神をおそれて生きる

神をおそれて生きる 詩編5625、マタイ102433  2024.2.11

 

(順序)

招詞:詩編1382a、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:301、入会式(信仰告白(使徒信条))、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

イエス・キリストが十二弟子を伝道のため、ユダヤの各地に派遣された時の言葉を引き続き学びます。そこには、主イエスの弟子たちが地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるという迫害の予告がありました。しかし歴史家によると、そういったことはこの時代では報告されていません。迫害は初代教会の時代に起きたことなので、主イエスはここで、ご自分が天に帰られたあとに起こることを示されたことになります。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というのは、そういう厳しい時代を生き抜くための心がまえなのです。

 

ここでの主イエスの言葉は多岐に渡っていますが、その中にわかりにくいものがあるので、先に説明いたします。先週読んだところですが、23節の後半、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」。

人の子とは主イエスがご自分を指して言う言葉ですから、これを字義通りに取ると、弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちにイエス様が再臨なさるということになります。しかし再臨は2024年現在、まだ起こっていませんから、これはいったいどういうことかとなるのです。…そこである人は、イエス様はご自分がすぐにも再臨なさるものと思っていたのだとしました。…また、ここにはイエス様の再臨を熱烈に待ち望む人々の思いが反映していると考えた人もいましたが、すっきりしません。ということで謎のままになっています。…そこで私は、苦しい説明ではありますが、これは世界宣教ということを見据えた言葉なのではないかと考えています。「イスラエルの町」ということにこだわるとわからなくなってしまうのですが、これを新しいイスラエル・つまり教会と考えると、教会は世界中にひろがっているわけですから、世界のあらゆる場所に福音が届けられる前にイエス様の再臨が起こる、ということではないかと思います。

 それでは次の24節、25節はどうでしょう。「弟子は師にまさるものではなく」に始まる言葉も、わかりにくいです。ベルゼブルという言葉が入っています。ベルゼブルとはサタンとか悪霊の頭のことです。ネットにはベルゼブルの画像がありまして、恐ろしい姿をしていました。「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」を現代に置き換えてみます。ホラー映画ではないのですが、Aさんの家のご主人が吸血鬼だという噂が立ったとします。みんなふるえあがって、あの家の奥さんも子どももみんな吸血鬼だ、近寄ったら殺されるぞとなるでしょう。…初代教会の時代、これを想起させることが実際に起こりました。あの家の主人はキリスト教徒だ、恐ろしい、何やら怪しい儀式を行っている、くわばらくわばら、あの一家に近づいちゃいけないぞ、ということなのです。…しかし実は、イエス様はここで嬉しいことも言っておられます。皆さんは気がつかれたでしょうか。家の主人とはイエス様です。私たち信徒はイエス様にとって家族とされているのです。もしもイエス様が悪霊の頭のように言われたら、私たちも誹謗中傷を受けます。しかしイエス様が素晴らしいということになれば、私たちも称賛されることになるのです。これはイエス様を主と仰ぎ、従っていく者に必然的についてくることですが、皆さんはこれを感謝すべきことと思うでしょうか。それとも迷惑だと感じてしまうでしょうか。…もしも迷惑だと感じてしまうとしたら、そこには恐れがあります。そのためイエス様は、恐れるなということを語っておられます。それも「人々を恐れてはならない」、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、「だから、恐れるな」と、3度も繰り返しておられるのです。

 

 私たちにはそれぞれ、何か恐れているものがあるはずです。それは人間としては当然のことです、どんなに肝っ玉が大きな人であっても、少なくとも何か一つはこわいものがあるはずです。それは小さなことから大きなことまでたくさんあるわけです。

 人がもしも心配しないでいいことを心配し、取り越し苦労ばかりしていたとしたら、その人には平安がありません。恐れる必要のないことを恐れて神経をすり減らしてしまう、そんな人生はもったいないですね。だいたい小さなことを恐れている人はしじゅうびくびくして生きていなければなりません。これに対し、大きなことを恐れている人はかえって悠々としているように見えるものです。

 それでは、人々を恐れるということはどうでしょう。これが小さな悩みで、すぐに解決できるものなら良いのですが、なかなかそうはいかないですね。誰かと関係が悪くなってその人の目が気になる、周りの人が自分をその人と同じように見ているのじゃないかと思ってしまう、不安がだんだん恐怖になっていく、こういうことはよくあることですが、これに信仰に関わることが加わるとさらに苦しくなります。私たちのように、圧倒的多数の信仰を持たない人に囲まれている人間は、自分ひとり他の人々と違っているわけで、孤独感にさいなまれることがあるのですが、まして主イエスの弟子たちのように、福音を語り、信仰を呼びかけるとなるとなおさらです。

詩編56篇には「神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています」という嘆きの叫びが入っています。人が神を信じているということで、悪意を持つ人に取り囲まれ、そのことで心を傷つけられることがあるわけです。暴力を加えられることもあるのですが、これに対し主は言われました、「恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

 ここで「覆われているもの、隠されているもの」というのは、27節にある「わたしが暗闇であなたがたに言うこと、耳打ちされたこと」にほかなりません。これはイエス・キリストの福音です。主イエスにおいて天の国は近づいた、神様の恵みのご支配が始まったというグッドニュースです。しかし、そのことは、今は覆われ、隠されています。どういうことかと言いますと、ふつうの人々にはなかなかわからないということです。この当時、人々はイエス様と共に神様の恵みのご支配が始まっているということをよくわかってはいませんでした。誤解もしていました。やがてイエス様は十字架につけられ、復活されますが、歴史上空前絶後のこの事態に立ちあってもよくわからないのです。十字架刑を受けて死んだ極悪人がなぜ救い主なのかということが理解できない、その意味でイエス・キリストの福音は覆われ、隠されているのですが、いつまでもそのままということではありません。弟子たちが覆われ、隠されているものを語ります。この時、聖霊が弟子たちを後押しして下さいますから、真実は必ず明らかになっていきます。だから無理解な人々を恐れてはならないのです。

日本人は特に集団主義が強いので、大多数の人と違うことをすることをあまり好みません。「教会に行く人は変わっている」と思われ、それだけでいやになってしまうことがありますが、恐れてはなりません。イエス・キリストの真実はやがて明らかになるのです。

 

 その上で、次に与えられたのが「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉です。体は殺されてしまう、ということが確かにあります。イエス・キリストご自身がそうでしたし、ステファノも、12弟子のひとりヤコブも殺されてしまいました。初代教会の時代にはキリスト教徒の殺害が見世物のようにして行われましたし、今日でもどこかの国でキリスト教徒がその信仰のために殺されるということがあるかもしれません。主イエスはそのような現実があることを否定されません。しかしながら、体を殺すだけの人間を恐れるなと。その理由は、人間は体を殺すことは出来ても、その力は魂にまでは及ばないからです。

 ここでは単純に、人は魂と体の二つから成り立っていると考えて下さい。この他に心とか霊とか持って来て話をややこしくすることはありません。ここで言う魂とは、体とは違って、人の、目に見えない部分であり、人の内側にある精神的な部分です。

 人間は体を殺すことが出来ます。自分の言うことを聞かない人を権力でもって、また謀略でもって、あるいはよってたかって殺してしまうことがあります。けれども、その力は魂にまでは及ばないのです。…これに対し、神様の力は、体はもちろん、魂にまで及びます。だったら、本当に恐るべきなのは人間なのか、神様なのか、体だけでなく魂をも地獄で滅ぼすことの出来る方をこそ、私たちは恐れるべきです。答えは明らかです。だから昔からずっと、たとえ殺されても自分の信仰を守り抜いた人たちが大勢いましたし、今もいるのです。

 しかしながら多くの人は、それでも本当に恐れなければならない方を恐れず、人間ばかり恐れています。恐れるべき相手を間違えている私たちに、主イエスは二つの例を持って来ました。その一つが「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。当時、労働者の一日の賃金が1デナリオン、1アサリオンというのはその16分の1ということなので、雀は安く買いたたかれていたのですが、そんな小鳥でさえも、神のみこころなしには死んで、人間の食卓にあがってくることはないのです。…さらにもう一つ、「あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている」。人間の髪の毛の数には個人差があり、平均10万本ぐらいだと言われていますがいったいどうやって数えたのでしょう、一つひとつ数えてみようと思っても数えられるものではありません。そんなたいへん数えにくいものでも、神様は一人ひとり、数えあげておられるのです。人間が自分で計測出来ないことでも神様ならお出来になります。神様が、私たちのことを私たち以上にわかっておられる、愛し、守っていて下さるということを知って下さい。

 もちろんイエス・キリストを信じる信仰を持ったからといって、すべての苦しみから救い出されるということはありません。しかし、この世の人々の大きな力の前に妥協して、信仰と良心を投げ捨て、自分の身の安全を確保できたとしても、それで心に平安が与えられるでしょうか。私たちにとっては考えたくないことですが、この先、迫害にさらされ、鞭打たれ、命まで奪われることが全くないとは言えません。しかし、たとえそうした中にあっても、まことの神を見いだし、イエス・キリストの家族となって生きる者は、自分を責めさいなむ人々への恐れから解放されているので、心に平安があります。

 

主イエスが12弟子に与えた派遣命令は、職業的な伝道者ではないすべての信徒も尊重すべきです。私たちはこの社会の中で少なくとも、自分の信仰を隠さないで、キリスト者であることを堂々と言い表す者となりましょう。自分はイエス様の仲間だと言うことがなければ、イエス様から認められません。そうやってカミングアウトすると、キリスト教信仰についてなんだかんだ言ってくる人がいるかもしれませんが恐れることはありません。もしも質問してくる人がいたら、適切な答えを出すことが出来るよう、ふだんから準備しておきましょう。

私たちはみなキリスト者、クリスチャン(、またそうなろうとしている者たち)です。自分が意識しているとしていないとに関わらず、キリストのお名前をかぶせられた者たちであるということを自覚し、それぞれの生きる場でキリストを証し、福音を伝えていく役割を与えられています。そのことを喜び、感謝することが出来ますように。

 

(祈り)

天の父なる神様。神様が今日も私たちに恵みを賜い、この礼拝の機会を与えて下さったこと、私たちになくてはならないみ言葉をもって養って下さっていることを覚えて、心から感謝いたします。

イエス様が言われた「人々を恐れてはならない」というのは、私たちのいちばん痛いところを突いた言葉ではないかと思います。目に見えない神様より目に見える人間を恐れてしまう私たちの弱さをどうか憐れんで下さい。いま、この会堂の中にも、職場や地域社会、また家族の中で、複雑な人間関係に悩んでいる人がいるでしょう。どうか心の向きを変えることで、その難局に立ち向かうことが出来、またピンチの中にあってもキリストを証しする光栄を与えて下さい。

神様、広島長束教会は小さな教会で、高齢化も進み、この先どうなっていくのかなかなか展望が開けない状況にありますが、神様は今日、笠原雄さんを新しい会員として加えて下さいました。これが神様から私たちへのメッセージだと思います。私たちは伝道という言葉を聞くと、身構えてしまうことがあるのですが、この先どうか、神様に救われた喜びと真の自由の中でこのことを進めていくことが出来ますよう、お導き下さい。

信仰のたたかいの渦中にある者たちから恐れを取り去り、平安を与えて下さい。

 

主のみ名によって、この祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン。