、違う信仰を持っている人や、信仰の面で遅れているように見える人を批判することでもありません。端的に言いましょう。十字架を負うとは負けることです。敵にいためつけられることです。剣のもとに蹂躙されることです。

しかし、それならクリスチャンは肉親から憎まれ、苦しみの中で打ちひしがれ、時には命を失うことまで覚悟しなければならないのでしょうか。いいえ、大切なものを捨てる人は、それを得るのです。主イエスは何と言っておられますか。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。信仰のゆえに苦しみを受けた人は、ついに神様によって勝利するのです。主イエスは十字架によって世に勝たれました。私たちはイエス様と全く同じことは出来ませんし、その必要もありませんが、信仰のゆえに苦しみを受けても神様によって勝利するのです。

 

主イエスは「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われました。主イエスが派遣された十二弟子を受け入れる人は、主イエスを、そして神を受け入れているのです。このことは、すべての伝道者についても同じように言えます。さらに41節以下では、すべての伝道者が「預言者」、「正しい者」、また「わたしの弟子」と呼ばれ、彼らを受け入れる人も、主イエスを、そして神を受け入れるのだとされています。

これは私のような伝道者にはもちろん、み言葉の説き明かしを聞く皆さんにとっても大きな励ましの言葉にちがいありません。一人ひとりの伝道者をみると、理想通りの人はなかなか見つからないもので、口べただったり、教養がなかったり、性格的な欠点がある場合もあって、本当に「小さな者の一人」にしかすぎません。しかし、それでも伝道者を迎え入れて、その言葉に耳を傾けることは、主イエスを、そして神を受け入れたことになるのです。

伝道者を助けることは、その人ばかりか、主イエスも喜ばれることです。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。これは、信仰に対し無理解な社会の中で、自分の家族からも理解されず、迫害の危険にさらされながら伝道の旅を続けている弟子の姿を思い浮かべなければ、正しく理解することは出来ないでしょう。そのいちばん良い例がパウロです。古代のクリスチャンたちは、伝道者が来たとき、その説教を聞くだけでなく、のどの渇きをいやす水一杯、飢えを満たすわずかな食料を持ちよって、その生活を支えました。…この人たち自身も、それほど裕福ではなかったでしょうし、その家族が常に信仰に理解があるとは限りませんから、自分自身、信仰を貫き通すのはたいへんだったと思います。しかし、まるで世の中から見捨てられたかのようなクリスチャンのグループに神様の祝福がありました。そこに、新しい神の家族――教会が誕生したのです。

主イエスが来られ、教会が広がっていくことは、神様と神様の敵との間に矛盾が生じ、亀裂が広がっていくことで、それは剣を投げ込まれることにたとえられます。これまで、泰平の眠りを覚ます容易ならない事態が生じましたし、今も進行中ですし、これからも起こりうるのですが、私たちはそうなるのが当然だと達観しておくべきです。嵐の時代の中でも勝利を勝ち取る信仰があることで、平和な時代を喜ぶことが出来るのです。

 

(祈り)

恵み深い神様。主イエス・キリストが、そのすべての力を注いで、私たちに語りかけて下さいました言葉を、今日の礼拝でもいただきました。感謝いたします。聖書にはなかなか理解しにくい言葉が多いのですが、私たちの理解力の浅さや罪深い思いのために、その本当の意味を取り損なうことがありませんように。み言葉の厳しさに恐れをなして、水で薄めるようなことばかり考えがちな私たちに、世に打ち勝たれたイエス様が聖書を正しく読み解く力と本当の勇気とを与えて下さい。

昔フランチェスコという人は「私を平和の道具として下さい」と祈りました。憎しみのあるところに愛を、疑いのあるところに信仰を、……それが今日ほど待ち望まれているときはありません。いつわりの平和はいりません。ほんものの平和は、人と人との敵対を経て与えられる、このことこそイエス様が剣をもたらすと言われたことの真意だと思います。

神様が立てて下さったはずの世界の教会は、今や細かく分裂し、混乱が進んでいますが、これもイエス様がもたらされた剣の結果かもしれません。しかし、このことも正しい教会が出来上がるために必要なプロセスだと信じます。神様、分裂している教会が一つにまとまっていくためのプロセスを進めて下さい。

 

私たち愚かな人間は困難を経験しなければなかなか正気に戻りませんが、出来ますならば困難を最小限にすることで、信仰生活を喜びと感謝をもって受け取ることが出来ますように。主の御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。