蛇のように賢く、鳩のように素直に

蛇のように賢く、鳩のように素直に 

コヘレト71522、マタイ101623  2024.2.4

(順序)

招詞:詩編1381、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:68、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:276、説教、祈り、讃美歌:379、日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式 讃美歌:206)(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣

 

今日与えられた聖書の言葉は、「わたしはあなたがたを遣わす」というところから始まっています。これはイエス・キリストが12人の弟子たちを派遣するときの言葉です。

主イエスに12人の弟子がいたことは誰でも知っています。しかし、ユダヤの国の津々浦々にまで福音をもたらすためには12人では足りません。そこでルカによる福音書では、12人の派遣に続き72人が派遣されたことも記録しています(ルカ101)。…けれども、世界にあまねく福音を伝えようとする時代が来ると、それでも雀の涙ほどしかありませんから、主イエスは今に至るまで、無数の伝道者を各地に派遣して来られました。そして、職業的伝道者にとどまらず、一人ひとりの信者にも、それぞれが生きる場でキリストを証しする役目を授けておられるのです。12人の弟子たちは、この仕事の開拓者であり、後のあらゆる伝道事業の基を据えることになった人たちです。

 

弟子たちの派遣については、マタイ福音書だけでなく、マルコやルカの福音書にも書いてあります。時間があれば読み比べてみて下さい。書き方が微妙に異なっていることがわかります。マルコとルカでは、迫害を予告する言葉はありません。弟子たちはしばらくしたら戻ってきて、主イエスに伝道旅行の成果を報告しています。ところがマタイの場合、厳しい迫害の予告がある一方、弟子たちの帰還とか伝道旅行の報告会などは一切なく、12章まで読んでゆくと、弟子たちがいつのまにか主イエスのもとに戻っているという形になっています。これは、それぞれの福音書を編纂した人が、集まった情報をいろいろ取捨選択した結果だからです。

それではマタイ福音書の著者は、どういう意図があって現在のような形にしたのでしょうか。……歴史家は、ここに書いてあるような厳しい迫害が、主イエスが地上におられたときにはなかったことを報告しています。地方法院に引き渡されるとか、会堂で鞭打たれるというのは、主イエスが天に帰られたあと初代教会の時代に起きたことです。そうすると、主イエスはここで、弟子たちに、この時すぐには経験しない、のちの時代に起こる伝道の困難を語っていたのだということがわかるのです。…事実は一つしかないはずなのに、それぞれの福音書の内容が違っているのは不思議な感じがしますが、イエス様のなさったことを全部書こうとするならば、世界もそれを収めきれません。

 

マタイ福音書は、主イエスの弟子たる者が厳しい時代をどう生きぬくかという教えを、ここにまとめて書いているのですが、これは私たちが喜んで聞きたいと思うような話ではないと思います。

以前、牧師で神学者である森本あんり先生という方が、アメリカの教会の今の姿について報告してくれたことがありました。それによると、アメリカにはメガ・チャーチと呼ばれる巨大な教会がいくつもありますが、そこで語られるメッセージは、おおむね、世の中で成功している人はそれだけ神様の祝福を受けているのだ、というものです。ドナルド・トランプ氏が通っていた教会というのがあって、そこには若い女性が大勢集まっていました、というのはみんな、この教会に来れば、億万長者と結婚できるかもしれないと思っているからとか。…こんな話を聞くとあきれてしまうのですが、繁栄の福音というのがあって、信仰者は神様から富と健康を授かると。人々がこういう教えを求めており、そうした教会が多くの人を集めるのはわからないわけでもありませんが、しかし迫害を予告している今日の箇所などはどう読み解くのでしょう。つらいことがあっても耐え抜けば、苦難をはるかに超える富と栄光が与えられるということなのかもしれません。

本題に入ります。主イエスは、弟子たちを各地に遣わして伝道させるのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだと言われます。弟子たちが羊であるのはいいとして、彼らの出会う人はみな狼だということでしょうか。これは伝道者の言葉を聞く人がすべて狼だと言うのではありません。主イエスは群衆を飼う者のない羊のような存在だと見てましたから(9:26)。けれども、その羊たちは常に狼に狙われているので、羊を救うためには狼の中に入ってゆかなければならないのです。イスラエルの民を本当の神から引き離そうとする政治指導者、教会に間違った教えを吹き込もうとするにせ教師などが狼だと言えるでしょう。伝道者は、そういう狼が待ちかまえているところでも、まるで無力な羊のように入っていかなくてはなりません。力には力を、やられたらやりかえせ、と言うのは伝道者の姿ではないからです。

そういう伝道者に必要なこと、それが「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」、ということです。これは解釈がなかなか難しそうです。他の牧師がこの箇所を説教しているのを見ると「鳩のように素直に」ばかり強調し、「蛇のように賢く」をごく簡単に片づけているなあと思われるものがいくつかありました。「蛇のように賢く」を主イエスのメッセージとして示すことが出来なかったのでしょう。

蛇は昔からどの国でも、賢い動物と思われていました。主イエスは、伝道者は蛇のような注意力、巧みな身のこなし、自分の身の安全を保つ知恵を身につけなければならないと言われているのではないかと思います。…蛇のように音もなく相手のそばに来て、いきなりかみついてしまうことが奨励されているわけではありません。ここでは、あまり考えすぎない方が良いです。蛇のように賢くとは、具体的には17節の「人々を警戒しなさい」、23節の「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。…残酷な目にあわされそうになった時、ばか正直に命を捨ててしまうのではなく、かしこく自分の命を守りなさいということです。…蛇という動物はふつう悪役ですが、それでも神様が創造された生き物で、そこには人間が見習うべきところもあるのです。

そして次に「鳩のように素直になりなさい」と言われます。平和の象徴の鳩のように、素直であれ。純粋に生きなさい、純真素朴な態度を身につけなさいと言われるのです。具体的には、総督や王の前に引き出された時、言うべきことを言うということに現れています。そんな絶体絶命の時、人は往々にして、自分の身を守ることが第一になって心にもないことを言ってしまうものです。ぎりぎりの場に立った時、素直な心で、父なる神の霊が教えて下さることを受けとめなければ、その場にもっともふさわしい証言は出来ないのです。

もっとも、主イエスの言葉を聞いて、多くの人が疑問に思うことがあります。蛇のような賢さと、鳩のような素直さが、いったいどうして一つになるのかと。

これは又聞きの知識ですが、人は自分の性格の中で、違うもの同士のつりあいをとっているのが良いのだそうです。たとえば昔、こんなキャッチフレーズがありましたが、皆さんは賛同されるでしょうか。「たくましくなければ生きていけない。やさしくなければ生きる資格がない」。

強い人間というのは、自分の性格の中にはっきり違ったもののつりあいを保っている人間です。…普通の人間はなかなかそうはなりません。理想主義者はふつう現実的ではなく、現実主義者はふつう理想主義者ではありません。体を動かすのが好きな人が静かに読書したり、音楽を聴くのは珍しいですし、書斎にこもりきりの学者がスポーツや労働に汗を流すこともあまりありません。やさしい人が強い人になり、強い人がやさしい人であることもあまりありません。

しかし、違うものが調和して、統合されてこそ、実り多い人生の歩みが始まるのではないでしょうか。主イエスが言っていることもそこにあるのです。それも、一人の人について賢さと素直さを足して2で割るというような単純なものではありません。賢さと素直さがより高い段階で統合されるとき、新しい一歩が始まるのです。一人の人間が、蛇と鳩の性格を同時に持っているのを想像するのはちょっと難しいことですが、主イエスはこれを体現しておられ、それをご自分を信じて従う人々に期待しておられるのです。

 

それでは17節以下をみましょう。ここにはキリストの弟子が遭遇する迫害が列挙されています。地方法院とは町々村々にあるユダヤ教の議会のことです。そこで異端者が審問され、有罪判決を下されると、ただちに会堂の中でむち打ちの刑が行われます。また、総督や王など政治家の前に引き出されることがあります。新しいことを始めたことで家庭の破壊者と見なされてしまうことがあり、またイエスを信じているということで、他のすべての人から憎まれることもあります。

こういったことは主イエスが天に帰られた後、本当のこととなりました。ペトロとヨハネは神殿で伝道中にとらえられています(使4、5章)、パウロは「四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」(Ⅱコリ1124)あると告白し、また有名なステファノのように、石を投げつけられて殺された人も出ました。キリストが立てた教会は、やがてその残酷さで歴史に名高い迫害の時代を迎えることになります。22節の「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」という言葉の通りになったのです。キリスト者について間違ったうわさが飛び交っていました。あいつらは聖餐式で人肉を食っているとか、ローマ皇帝を拝まない無神論者だとか…。人々に嫌われても当然なのです。

神の言葉を伝えてゆく時、その働きが人々から拍手喝采をもって迎えられるということはまれです。むしろ人々から石をもって追われるようなことを覚悟しなければなりません。福音は人間に悔い改めを迫ります。だから、自分が悔い改めて造り変えられなければならないことを自覚しない人は、伝道者はもちろん一般の信徒であっても、自分の生活をかきまわそうとする邪魔者だと思ってしまうのです。

それでは、敵意と憎しみの中に送り出された弟子たちが、つぶされないで生きてゆける秘訣は何でしょうか。それが「蛇のように賢く、鳩のように素直に」ということなのです。彼らは、裁判の席に引きずり出されるでしょう。しかし、それを逆手に取ることが出来ます。弟子たちはもともと身分が低く、総督とか王など地位の高い人たちと話すことなど出来ません。しかし裁判の席ではそういう人たちの前で、自分の信じることを話すことが出来ます。キリストを伝えることが出来ます。人々の前で話さなければならないとき、何をどう言おうか迷っても、言うべきことは神様が授けて下さいます。迫害は、神を証しする絶好の機会になります。「どんな反対者でも、反論も出来ないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」、ルカによる福音書2115節の言葉です。

ただ賢いだけの人は、身に危険が及んだ時にはあっさり信仰を捨ててしまうものです。こんな時、鳩のように純粋で素直な心が、信仰を守り抜く強さとなります。弟子たちが迫害にあっても筋を曲げないで、信仰を守り抜くことが、自分の信じている神の素晴らしさを天下に示すことになるのです。

しかしながら、迫害には往々にして死がつきものです。主イエスはクリスチャンに対し、危険が迫ってきたとき、命を捨てても信仰を守れと要求されているでしょうか。そうではありません。こういうときによく、殉教することこそ神のみこころにかなうことであると信じ、死に向かって突進してしまう人が出て来ますが、それは鳩の素直さを通り越して、愚かであるとしか言えません。主イエスは何と言われていますか。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。簡単に命を捨てろなど、聖書は絶対に言いません。

お隣りの中国で、いまキリスト教はかなり活動制限を受けていますが、それでも多くの信徒がいます。その理由の一つは、かつて文化大革命の時代にあった迫害が影響していると言われています。1960年代後半、中国のすべての教会は閉鎖され、聖書は没収され、牧師や信徒が中国の各地での強制労働に従事させられました。聖書はないのです。しかし、彼らは心に蓄えたみ言葉によって心を養われ、また絶望せずに困難に耐えていったことが、福音の種を中国全土にばらまくことになったのです。一つの町で伝道出来なくなったら、他の場所に行く。それはただ自分の命を守るばかりでなくて、他の場所で福音の種を蒔いて、育てていくためなのです。

今日の日本では、クリスチャンが信仰のために過酷な迫害を受けることはありませんが、人々を信仰から遠ざける多くの巧妙な罠がめぐらされています。私たちは、信仰の先輩たちが幾多の迫害の中を通り抜けてきたことを学びつつ、今の時代に対処するすべをつかんでいかなければなりません。

 

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という行動の指針を与えて下さった主イエスは子どもを愛し、病人を憐れむやさしい方であられましたが、しかしどんな権力者に対しても強いお方であられ、そのようなお方として、狼の出没するこの世界を変革しようとなさったのです。

主イエスは父なる神をあらわしたお方です。父なる神は二つの腕を広げておられます。一方の腕は正義をもって私たちを取り囲み、もう一方の腕はやさしく私たちを迎えいれてくれます。神は私たちの少しの罪も見逃さない正義の神であると同時に、罪を悔い改めて戻ってゆく者を、抱きしめて下さる寛大な父でもあられます。正義の神がまた愛の神であられ、この二つを統合するために何が行われたかを皆さんはご存じです。この神様に導かれている私たちが、安易な幸せに逃げ込むことをせず、主の言葉に真剣に向き合うことが出来ますよう、願っています。

 

(祈り)

恵みをもって私たちを導きたもう神様。主イエスは、狼の跳梁する世界に羊としての12弟子を送り込まれました。それは、つまるところ、私たちを主イエスのあとを追って生きる羊とするためです。

私たちには、狼と言われるような人たちが持っている武器はありません。お金も、力もないのです。しかし、神様が彼ら以上の力を与えて下さっていることを信じています。どうか私たちそれぞれが生きる場で神様を証しすることが出来るよう、語るべき言葉を教えて下さい。蛇の賢さと、鳩の素直さをあわせ持つことによって、この厳しい時代を生き抜いていく者として下さい。 

 

主のみ名によって、この祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン。