信仰の父アブラハム

  信仰の父アブラハム   創世記1516、ロマ415 2024.1.28

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13626、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:9、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:284、説教、祈り、讃美歌:271b、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣、後奏

 

 2024年もローマの信徒への手紙とがっぷり4つに組んで、読み込んでいきたいと願っています。皆さんのご協力をお願いいたします。

この手紙の作者パウロは、1章18節から3章20節までの間で、すべての人が罪に陥っており、そのままでは神の御前で義とされない、つまり正しい者とされない、ということを語りました。そして3章21節から、そのような罪人、そこには私たちも入っていますが、…罪人に対し、イエス・キリストによって与えられる救いを説くのです。3章23節以下、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

神の独り子であるイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死んで下さった、このキリストを信じる信仰によって、罪人である私たちが義と認められます。正しいとされます。救われます。パウロが語っている福音の中心、それがこの「信仰による義認」です。

 しかし、パウロが勝ち取ったこの真理をローマ教会の人々、なかんずくそこにいるユダヤ人に納得してもらうのは簡単なことではありませんでした。「パウロ先生、私たちはイエス様を信じていますが、神の恵みにより無償で義とされるとはどういうことですか。そんな話はこれまで聞いたことがありません」というような反応が帰ってきていたのかもしれないのです。

 というのは、ローマ教会の人たちは、たしかに十字架刑を受けて死んで、復活されたイエス様を救い主と信じ、キリスト教徒となっていましたが、先祖伝来のユダヤ教の影響が色濃く残っていたはずで、そこにあるのは、人は善い行いをすることで救われるというものです。皆さんの中に「善い行いをすることで救われる、そんなの当たり前じゃないか」と思っている人がいませんか。もちろん善い行いをするのは素晴らしいことです。しかしパウロは、それが救いの条件ではないと言います。救いとは、神様から無償で、ただで、恵みとして与えられるのだと。…そうするとユダヤ人の方は、そんなことを信じられないので疑問をぶつけてくるはずです。パウロはそのことを想定して書いています。

 ユダヤ人だったらこう言うでしょう。私たちはアブラハムを信仰の父として仰いでいます。アブラハムのようになりたいと願っていますが、アブラハムは善い行い、それどころか偉大な行いによって神様に認められたのではないですか。そのことはパウロ先生だってご存じのはずです。アブラハムのこの信仰にいったい何をつけ加える必要があるのですか、と。

 

 アブラハムは紀元前1800年前後に生きていた人です。カルデアのウル、今のイラクでチグリス川とユーフラテス川が海に注いでいるあたりで生活していたのですが、神様の命令を受けて、行く先も知らずに西にむかって出発し、カナンの地に到着し、そこに落ち着きました。アブラハムの子がイサク、その子がヤコブ、彼らからイスラエルの民、つまりユダヤ人が誕生しました。だから、アブラハムは4章1節で言うところの「肉によるわたしたちの先祖」ということになるのです。

ユダヤ人はアブラハムを信仰の父として仰いでいました。その時、アブラハムの生涯のどの部分を考えていたかと言いますと、有名なモリヤの山での出来事です。創世記の22章にあります、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)。神様からこう命じられ、アブラハムは胸がはりさけるような思いでイサクを連れ、三日の行程を進んだあと山に登り、イサクを縛ってたきぎの上に乗せ、いよいよ殺そうとしたその瞬間、天からみ使いが現れて「その子に手を下すな」と告げたのです。み使いは言います、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(創世記2212)。御使いは重ねて言います、「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記2216

皆さんは、改めてこの話をふりかえってみて、どう思われたでしょう。おそらくほとんどの方が、アブラハムにはこの偉大な行いがあったので、神様に認められ、祝福され、義とされたのだろう、と考えると思います。ユダヤ人もそうでした。人は善い行いをすることで救われるのだという根拠がここにあります。…しかし、これで終わってしまったらパウロの出る幕はありません。

話のついでに申し上げますと、アブラハムのこの行いはイスラム教徒も賞賛してやまないことなのです。アブラハムの信仰の勝利を祝う集会が毎年行われているはずです。もっとも先日初めて知ったのですが、イスラム教ではアブラハムがささげようとしたのはイサクではなく、イサクより先にアブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルだと教えているのです。イスラム教でもアブラハムは信仰の父で、自分たちはアブラハムとその子イシュマエルの子孫だと考えているようです。イスラム教では行いによって義とされるのか、信仰によって義とされるのかは問題になりません。善い行いなら、そこにどんな動機があったとしても良いじゃないかということのようです。

 

さてパウロが、人は信仰によって義とされるということを証明するためにもってきたのが創世記15章です。ここに書かれていることが創世記22章より前に起こっていることに注目しておいて下さい。

アブラハムには長い間、子どもが出来ませんでした。カナンの地には、甥にあたるロトを跡取り息子にするつもりで連れてきたのですが、二人の財産が多すぎて一緒に住むことが出来なくなりました。アブラハムの家畜を飼う人とロトの家畜を飼う人との間で争いが起き、とうとう二人は別れて住むことになったのです。ロトはアブラハムをその地に残し、家族や従業員や家畜と共に東に向かい、悪徳の都として有名なソドムの町で生活することになります。

ところがそんな時、メソポタミアの方から4人の王が連合して、カナンの地に攻め込んでくるということが起きました。ソドムの町は敵軍の手に落ち、ロトはつかまり、財産もろとも連れ去られてしまいます。アブラハムはそのことを聞いて、一族郎党318人を率いて出陣、連合軍に対し、二手に分かれて夜討ちをかけ、ロトを救い出し、連れ帰りました。軍事に関しては素人のアブラハムがよせあつめの軍隊を率いて、捕虜を救い出したのは驚きですが、これは神様が先頭に立って戦った戦争だと考えられています。

しかしアブラハムは、首尾よくロトを奪還したものの、いつまた連合軍に攻めこまれるかわかりませんから恐怖におびえていたようなのです。そんな彼に神様が現れて、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言って下さいました。ところがアブラハムの方は、どんなお言葉を頂いたとしても、自分には子どもがいません、家の僕が跡を継ぐことになっていますから、わたしの受ける報いなど大したものではありませんと訴えます。すると神様は、いやそうではないと言ってアブラハムを外に連れ出し、夜空に輝く満点の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束して下さったのです。

アブラハムは神様の言葉を聞いて信じました。…皆さんがアブラハムの立場だったらどうだったでしょう。アブラハムはこの時、外敵がまた攻めてくるかもしれないという不安に怯えていただけでなく、子どもがいないのです。それなのに、あなたには数えきれないほどの子孫が出来ると聞いて、そんなことはまるで夢みたいで、本当になるはずないじゃありませんか、と逃げの一手でいったとしてもおかしくなかったのですが、これを信じた、ほかならぬ神様の言葉ですからこれを信じたのです。…もっとも、アブラハムのその後の見ると、自分に子どもが与えられるという神様の言葉を疑うところが出て来ます(創世記1717)。だから、この時点で彼は確固たる、固い信仰を持っていたとは言いにくいのですが、神様はそれでも彼の信仰を見て、彼の義と認められた、私なんかが言うのは僭越ですが、アブラハムの信仰には弱点があったにもかかわらず、神様が正しいと認めて下さったということなのです。

アブラハムがイサクをささげたのは、この出来事のあとに起こっています。ユダヤ人はモリヤの山での出来事から、人は善い行いをすることで神様から義とされると考えていたのですが、パウロはそれに先立って。アブラハムが主なる神を信じ、主はそれを彼の義と認められたことに目を向けさせました。神様を信じることが先です。信仰が先、神様は信仰をその人の義と認めて下さいます。アブラハムのした善い行いは信仰のあとに出て来たこと、その結果なのです。

 

「信仰とは善いことをすることだ、善いことをすれば神様が義と認めて下さる、正しいとして下さる、祝福して下さる」、昔ながらのこういう考え方はたいへんわかりやすいものです。イスラム教のように、善いことをする時にどういう動機だったのかなんて、どうでも良いじゃないかと言いたくもなりそうですが、ここをあいまいにしておくと私たちの信仰自体も正しい状態から大きくそれてしまうでしょう。イエス様が地上におられた時代、すでにファリサイ派の人々や律法学者たちがグロテスクな姿を見せています。自分が信仰深いことを人々に見せびらかす、徴税人・重い皮膚病の患者・異邦人などをあからさまに蔑視する、追いはぎに襲われて息もたえだえの人を見捨ててしまうといったことが見えており、イエス様はこれと闘われたのです。だいたい、人が善い行いをするといっても、それがいったいどれほど価値のあることでしょうか。人は罪におおわれているので、善い行いをしようとしていても、そこからさらに罪が広がっていくことはよくあることなのです。

善いことをすれば神様がそれを見て下さって、義として下さるというのだったら、それは報酬です。当然、神様から支払われるべきものです。しかし私たちは、自分たちが善いことをしているから神様から恵みを頂いて当然だと言えるほど偉いのですか。そんなことはありえません。人間の中からは何もすぐれたものは出てきません。もしもすぐれたものが出て来るとすれば、それは神様がかろうじて支えて下さっているからにすぎないのです。

ロマ書4章5節、「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくて も、その信仰が義と認められます」。不信心な者とは神を信じない人、神を神として崇め、従うことをしない人、神様との関係が正しく持てないという人です。それが私たちの現実の姿です。私たちが罪人であるというのは 、何かの犯罪を犯していなくても、不信心な者であるということです。私たちはこの不信心を自分の力で克服することはできません。いくら善い行いに励んだとしても、神様との関係を決定的に転換することは出来ないのです。…しかし、不信心な者を義として下さる方がおられます。アブラハムはこの方、イエス・キリストを仰ぎ見たのでした。…不信心な私たちのために、この世界に人間として来て下さり、私たちの不信心の罪を全て背負って、十字架の死を遂げて下さったイエス・キリストを信じる者は、働きがなくても 、つまり善い行いなど何もなくても、神の独り子イエス ・キリストが成し遂げて下さった贖いの業によって、罪が帳消しにされ、神様の恵みの業にあずかり、義とされ、救われるのです。不信心な者が義とされるという、常識では考えられないことを神様は行って下さいました。それは神様からの贈り物にほかなりません。神様はこの贈り物を、イエス様を救い主と信じる人すべての人のためにして下さったのです。 

(祈り)

 天の父なる神様。今日私たちは、ユダヤ人をはじめ多くの民族の先祖であり、今日、ユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒すべてが信仰の父と仰ぐアブラハムが、善い行いではなく、神様を信じることによって義とされたこと、その信仰も完全なものではなく、弱点もあったものの神様の恵みによって義とされたことを学ぶことが出来ました。アブラハムでさえ神様の無償の恵みによって救われたのですから、まして私たちが自分の力によって救われるはずはありません。

 神様、私たち皆を、本当に悔い砕けた魂をもって、神様からの恵みを受け取る者とならせて下さい。パウロが教えて下さった信仰の核心を、すべての日本の教会が大切なものとして守り続けることが出来ますように。この信仰に立ち続ける時、教会は社会の中で、隣人である今だにイエス様に出会っていない多くの人々との間で平和をつかみとることが出来るでしょう。

 神様、能登半島の地震のため苦しんでいる人たちが本来の生活を取り戻すことが出来ますように祈ります。

 広島長束教会は今日、このあと定期総会を開きますが、教会がこれから進むべき道を神様が示して下さいますように、と願います。

 

 主イエス・キリストの御名によって、これらの祈りをみ前にお捧げします。アーメン。