主イエスの派遣命令

主イエスの派遣命令 エゼ341116、マタイ10115  2024.1.21

 

(順序)

招詞:詩編13625、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:214、説教、祈り、讃美歌:504、使徒信条、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣

 

今日は先週に引き続き、イエス・キリストが12人の弟子を呼び寄せて、伝道の仕事を行うために各地に派遣された時の言葉を学びます。

 

主イエスは弟子たちの派遣に先立って、この弟子たちと共に町や村を残らず回られましたが、そこで見たのは、まるで飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿でした。これは精神的な意味で言っているのだと考えられますが、もちろん放っておいて良いことではありません。主イエスはその土地の会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされましたが、人々のためにするべきことが山ほどあるのは明らかで、次に行ったのが弟子たちの派遣です。

主イエスは12人の弟子を呼び集め、汚れた霊に対する権能をお授けになった上で各地に派遣されますが、そこで発せられた命令にはかなり重大なことが書いてあります。正直な話、私ごときがこの話を説教できるのかと思うような内容です。牧師なら、教会で語ったことが自分に帰ってくるでしょう。お前はずいぶん立派なことを言っているけど、イエス様が言われた通りにできているのかと言われたら、…穴があったら入りたい思いです。しかし、この箇所を語り、また聞いていただくことで、私も、そして皆さんも、信仰生活の上で一歩前進できるかもしれない、そう願って、蛮勇をふるってお話しすることにいたします。

 

主イエスが弟子たちに発した派遣命令は、どれをとっても、「はい。そうですか。すぐにやります」なんて簡単に言えるものではありません。丁寧に見て行きましょう。

主イエスはまず「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と言われます。ここで違和感を感じる方がおられるかもしれません。イエス様はなんでユダヤ人とそれ以外の民族を区別するのか、ユダヤ人だけ救われればそれで良いのか、これは差別じゃないか、と。

たしかにそのように見えなくもありません。しかも、イエス様のここでの態度は、イエス様がそののち与えて下さった教えとは矛盾しているように見えるのです。マタイ福音書のいちばん最後で、イエス様は弟子たちにこう命じられています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ2819)と。つまり、全世界に出て行って教えを宣べ伝えよということで、その命令があったからこそ、教会はユダヤという狭い範囲にとどまらず全世界に広がっていったのですが、ここではユダヤ人しか見ていません、それは何故かということになるのですが、私たちはイエス様がなされたことを第一段階、第二段階と分けて考えることが必要です。すなわちイエス様が地上で活動されていたのが第一段階で、ここではイエス様の活動はユダヤに対することに限定されています。しかし死んで蘇られて以降、イエス様の活動はユダヤにとどまらず全世界に広がっていくことになるのです。まず内部を固めてから外に乗り出すということで、弟子たちの活動もこの段階ではそのように限定されていたということを、まず知っておいて下さい。

 

主イエスによって召し出された弟子たちは、今度は各地に遣わされる者となりました。二人ずつ組になって派遣されたと考えられています。遣わされる先で何をすべきかということが7節と8節にあります。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。

皆さんと共に考えたいのは、現代の教会にも、これと全く同じことが命じられているのかということです。「天の国は近づいた」と叫ぶことは出来るでしょうが、言葉が空回りするようであってはならないわけで、それに続けて書いてあることが問題です。

「病人をいやし」とありますが、今の時代にも、イエス様と弟子たちは病人をいやしたのだから、教会は同じことが出来るはずだと主張する人がいます。祈りによって病気は治るんだと。祈っても病気が治らなかった場合、それは信仰が足りないからだと言われかねませんが、同じことが出来るでしょうか。。…「死者を生き返らせ」、これに類する話もあります。どこの国だったか、ある教会の指導者が自分は死んだあとラザロのように蘇ると宣言しました。しかし、復活はありませんでした。…昨年、幸福の科学の信徒から私に電話で、大川隆法先生を復活させて下さいという依頼が来ましたが、私はこれに応えることは出来ませんでした。なお、弟子たちがこの伝道旅行で死者を生き返らすことが出来たかどうかは聖書に書いてありません。…いまイエス様や弟子たちのように、重い皮膚病を患っている人を清くすることが出来る人がいるとは思えないし、悪霊についてはこれが働いている場所を特定することは困難です。つまり今の時代に、主イエスのご命令通りそのまま行うことが出来る人がいるとはちょっと考えられないのです。

では弟子たちはなぜ、この命令を受けて出発することが出来たのか、それはイエス様から汚れた霊に対する権能を授けてもらったからにほかなりません。弟子たちが自分の力で病人をいやしたりすることなど出来るはずはありません。偉大な力が主から与えられた結果、彼らはこれを用いることが出来たのです。

このような目覚ましい働きが行われたのは初代教会の時代まででした。教会はこうした奇跡を通して、天の国が近づいたこと、つまり神のご支配が始まったことを、言葉だけでなく実際に起こったことをもって証明したのです。…現代において、教会が同じことを行うことは、おそらく出来ません。誰も主イエスから権能を与えられてないからです。しかしながら、だからといって、教会がそこでストップしてしまうことはありません。今日までの長い歴史の中で、医学が各段に進歩したり、悲惨な状況にあった病人の人権を回復させようとする動きが進んできたことの根底には、主イエスと弟子たちの活動がありました。そのことは確かです。…かつて札幌北一条教会は医療団を組織して北海道内を巡り、各地で病人の治療にあたったといいます。…神奈川県・恵泉伝道所の小川武満先生は牧師と医者の仕事を兼務していました。広島長束教会にはご存じのように、いまお医者さんと、病院の清掃の仕事をしている人がいます。神様は教会に、医療に関係する多方面の働きを期待しておられますから、これに応えることが出来ますようにと願います。

12人の弟子たちは、自分には能力がなかったにもかかわらず、主イエスから権能を与えられて出発しました。そのことを表すのが「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉です。主がいやし、生き返らせ、清め、悪霊を追い払われます。弟子たちはその力を受け取っただけです。ここでの「ただで」という言葉には、「贈り物として、恵みとして」という意味があります。弟子たちは贈り物としてただで与えられたものを、人々にただで与えていったのです。…世の中には分野を問わず、すぐれた能力を持っている人がそうでない人を見下すことがしばしばありますが、誰もがこの弟子たちのように、自分の能力が贈り物としてただで与えられたことを知るなら、そういうことはなくなるでしょう。

 

こうして送り出される弟子たちの姿を具体的に教えてくれるのが9節と10節です。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」

伝道者たる者、これをそのまま実行しなければならないとしたら、私は身が引き締まる思いがします。袋もだめ、お金もだめとなると大変です。履物を持っていってはならない、これは裸足で歩けということなのでしょう。食べ物を受けるとは、それこそ一部の仏教寺院でやっているように、托鉢をしなさいということなのでしょう。

キリスト教の歴史の中で、これをそのまま実行しようとする運動がしばしば起こっています。有名なのはアッシジのフランチェスコ、12世紀から13世紀にかけての人で、貧しさに徹することによって偉大な信仰の革新を成し遂げました。この人の生涯は、「ブラザー・サン・シスター・ムーン」という映画にもなっており、この教会にDVDが置いてありますから、良かったらご覧になって下さい。…日本キリスト教会では、出雲今市教会の牧師を40年ほど務め、1995年に亡くなられた笹森修先生は教会から月に2万円しかもらっていませんでした。…私など、こういう人に比べると自分が本当に小さく見えてしまうのですが、それは、伝道の務めを担う者はお金のことも着る物、食べ物のことも、つまる経済的な準備を一切するなということなのでしょうか。しかし、そうではありません。ここでは、最後はお金がものをいうというような、経済的なことに依存しようとする気持ちを戒めているのです。主イエスがその御業を実行するために弟子を派遣される時、その仕事をするのは主ご自身です。だから、主を頼りにしなければならないということを教えているのです。

なお、弟子たちの派遣に関しては並行箇所がマルコ福音書6章7節以下にあります。8節、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」…マタイ福音書と少し違っていることに気がつかれましたか。こちらでは杖を持っていって良い、履物は履くように、下着は二枚はだめでも一枚なら良いと言っているのです。マタイもマルコも、どちらも聖書の言葉ですから、じゃあどちらを信じれば良いのかとなってしまうのですが、これはおそらくものごとの二つの面を現わしているのでしょう。マタイの方では主イエスを究極的に頼りとすべきだという心構えを、マルコの方ではそれでも最低限の準備は必要だと説いているのです。ただ、どちらにおいてもお金やものに頼るなということでは共通しています。

 

最後に11節以下、そこでは「平和があるように」と挨拶することが求められています。ただし、12節を原文から直訳すると「その家に入ったら挨拶しなさい」となっています。ユダヤ人がふだんかわす挨拶は「シャローム」、シャロームとは平和のことですから、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と訳してあるのです。

派遣された弟子たちはおみやげのたぐいは何も持っていきませんが、しかし主イエスから、「平和」という何よりとうといものを預かっており、これを人々と分かち合うのです。神様に反逆していた人間が神様を信じて、悔い改める時、神との平和が与えられ、それは次に隣人との平和を産みだします。人々は、主イエスの弟子たちが財産など何も持っていなくても、神様からの恵みを受けて平和に生きているという事実に出会い、驚きと喜びに包まれます。そうして、自分もその中に入ろうと、一度しかない人生を立て直していくことになるのです。

しかしながら、この喜びの輪に加わろうとしない人々もいます。弟子たちを迎え入れようとせず、その言葉に耳を傾けようとしない人がいたら、その家や町を出て行くときに足の埃を払い落としなさいと言われます。これは、せっかくの神様からの招待を拒絶する人が自ら招く災いが、遣わされた弟子たちに及ばないことを象徴的に示す行為です。その人たちが遭遇する災いは、神様が滅ぼされたソドムとゴモラよりもっと深刻であると述べられています。それだけに伝道者の責任は重大なのです。

皆さんは職業的な伝道者ではありませんから、今日のお話は自分にはあまり関係ないと受け止められたかもしれません。しかし、主イエスによって召し集められた者が主イエスによって派遣されることは、その人が職業的な伝道者であるかどうかとは関係ありません。皆さんはこの世での生活の中から召されて、この場に集められ、礼拝の恵みを受けました。そして礼拝式順を見るとおわかりのように、最後が「祝福と派遣」です。誰もがみ言葉を携えながら、この世に派遣されていくのです。

世間の人々はクリスチャンはああいう人たちなのかと私たちを見ておりますから、私たち自身がイエス様からのメッセージです。だから自分の言葉と行いを通してイエス様がたたえられるなら素晴らしいことですが、自分のことでイエス様がおとしめられるようなことになってはなりません。主イエスからいただく平和を、私たちからも発信することが出来ますように。私たちにも主イエスからの派遣命令が与えられているのです。

 

(祈り)

恵み深い神様。御子イエス・キリストが、私たちにこうして礼拝の場を設けて下さいました。神様の前に本来なら顔を上げられない者たちがささげる賛美と感謝の思いを受けて下さるのも、イエス・キリストのゆえです。

2000年の昔、主イエスの12人の弟子たちが、福音を携えて各地に派遣されました。いまの教会が行う伝道とはだいぶ形が違ってはいますが、救いを必要としている人々が大勢いることには昔も今も何ら変わりありません。

日本は表面的には平和で、神様のことなんか考えなくても、問題なく生きていけるかのように一部では思われていますが、しかし、それは危うい均衡の上に立っています。いま日本の経済は下降傾向にありますが、この国がたとえ政治的・経済的、また軍事的にどれほど繁栄しようとも、人々の心に神様がおられなければ、この国の未来にどんな大変なことが待ち構えているかわかりません。どうかこの国を顧みて下さい。

神様、今ここにいる私たちの多くは職業的な伝道者ではありませんが、どうかこの世において、神様との平和を人々の間に広げようとする、教会に与えられた素晴らしい仕事の一端を担わせて下さるよう、お願いいたします。

神様、先週16日に、教会のあじさいコンサートなどでたびたびご奉仕して下さったオルガニストの田﨑美香さんが召天され、私たち一同みな悲しんでおります。どうか彼女が音楽において成し遂げたこと、訴えたかったことが、あとに続く者たちの間に残り、受け継がれていきますようにと切に願います。

 

これらの祈りをどうかお聞きあげ下さい。とうとき主の御名を通して、この祈りをみ前におささげいたします。アーメン。