ダビデ王、信仰の道

ダビデ王、信仰の道   詩篇32111、ロマ468 2024.2.25

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1384、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:73、説教、祈り、讃美歌:258、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 パウロがローマの信徒への手紙で力を込めて語ってきたのは、人が義とされるのは信仰によるということ、平たく言えば、私たちは何か善いことをしたからといって神様に正しいと認められるのではない、ただ信ずれば良いということでありました。人間にとって、こんな良い知らせはないのですが、パウロからこれを聞いた人はすぐには納得しません。拍子抜けしてしまう人、唖然とする人、パウロに反対する人、さらに怒り始める人もいたのではないでしょうか。

人を評価するのに、善い行いをしたかそうではなかったかで判断するというのは古今東西、全世界で広く見られることであって、ローマの教会の人たちばかりでなく、私たちの頭にもこびりついているのです。

 パウロはそこで、まずユダヤ人を説得しようと、ユダヤ人が尊敬してやまないアブラハムの例を持ち出してきました。みんな、アブラハムが主なる神様から祝福されたのは、彼が「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行き、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という命令を受けて、激しい心の葛藤があったにもかかわらず神様に忠実に従ったことにあると信じていました。しかしパウロは、アブラハムがその出来事の前、神様から「天を仰いで、星を数えることができるか、…あなたの子孫はこのようになる」と言われた時、これを信じたことが彼の義だと認められたことに注意を向けさせます。アブラハムが主なる神を信じ、神がこのことをもって彼を正しいと認めて下さったのが先で、イサクをささげようとしたのはその結果。つまり神様がアブラハムの信仰を認められた、その信仰によって義とされたことが第一で、偉大な行いでもって祝福されたのではない、としたのです。

 それでは神様がアブラハムの信仰を認め、祝福して下さったその中身は何だったのか、思いを巡らしてみましょう。それは多くの子孫が与えられることだったのでしょうか。たしかに、その時子どもがいなかったアブラハムにとって、あなたの子孫は天の星のようになると言われたことが大きな祝福だったことには違いないのですが、これで話を終えてしまうわけにはいきません。神は創世記2218節で、さらにこう言われています、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」。…これがどんなに途方もないことなのか、おわかりでしょうか。それは、あなたの子孫が星の数ほど多くなるということをはるかに超えることです。あなたの子孫とは原文では単数形になっておりまして、ただ一人の方を示しています。その方とはいったい、…教会ではこれをイエス・キリストであると考えています。

 つまり聖書が、神様とアブラハムとの会話の中で力を込めて訴えているのは、単にアブラハムの子孫が増えて、繁栄するというような、誰もが求めているこの世の幸福ではありません。つまり、あらゆる繁栄の中の繁栄、すべての祝福の中の祝福であるキリストによる救いのことまで言っており、そのことを指し示しているのです。

 

 アブラハムを語ることで、信仰によって義とされることを立証したパウロは次にダビデを取り上げます。

 ダビデはご存じのように、イスラエル民族の歴史に燦然と輝く偉大な人物です。羊飼いの少年が、油を注がれて、サウルに続きイスラエルの二代目の王となりました。即位は紀元前1000年頃とされています。

 ダビデについて短い時間で語り尽くすことは出来ませんが、特に言っておかなければならないのは、彼が詩人であったことです。旧約聖書に入っている詩篇の中のかなりのうたがダビデの作とされています。全部で150篇ある詩篇の内、数えてみるとダビデの詩と書いてあるのが72ありました。イエス様の時代には、詩編と言えばダビデ、ダビデと言えば詩編というぐらいの捉え方がされていたそうです。

 ダビデは生涯にわたって詩を作っていったので、ダビデの作品を彼の生涯の年代順に並べて、どういう時にその作品が出来たかを調べることが出来たら面白い研究テーマになると思います。実際には、ただダビデの詩とだけあって、いつの作品か決めることが出来ないのも多いのですが。…ダビデがバト・シェバ事件を起こした時の作品があります。

 聖書は聖なる書物ではありますが、それとはかけはなれたように見えることもたくさん書いてあります。昨年6月、アメリカ・ユダ州のデイビス地区というところで、「聖書は下品で、暴力的であり、子どもたちにふさわしくない」という理由で、小中学校から撤去されるという事件がありました。これは大きな議論を呼んで、結局その措置は撤廃され、再び聖書が置かれるようになったということですが。私は下品なこと、暴力的なことも書いてあるからこそ聖書だと思うのですが、バト・シェバ事件もこの事件に影響を与えたことでしょう。この事件の話を面白がって聞く人がいるかもしれませんが、冷静になって考えると耳を覆いたくなるような出来事なのです。

 ダビデ王がだいぶ年を取ってからになりますが、イスラエルは東隣りのアンモンという国と長い戦いをしており、最後の決戦に近づいた時、ダビデ王だけはエルサレムの都に留まっていました。ある日、ダビデ王は昼寝から起きて、王宮の屋上を散歩していたのですが、その時、上から、水浴びをしていた美しい女性バト・シェバを見て心が動き、人妻であるにもかかわらず王宮に召し入れてしまったのです。

 悪いことは出来ないもので、バト・シェバは妊娠してしまいました。そこでダビデ王は、戦地で戦っている彼女の夫ウリヤを呼び寄せます。彼をねぎらい、戦況について尋ねた上で、家に帰って休むが良いといいます。ウリヤが家に帰れば、バト・シェバの胎内の子をウリヤとバト・シェバの子にすることが出来るという算段だったのですが、ウリヤの方では、戦友たちが野営をし、命をかけて戦っているのに自分だけわが家に戻るわけには行かないと言って、いっかな帰ろうとしません。王は一緒に食事し、酒を飲ませたりして家に帰らせようとしたのですがそれも失敗します。王はついにウリヤに手紙を託させて将軍ヨアブに届けさせました。そこには「ウリヤを激しい戦いの最前線に出して、戦死させよ」と書いてあったのです。ヨアブはその命令を忠実に実行したので、ウリヤは戦死し、ダビデ王はまんまとバト・シェバを妻として迎え入れてしまいました。

 このようにして、ダビデ王は人々の目をごまかすことが出来たのですが、そのあと預言者ナタンが王のもとに来ました。ひとりの貧乏人が大切にしていた小羊を金持ちの男が無理やり奪って、その肉をお客に提供した、この事件を裁いてほしいというのです。ダビデ王は激怒して、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と判決を下したのですが、その時ナタンは、王に「あなたがその人です」と、そして、このことのゆえに、神はあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こす、と宣言したのです。王は愕然として、「わたしは主に罪を犯した」と告白しました。そこでナタンも「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、生れてくるあなたの子は必ず死ぬ」と宣言しました。その言葉通り、ダビデ王の罪は赦されましたが、バト・シェバとの間に生まれた男の子は神に打たれて死んでしまったのです。

詩篇51篇はナタンの叱責のあとのダビデの悔い改めのうたです。その6節

はこう言っています、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」。…ここで引っかかる人はいなかったでしょうか。私も初め、ダビデは神様より先に、死んだウリヤに対して謝らなければならないのではないかと思っていました。でもダビデは、あなたにのみ罪を犯しましたと言うのです。神様にだけ罪を犯したと言うのです。「王はウリヤには罪を犯さなかったのか」と言いたくもなります。しかし、人が犯す罪はすべて神に対する反逆であるとわかれば、疑問は解消します。罪とは神を裏切ること、神を欺くことです。だから、神のみ前からとうてい逃げられないのです。

被害者に対する罪だけならば、賠償をすれば、ある程度赦してもらえるかもしれません。ダビデ王がウリヤの家の人に何かしたのか聖書には書いてありませんが、まるきり無視したということはないでしょう。…しかしながら神に対する罪は、自分の側からは決して償うことができません。…神に対する罪は、神様以外に償うことはできないのです。

 詩編32篇もナタンの叱責のあとに書かれた詩だと考えられています。「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」

背きを赦され、罪を覆っていただいた者とはダビデ自身です。「罪を覆っていただいた」、これはダビデの罪を神が見逃して下さった、良かった、というようなことではありません。神様が結果的にダビデの罪を見ないでいて下さったということですが、ただ、そのことは、ダビデが犯した罪が、何事もなかったかのように無罪放免になったということではありません。

ダビデがしたことがとんでもない罪であり、少し古風な言い方では「天人(てんじん)ともに許さざる悪行」であることを確認した上で、詩篇32篇の3節以下を見ましょう。「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」。ダビデ王は初め、バト・シェバとの情事を人の目から隠そうとあの手、この手をもって計るのですが、それがかえって罪に罪を加えることになってしまいました。王は一方で快楽のとりことなりながら、次第に追いつめられていき、「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」という状況になっていたのです。

 ダビデ王は預言者ナタンから叱責された時、しらを切ったまま、ナタンを獄に投げ込んだり、殺したりすることも出来たはずです。ナタンさえ黙らせてしまえば、ダビデとバト・シェバ以外に悪事を知る人はいないのに、そうはしませんでした。それはなぜか、悪事を隠し通すことの苦しみにもはや耐えられなくなっていたからです。ダビデはやはり信仰に生きる人間として、ナタンから叱責されたことを機会に、5節にある通りに行ったのです。「わたしの罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。」

 自分の罪を白状しない間、ダビデ王は苦しみもがいていました。しかし、ついに、主なる神の前で自分の罪を告白しました。これがどんなに大変で、勇気がいることだったか、いうまでもありません。ダビデ王の言葉は部下も聞いていただろうし、やがて国民の間にも知れ渡り、たいへんなスキャンダルになったでしょうから、その影響ははかりしれません。しかし、それでも、罪を告白したことが良かったのです。神様から赦しが得られたからです。「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」と言うことの出来る状況が与えられたのです。…つまり、ダビデ王が罪を償うに足るだけの善い行いをしたから赦されたのではありません。まだまだ罪深い生活を送っていて、苦しみ呻いていた中でも、「わたしは主に罪を犯した」と言ったことで、罪が赦されたのです。

 罪の告白はダビデ王にとっての功績ではありません。今日でも、人妻と密通し、それを隠すためにその夫を殺したとしたら、ただごとではすみません。…神様、ダビデを赦してしまわれて良いのですか、と言わなければならないことなのです。律法の規定によれば二人とも死罪です。ダビデ王にとって、神様から赦されるにたる何があったのかと言われると、そんなものは何もないのです。大罪を犯した人間に対し、神様からの一方的な恵みが与えられたとしか考えようがありません。…その先にはキリストの十字架が立っています。

 

 聖書には、ダビデ王と同じ言葉を使いながら、罪の赦しを得られなかったもう一人の人のことが書かれています。サムエル記上15章に書いてあるのですが、サウル王は預言者サムエルを通して与えられた神の命令に従わず、そのことをサムエルに指摘された時、ダビデと同じく「わたしは主に罪を犯しました」と言いましたが、「主があなたの罪を取り除かれる」とは言ってもらえませんでした。それはなぜかというと、サウルは部下に対して自分の面子を傷つけないよう小手先を弄したからなのです。つまり心からの悔い改めではなかったのです。罪の告白が口先だけのものでしかなかったのです。

 ダビデ王は詩篇32篇2節で、「いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と歌っています。心に欺きがないとはまさにダビデ自身のことです。ここにいる私たちは、不倫を隠すために殺人までしたことはないのですが、しかし「心に欺きがない」と言うことは出来るでしょうか。恐ろしい罪を犯したダビデ王の真似をしてはなりませんが、神の慈しみと愛が彼を罪の告白へと導き、赦しを得させて下さったことを私たちは学び、神様の前に打ち砕かれ、悔いる心をもって、信仰の歩むを続ける者とならなければなりません。

 

(祈り)

 天の父なる神様。あなたは恐ろしい罪を犯したダビデ王を、それでも見捨てず、良心の痛みを負わせ、罪の告白へと導き、ついに罪を赦して下さいました。神様がダビデ王に与えて下さった慈しみと愛が私たちにも及んで、私たちをこれまで小さな罪、大きな罪から救って下さいましたし、これからも救って下さるだろうことを思って、感謝いたします。

 しかし私たちの中には常に神様に反逆する心があって、自分の罪をがんとして認めず、責任を他の人に転嫁して平然としてしまう思いが残っているかもしれません。心に欺きがあるのです。神様、私たちがそれぞれ自分の心の中を点検することが出来ますように。神様のみ前で打ち砕かれ、悔いる心を神様に捧げる、そのことをもって私たちの信仰を増し加えて下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名を通して、お願いいたします。アーメン。