なぜ盗みは罪なのか

なぜ盗みは罪なのか   出2015、ヤコブ5:1~6  2024.2.18

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1383、讃詠:545a、交読文:十戒、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:332、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 「盗んではならない」、これがモーセを通して与えられた十戒の中の第八の戒めです。

 盗んではならないというのは常識です。皆さんの中には、こんなの当たり前じゃないか、改めて教えられるまでもないと思われた方がいるかもしれません。しかし、それで片づけるわけにはいかないのです。

人間のいるところこれほど広くゆきわたっている罪はありません。……今日の世界の中で、文明社会と接触していない先住民族の中に、財産が共有されていて私有財産という発想がないところがあるかもしれませんが、それ以外のほとんどの社会で盗みがあります。「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽きまじ」と歌にうたわれている通りで、日本もその例にもれません。

皆さんもご存じのように今、たくさんのお店が万引きに悩んでいます。2018年に野村総合研究所が発表したデータでは、国内での年間の万引き被害額は約6574億円だということです。銀行強盗や現金輸送車の襲撃が大きなニュースになりますし、キャッシュカードの偽造、振り込め詐欺など、盗みのテクニックはますます巧妙になってきています。最近、長束教会の隣の明賀さんの畑からは花が盗まれ、駅のむこうのひょうたん屋さんも泥棒に入られてしまいました。

このように、盗みとは切っても切れない関係にある人間社会に対し、神は聖書を通して「盗んではならない」と命じています。……このことはまず、私有財産が認められていること、神は一人ひとりの財産を尊重しておられることを示しています。人が労働の報酬として給料をもらって、それを使って買い物をしたりして自分のものとすることを認めているのです。しかし、神はすべての財産を尊重しておられるのではありません。不正な手段で得た財産も尊重して、守るということではありません。神は盗むという行為によって、他人のものを自分のものにしてしまうことを禁じておられるのです。

改めて言うまでもありませんが、私たちは泥棒になってはなりません。もしもそんなことをしてしまうなら、神様が尊重し守っておられる他人の財産を侵害することになってしまうからです。…一方、私たちは、自分の財産が盗まれないようにも注意すべきでしょう。自分の財産を大切に守ることはもちろんですが、自分の持っているものをこれ見よがしにひけらかした結果、ほかの人の嫉妬を招き、罪を犯させるということがないとも限りません。一番良いのは、盗まれるようなものを何も持たないことです。そうすれば自由です。主イエスもおっしゃっておられるではありませんか。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」(マタイ6:1920)と。

 

さて世の中では、けちな泥棒がつかまって厳罰に処せられても、大泥棒はぬくぬくと過ごしているという現実があります。先月、兵庫県高砂市の中学校の校長先生がコンビニでコーヒーを飲む時に支払った額以上の量を飲んでいたことが発覚しました。被害額は500円ほどだというのですが、その結果、この人は懲戒免職になってしまいました。…一方、政治の世界では、収支報告書で記載されていない額が3000万円以下の国会議員について、その罪がすべて不問にふされています。コーヒーの量をごまかしたことを不問に付すわけにはいきませんが、しかし不公平感は残ります。

不公平と言えば、食べ物がなくて飢えている人がひときれのパンを盗んだとします。これはたしかに罪です。しかしその人が飢えている原因が金持ちによるたえまないお金の取り立てだとしたら、…パンを盗んだ罪ばかりを問うことは出来なくなるです。

ヤコブの手紙の5章に書いてあることを見て、「え、聖書にもこんな言葉があるのか」と驚かれた方がおられたのではないでしょうか。しかしこれも聖書の言葉です。この言葉を「宗教はアヘンである」と言っている人に返してあげたい気がします。むかしマルクスは、宗教は人間を眠らせて、社会の問題から目をそらせてしまうという理由でアヘンだと言ったのです。けれども聖書をよく読んで行くなら、決して社会の問題から目をそらしていないことがわかります。…もっとも、これまで多くの教会は、ヤコブ書5章のようなところを避けて、礼拝で読むことがなく、説き明かしもしてこなかったと思います。そのためアヘンだと批判されても反論できないような信仰が出てきたのです。私たちは聖書本来のメッセージに立ち返らなければなりません。

聖書には人が社会生活をおくるための確かな指針が示されています。聖書は財産があることそれ自体が悪いとは断言していません。たくさんの富があれば、それを良い目的のために使うことが出来るので、お金持ちには社会の中で果たすべき大切な役割があるのです。問題は富を獲得するための方法とその使い道です。ヤコブ書に出てくる富んでいる人は別に万引きをしたわけでも、人の家に忍びこんで泥棒したわけでもありません。しかしこの人のしていることはいったい何でしょう。4節、「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」。

賃金の不払いが必ず発覚して、処罰されるとは限りません。今の日本でも、経営者が従業員に渡すべき正当な賃金を払っていないということがあるでしょう。たとえ毎月給料を受け取ってはいても、サービス残業などいろいろな口実が設けられていて、本来受け取るべき額より少なくなっているということが問題になっています。みな法律の網の目をかいくぐって行われますが、これらもみな盗みなのです。……そうやって労働の成果をしぼりとられている人々の叫びが、万軍の主の耳に達しました。神は富んでいる人たちの不正をご存じなのです。いくらそのことを隠し通そうとしても、神様の目をごまかすことは出来ません。

財産というのは正しい手段で獲得しなければならず、不正な手段で獲得された財産は、必ず罪悪の連鎖を生み出します。それが「あなたがたは地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られるために、自分の心を太らせる」ということなのです。自分が賃金を払わなかったために苦しんでいる貧しい労働者がいることを知りながら、その人たちのことを一顧だにせず、享楽の限りをつくす、…それは「正しい人を罪に定めて、殺した」というさらに大きな罪を生み出します。

 おそらくここでは、富んでいる人が批判されたり、裁判で訴えられたりしたのでしょう。富んでいる人の側に明らかに不正があり、罪があった、しかし彼らは、裁判に訴えられてもお金により、あるいはさまざまな根回しをすることによって法廷を動かしていくので、裁判官は正しい人を罪に定め、死に追いやってしまったのでしょう。正しい人は抵抗するすべもなく、殺されてしまった、そのような事実がここで指摘されています。

この富んでいる人は、社会の中では尊敬されている紳士かもしれません。しかし十戒に照らしてみるなら大泥棒です。…「盗んではならない」という戒めはこのように、万引きや窃盗など比較的規模の小さい犯罪から、社会の中にひそむ巨悪までえぐりだすのです。……ですから、もしもすべての人がこの戒めを重んじるならば、…労働者と経営者は共に手を取り合い、貧富の差が解消に向かうという、まるで手の届かない理想にしか見えないようなことが実現していくはずなのです。

さらに世界へと目を向けるなら、今日、先進国と呼ばれる国々と発展途上国との格差は絶望的なほど大きくなっています。日本はGDPで世界第4位となり、先進国と言えるかあやしくなっていますが。…同じ地球上で、ありあまった食べ物を食い散らかす人がいる一方、毎年約1000万の人が飢えのために死んでいます。もしもすべての国々とそこに住む人々が「盗んではならない」の戒めを重んじるなら、こんな不公平な社会システムは出来あがることはなく、平和な世界が実現していたにちがいありません。食糧の供給システムひとつとってみても、理想の社会の建設までの道のりはたいへん遠いのですが、百里の道も一歩からと言います、「盗んではならない」ということを確実に実行してゆかなくてはなりません。

 

神様が尊重し守っておられる他の人の財産を尊重し、不正な手段でもってそれを奪ってはいけないということについてはわかりました。それでは自分の財産についてはどうでしょうか。自分のものなんだから煮て食おうが焼いて食おうがかまわない? そうではないでしょう。私たちの財産は自分のものであっても、自分のものではありません。神様のものです。神は世界のすべてを造り、人間に分け与えられました。私たちの財産は、神様から私たちに託されたものです。そのことを忘れ、神様のものを自分だけ独占しようとし、さらに神様が他の人に与えたものまで自分のものにしようとするところから盗みが始まるのです。

私たちはいろいろなものを持っています。お金やたくさんの持ち物、土地とか家ばかりでなく、家族や友人、特技や才能などさまざまです。しかし自分だけの財産と言えるものは何ひとつないのです。自分の持っているものすべてが神様のものですから、この事実を悟って、これを名実ともに再び神様のものとするべきです。神様のために用いるべきです。

 以前ギリシャの海運王アリストテレス・オナシス氏とその家族のことをテレビで見て、考えさせられました。オナシス氏はジャクリーン・ケネディと結婚した人です。お金持ちになることは多くの人が望んでやまないことですが、やはりお金ですべてを買うことは出来ません。…ライバルを蹴落として世界有数の億万長者となったオナシス氏の後半生には次から次へと不幸がおとずれます。死後その遺産をめぐって、家族の間に骨肉の争いが起こります。オナシス氏の娘は結婚と離婚を繰り返したあげく37歳の若さで死んでしまいました。薬物中毒だったそうです。……これは一つの例ですが、もしもこの人たちが、ありあまる財産を自分だけのものとしないで神様のものとしたならば、こんな悲惨な結果にはならなかったでしょう。

 人は自分の財産といえども、これをすべて神様のために用いるべきです。自分のためにはこれを惜しみなく使いながら、神様のために献げることの少ない私たちが、そのままですむとは思えません。

神様から託されたものを自分のためだけに使ってしまおうとするのは、結局は盗人です。神は盗まれたものを取り返そうとして、ご自分で手を下されます。必ず、何かをなされるのです。ヤコブの手紙では、それが終わりの時に起こることとして示されています。人は財産を、死んだあとまで持っていくことは出来ません。「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます」。地主が大量の穀物をたくわえてもいつかは腐ってしまいます。高級な衣服も虫が食い荒らし、金銀のようなとっておきの宝物さえ使いものにならなくなる日が来るのです。富んでいる人たちにとってそれは恐怖の瞬間ですが、そればかりでなくもっと恐ろしい、神様のみ前で命を失う時が来るのです。3節に「このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう」と書かれています。不正な手段によって得た富は、富んでいる人たちの罪を告発することになります。そのために、この人たちは神のみ前で永遠に滅びてしまう、そのことを思って泣きわめけと言われているのです。

パウロは「働かざるもの、食うべからず」(Ⅱテサ3:10)と教えました。私たちは正当な手段によって財産を得るとともに、それを神様のために用いようではありませんか。神様が下さってもいないものを得ようと、人を押しのけて不正な富を得たところで、それは何の意味もないからです。

最後にエフェソの信徒への手紙4章28節を読みます。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」。…これこそ天に宝を積む生涯、神様が喜ばれる生き方なのです。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたは盗んではならないと教えられました。私たちは誰もがこの教えを守っていると思っていました。人間社会の一番基本的な教えです。しかし神様、このご命令にそむく人間の歴史が続いてきました。今も続いています。私たちも、この罪から無縁ではありません。

 世の中の富んでいる人々、貧しい人々、それぞれが財産をめぐって悩みをかかえています。お互い人間同士、ともに生きるために、それぞれが自分たちの盗みの罪を悔い改める機会をふやして下さい。しかしどうか、富んでいる人々の方に、悔い改めの機会をより多く用意して下さいますように。…私たちもそれぞれつつましい暮らしをしていますが、それでも世界の中では富んでいる者たちの部類に入ります。私たちがもしも、知らないうちに盗みの罪に加担していることがありましたなら、どうか教えて下さい。そうして神様に本当に喜ばれる健全な社会生活・経済生活を営むことが出来ますように。

 

 神様、何をするにしてもお金がなくてはならないことは真理です。私たちの教会ももっとたくさんのお金を必要としています。しかし何よりもまずイエス・キリストのあふれる豊かさが教会に満ち満ちてゆきますことを願います。主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。