キリストの平和にあずからせるため

キリストの平和にあずからせるため イザヤ321518、コロサイ31217

      2024.1.7

(順序)

前奏、招詞:詩編13623、讃詠:546、交読文:十戒、讃美歌:1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-133、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌206)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 新年、あけましておめでとうございます。2024年は元旦に大地震、二日には羽田空港での衝突事故と、たいへん痛ましい出来事でもって始まり、前途多難なことが予感されますが、しかしそうであっても、神様から確かな導きが与えられていることを信じ、皆さんと共に希望をもって信仰の歩みを始めていきたいと願っています。

 広島長束教会で2024年の聖句として選ばれたのはコロサイの信徒への手紙3章15節、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」です。キリストの平和というのは非常に深い響きを持っていますが、わかったようでわからない言葉ではないかとも思います。

 パウロはコロサイの教会の信徒に手紙を書いている時、いったいどこからキリストの平和という言葉を持ってきたのでしょうか。いま、この手紙についてていねいに説明する時間がないので、3章1節をご覧下さい。こう書いてあります。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」

今ここにいるうちの大部分の方は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けています。…まだ洗礼を受けていない方、小児洗礼だけで信仰告白をしていない方も遅かれ早かれそのように導かれるでしょう。人生の途上ですでにイエス様との出会いがあったのですから。

3章1節は、すでに洗礼を受けた人たちに向かって「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と書きます。復活させられたとなるとその前には死んでいたこになりませんか。人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受け、クリスチャンになるということは、第一段階としてキリストの十字架によって古い自分が死に、第二段階でキリストの復活によって復活させられる、新しい自分が誕生するということなんですね。たいへん不思議な言い方ではありますが、このように言うしかありません。

コロサイ教会の人々はこのような意味で、キリストと共に復活させられた、だから、もうこれまでの生き方を続ける必要はありません。そこで「上にあるものを求めなさい」と言われているのです。上とは何でしょう、1節に「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」とありますから、そこからも判断されるように、それは天です、いまキリストがおられる所ですから、上にあるものを求めなさいとは、天におられるキリストが持っておられるものを求めなさい、ということになるのです。

それまで、キリストと共に復活させられる前まで、人はこの世にあるものを求めてきました。誰でも思い当たることですね。それは他の人より偉くなったり、たくさんのお金を手に入れたり、楽しみを追求することだったりします。しかしイエス様を信じて復活させられ、新しく生まれたのですから、それまでと同じことを繰り返すことはありません。…それは、この世のことはどうでも良いということではありません。この世に生きている以上、ある程度の社会的地位は必要ですし、お金がなければ生きていけないし、ささやかな楽しみもあって良いわけですが、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ633)と教えておられます。まず神様を求めることが第一で、そうすればこの世に生きて行くために必要なものは与えられるのです。

この、「上にあるものを求めなさい」という教えの中で、12節から17節までのことが教えられています。12節を読みます、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」

これを前半と後半に分けてみると、前半の言葉があって初めて後半のことが言えることがわかります。つまり、「「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」、だから「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」となるのです。逆ではありません。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容があれば神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されるというのではないのです。人間にはもともと憐みの心も、慈愛も謙遜も柔和も寛容も身についていません。いっけんそのように見える人であっても、それは神様がかろうじて支えて下さっているからにすぎず、心の底をライトでさらしてしまえば何が出て来るかわかりません。人間の中からは良いものは出て来ません。しかし神様によって選ばれ、聖なる者とされ、愛されているから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけることが出来るし、そのように命じられているのです。

神様によって選ばれることが先にあって、すべて良いものはあとから与えられる、そのことはイエス様の弟子たちを見てもわかります。12人の弟子たちは、失礼ながら人柄でも能力でも特に秀でた人ではありません。それなのに最後の晩餐の席で、おれたちの中で誰がいちばん偉いか論争するのです。永井修先生という方が言われるには、「イエス様はこんな弟子たちを見て、死んでも死にきれなかったんじゃないか」。…この弟子たちはイエス様の十字架を前に、一人はイエス様を敵に売り渡し、残りの11人はイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。私から言うのもなんですが、情けないことこの上ない弟子たちだったのです。しかしイエス様は彼らを選ばれた、そうしてユダを除いてあとの皆をそれこそキリストと共に復活させ、2000年続いている教会の礎として下さったのです。

このように、もともとどうってことない人間たち、そこに私たちも入るのですが、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されるようになった。この恵みの中で「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」、「愛を身に着けなさい」、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」などたくさんのことを命じられていますが、その全部についてお話しすることはとても出来ないので、「キリストの平和」に的をしぼることにします。

15節、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体にされたのです」。

「キリストの平和」について、ここには説明がありません。キリストと共に復活させられたという恵みの中にあることは確かですが。そこで聖書の他の箇所を調べてみると、パウロはこのように言っています。ロマ書5章1節、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており……」。神と人間の間にはもともと平和がありません。人間が神様に背いて、神様を怒らせてばかりいるからです。多くの人はそのことに気がついていません。神様の力をみくびっている人もいます。しかし人が、たとえば隣人に対し罪を犯して神様を怒らせた時、神様の怒りは隣人との関係の破壊という形で自分に帰ってくるのです。こういうことは、戦争にまで行き着いてしまうのです。

エフェソ書2章14節以下にはこう書いてあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

この部分を説教した時、私はこういう話をもってきました。昔、争いあう二つの家がありました。殺し合いをするほど仲が悪かったのですが、そんな中、一つの家の若者ともう一つの家の娘が恋に落ちました。二人はひたむきに愛を貫こうとしたのですが、お互いの家同士がかたき同士なので何をしてもうまくゆかず、そのために二人とも命を落としてしまいます。二つの家は、自分たちが争いあったために愛する息子と娘を死なせてしまったことを悟って、ついに和解しました。こうして争いあう二つの家にようやく平和が訪れたのです。

これはご存じのようにロミオとジュリエットの話で、イエス様の十字架の死とは比べようがありませんが、ヒントになるかと思います。神のみ子イエス様、古今東西で唯一の、かけがえのない方が人間の罪のために十字架につけられ、命を落とされました。十字架の前で、人は自分がこの方を殺してしまったという、取返しのつかない罪に直面させられ、そのところから、イエス様を救い主と信じることで神様との平和を取り戻そうとするのですが、神様との平和が与えられて敵意が滅ぼされた時、隣人との関係も平和な、新しいものへと変わらなければなりませんし、実際にそうなるのです。

自分の隣にいるのが、どんなに嫌いな人であっても関係ありません。見かけが違う、しきたりが違う、言葉が違う、なんでもかんでも理屈をつけて互いに壁を造り、争いあったその罪がイエス様を苦しめ、とうとう十字架の死に追いやってしまったことに気づいてほしい。…パウロはそういう思いを込めて書いています。

しかしながらイエス様の十字架の死は復活へとつながります。まさにイエス様が十字架につけられたことをもって、神との平和が実現し、敵意が滅ぼされ、人と人との間、人と自然の間に平和がもたらされました。キリストの平和とはただ戦争が起こっていないだけの表面的な平和ではありません。人間の心までつくりかえる、本質的な平和なのです。

 

今日はこのことをさらに、現代的な課題として考えていきましょう。キリストの平和というのは、実際に、キリスト教が盛んな国々の間でどこまで実現しているのでしょうか。このことが大きな力を発揮していることは認めるべきですが、残念ながらそれがすべてではありません。

歴史的にキリスト教国と呼ばれる国々は、一方で軍事力、一方で宣教師を用いて、南北アメリカ大陸やアジア、アフリカを侵略し、私たちの想像を超える被害を与えてしまいました。それなのに、今でも欧米のキリスト教徒の中に、たいへんプライドが高くて、遅れた国々の野蛮な人々をキリスト教によって導いていかなくてはならないと思っている人がいるのです。この人たちは世界をピラミッドのような構造で考えています。いちばん下に下等な生物、だんだん高等な生物になって、やがてヒトとなりますが、有色人種は下の方、ヒトのいちばん上に自分たちがいるという考え方です。さすがに、自分たちをキリストより偉くしようとはしませんが。この人たちは、かつての奴隷貿易やいまキリスト教徒が行っている戦争をどう考えているのでしょうか。彼らにとっては、自分たちが世界の主役公である時、キリストの平和が実現しているということなのでしょう。こういう人たちがいるから、キリスト教は怖いと言われることになってしまいます。

こういうことが起こるのは、今も多くのキリスト教徒がキリストの平和ということを取り違えて考えているからです。二つのものを一つにし、敵意を滅ぼされるキリストが、キリスト教徒の思い上がりや、戦争にまで至る横暴を認めておられるはずがありません。

昔、ローマの平和という言葉がありました。パックス・ロマーナと言って、強大な権力がもたらす平和です。現代にはパックス・アメリカーナという言葉もありますが、パックスのあとにロシアを入れても、中国を入れても、どの国の名前を入れても同じです。

キリストの平和は、これらとは全く違う平和です。神の御子でありながら人となって、御自分の血によって平和を打ち立てたキリストが、ほんの一部のキリスト教徒を主人にして、その下に世界を従わせるような世界をつくろうとは決してなさいません。「あなたがたの中で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ202627)と教えられ、そのことを身をもって証明したイエス・キリストが、今年、世界の人々と共に私たちの広島長束教会をも導き、本津の平和を与えて下さることを願います。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。神様が新しい年2024年を、神様のみこころを世界に実現する年として創造されたことを思い、神様を賛美いたします。

昨年は、世界にも日本にも、そして私たちが生きる家庭にも多くの重大な出来事が起りました。時代は激しく動いて行きます。戦争が起きたり、気候災害が起こったり、「神様、どうしてですか」と叫びたいようなこともありましたが、しかし私たちの信仰が失われることがなかったことを感謝いたします。

新しい年も、元旦から大地震が起こるなど波乱の幕開けとなりましたが、どうか大災害を通しても、そこで苦しんでいる人々の思いを皆が自分のこととして思い、助け合い、祈り合うことで、災害からの一日も早い回復がはかられることを願います。

神様がキリストの体として建てられた教会は、紆余曲折はありますが、この日本にも、広島にも伝わり、日曜日ごとにみ言葉を伝え、神様の愛と正義を求めてたたかうすべての人を慰め、力づけて下さいます。どうか、新しい年の上にキリストの平和が与えられますように。ウクライナやガザなど戦乱の地に神様の愛する平和を確立して下さい。そうして私たち広島長束教会につながる者たちの心にもキリストの平和によるご支配がありますように。12月にこの年を終える時、キリストの平和が本当に私たちの上にあったと感謝できるような一年を過ごさせて下さい。

 

私たちとこの教会につながるすべての人に、主イエスにある恵みを、とお願いいたします。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。