難民になった聖家族

難民になった聖家族  エレミヤ311517、マタイ2:1323  2023.12.31

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13617、讃詠:546、交読文:詩編23、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:Ⅱ—128、説教、祈り、讃美歌:122、信仰告白:使徒信条、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

皆さんにとって2023年はどういう年であったでしょうか。この年、とても素晴らしい、充実した一年を過ごしたという人がいるかもしれませんが、一方、たいへんつらい一年だったという人もいるかもしれません。どちらにしても、どんな一年を過ごした人にとっても、一年の最後の月にクリスマスがあって、クリスマスの光を通してその年を顧みることができるのはキリスト者だけに与えられた有難い特権です。

私たちは誕生日には、その日生まれた人に「おめでとう」と言って祝います。でもクリスマスは、「イエス様、おめでとう」というより、イエス様がお生まれになったので私たち自身がめでたい、良かった良かった、と喜び合う日なのです。イエス様がお生まれになった、インマヌエル、神は私たちと共におられるということを再確認して、この一年の自分のいたらぬ点を反省すると共に、ああこうだったのか、じゃあもう一度やってみようと、新しい年に望みを託してこの年を終えたいと思います。

 

教会でクリスマスの季節に取り上げられる聖書の箇所は、羊飼いたちへの天使のお告げや東の国の占星術の学者たちなどなど、皆さんは美しい、楽しい物語と思って聞いておられたかもしれません。そのこと自体は結構なことで、イエス様のご降誕によるあふれる喜びというのがあるのですが、しかしながら聖書はそのような話ばかりではありません。美しい、喜びあふれる物語の陰には、暗い、残酷な現実があったのです。

まずヨセフですが、マリアと一緒になる前にマリアの妊娠を知って、悩みぬきます。占星術の学者たちがエルサレムに入った時、ヘロデ王も、エルサレムの人々も不安を抱きました。ヨセフとマリアがベツレヘムに上っていくと、泊めてくれる宿屋がなく、メシアは家畜小屋の中でお生まれになるのです。こうした、喜ばしいはずのクリスマスの負の側面が最も激しいかたちで現れたのがベツレヘムで起こった大惨事です。

イエス様のご降誕を誰もが歓迎しているわけではありません。神の御子で、世界の救い主が誕生なさった時になぜ、闇が光を圧倒したかに見えるようなことが起こっているのか、それは、どんな人の心の中にもある、イエス様を拒絶する思いの現れなのです。イエス様のご降誕を喜び感謝する人がいる一方で、イエス様を排除しようとする力が働くのはむしろ当然なのです。

 

 ルカ福音書に書いてあるように、イエス様がお生まれになったのはベツレヘムの家畜小屋で、その日にさっそくお祝いにかけつけたのは羊飼いたちでした。占星術の学者たちはそのあと、羊飼いたちとは別な日に到着したのです。マタイの2章11節には「家に入ってみると」と書いてありまして、その頃、この家族は家畜小屋ではなく家に住んでいたようです。

 時間軸を少し前に戻しますが、占星術の学者たちがエルサレムに入って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言った時、ヘロデ王は不安を抱きました。エルサレムの人々も皆、同様でした。ヘロデ王は民の祭司長たちや律法学者たちに、メシアはどこに生れることになっているのかと問いただすと、今度は占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめると、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムに送り出したのですが、もちろん拝みに行くつもりはありません。

 ここでヘロデ王がどういう人物だったかということを述べておきましょう。紀元前63年、ユダヤはローマ帝国が支配するところとなりました。ヘロデはユダヤ人ではなくエドム人、紀元前37年にローマ帝国からユダヤの王に任ぜられました。彼は頑強な肉体の持ち主、勇敢な軍人であると共に、雄弁で、経済にも明るく、指導者として有能な人物でありました。ヘロデがユダヤの王となり、この国を統治するにあたっては、ローマ皇帝アウグストゥスやエジプトの女王クレオパトラも登場する波乱万丈の物語がありますが、興味のある方はあとで調べてみて下さい。ヘロデはたいへんに猜疑心が強く、自分の権力を脅かす可能性がある人物を次々に殺していきました。当時のユダヤ教の学者2人を生きたまま焼き殺したという話があります。彼は10人の妻によって15人の子供を作りましたが、その妻や3人の息子さえ殺してしまったほどで、恐怖政治を行っていたのです。

 しかし、その一方で人心収攬の術にも長けていました。国民の経済生活の向上のために手腕を発揮したようですが、何といってもこの人が行った最大のことは神殿の再建です。エルサレム神殿の建設は紀元前20年頃に開始され、完成までに50年以上を要しました。のちに主イエスの弟子が感嘆して「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ131)とほめたたえたみごとな神殿はヘロデ王によって建築が始められたのです。しかし、だからと言って王がユダヤ教の熱心な信者だったということではありません。すべてユダヤ人の歓心を買うためだったのです。このような王に対して、エルサレムの人々は一方でおそれつつ、一方では歓迎していたようです。

 

 ヘロデ王は占星術の学者たちが報告してくれるのを待って、イエス様を殺してしまおうとしていたのですが、学者たちが自分を避けて帰ってしまったのを知って大いに怒りました。イエス様に暗殺の危険が迫ってくる中、主の天使が再びヨセフの夢に現れて告げました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」。

 「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」と書いてありますから、大あわてで出発したのでしょう。旅費やエジプトでの生活費はどうやってまかなったのでしょうか。占星術の学者たちから献げられた贈り物が役に立ったのかもしれません。この家族はいわば難民となって、エジプトに落ちのびて行ったのです。イエス様が誕生されたのは、紀元前7年、5年、3年といくつかの説があります。ヘロデ王が亡くなったのは紀元4年なので、この家族はエジプトでかなり長い間生活していたことになりますが、その頃の様子はわかっていません。

 

 ヨセフとマリアとイエス様がエジプトに逃げていったその頃、ベツレヘムとその周辺一帯で、2歳以下の男の子が一人残らず殺されるという事件が起きました。クリスマスの喜びが、まるで泣き叫ぶ声の中でかき消されるような出来事です。ベツレヘムは小さな村だったので、殺された男の子の数は20人ぐらいだと考えられていますが、数が少ないからといって無視できるものではありません。これを実行したのはヘロデ王で、エルサレムの市民は見て見ぬふりをしていたのだと思われます

マタイは書いています。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。』」

 ラマというのはエルサレムの北約8キロのところにありまして、そこにラケルが葬られたということです。ラケルとはアブラハムの孫のヤコブの妻で、やはりヤコブの妻であった姉レアと共にイスラエル12部族の祖となる息子たちを生んだので、ここではイスラエル民族の母のような位置づけになっています。そのラケルが泣いている、墓の中から泣いている、子供たちが奪われたからです。

 ここにはイスラエル民族の悲しい歴史が重ねられています。イスラエル民族はかつて二つの国、イスラエルとユダに分裂していましたが、紀元前722年にその内の一つ、イスラエルが滅ぼされ、人々はアッシリアに連れて行かれてしまいました。その時、連れて行かれる人々を見て、ラケルが墓の中から泣いているというのがエレミヤ書に書いてあったことで、マタイはこれを、ヘロデ王によって行われた幼児虐殺事件と重ね合わせています。17節に「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と書いてあるので、預言の成就というふうに考える人がいるかと思いますが、ラケルはイスラエルの民がアッシリアに連れていかれた時、すでに泣いているので、これを持ち出してきたのは文学的な書き方のようです。つまりイスラエル民族の母ラケルの嘆きがここでも繰り返されたということです。

 まことに残念なことですが、子供を奪われて泣き悲しむラケルの嘆きというのは現代にも起こります。いまガザやヨルダン川西岸地区で起こっていることがまさにそういうことではないでしょうか。ある人が言うには、いまイスラエルがガザで行っている情け容赦ない攻撃の目的は、ガザを人が住めなくしてしまうことで、そうして今度はパレスチナ人をシナイ半島の荒れ野に追い出す、そしてさらにこれを世界に認めさせることなのだと。昨日の夜7時からのNHKニュースでは、イスラエルはガザにある墓地を破壊しているということです。たとえハマスが墓地から戦闘を仕掛けてくるといっても、これはパレスチナ人の痕跡をこの世から消し去ろうということにほかなりません。

 私たちはヘロデ王はなんと残酷なのかと思いますが、私たちはヘロデ王ではないとしても、王がしていることに見て見ぬふりをしているエルサレムの市民には似ているのかもしれません。日本を含めて国際社会がイスラエルによるジェノサイドを黙認してしまえば、それは何もしないことによって罪を犯すことになるのです。

 

 イエス様がもの心ついたあと、ベツレヘムでの幼児虐殺事件を知ることがあったのかどうかわかりません。しかし、この事件の最後の犠牲者がイエス様だったということは確かです。イエス様はこの時は生き延びることが出来ましたが、やがて大きな権力のために十字架につけられることになるからです。

 エジプトに逃れたヨセフとマリアとイエス様の家族は、紀元4年にヘロデ王が死ぬと再び戻ってきて、ガリラヤのナザレの町の住人になりました。「彼はナザレの人と呼ばれる」と書いてありますが、ユダヤの国の中でガリラヤは言い方は悪いのですが片田舎、そしてナザレはまさにド田舎、あんな辺鄙で何もないところからいったい何が出て来るのかと思われていたのです。だから、ふつう、「ナザレの人」と呼ばれるのは恥ずかしい、その言葉が出るだけでばかにした笑いが起こる、イエス様はそのような名前をも引き受けられたのです。

 イエス様の命は守られました。ヘロデ王のイエス様を亡き者にしようとするどのような執念も、イエス様を殺すことは出来なかったのです。ただそれは、神がいつ、いかなる時にもイエス様を守られたということではありません。…イエス様はこの時、死んではならなかったのです。時期が来るまで死んではならなかったのです。イエス様が死ぬべき時は別に定められていて、その時が来るまでは、神様はどのような力からもイエス様を守られたということです。

 そこには神の深いご計画がありまして、そこで用いられたのがマリアと共にヨセフでありました。ヨセフは、クリスマス物語の中で合計4回、主の天使から夢でお告げを受けています。マリアを妻として迎え入れること、エジプトに逃げ、そしてそこから戻ってくることも、ヨセフにとって生易しいことではありません。しかしそれに対して、ヨセフが不平不満を言ったようなことは書いてありません。ひたすら従順に、神様から命ぜられ、託された務めを黙々となしとげていく、そこには人々の注目を集めるような華々しいことは何もありませんが、限りなく尊いものがあったのです。

 ヨセフがマリアと幼子イエス様を守っていったことは、はからずも、神の約束の実現に結びついていました。15節では、エジプトに向かったことについて「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼びだした』と、主が預言者を通して言われていたことが実現されるためであった。」と(←ホセア書11:1)、またナザレに住むようになったことについて、23節で「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった」と書かれています。(←イザヤ11:1,士師記13:5など。不確定)

 「なになにが実現されるためであった」という文章はほかでは滅多にお目にかからないので、何のことかと思ってしまうかもしれませんが、これは神様のお約束がここで実現したことを示すたいへん大事な文章なのです。おそらくヨセフ自身は、マリアとイエス様を守っていくだけで精一杯で、自分がしていることが大きな意味を持っていることなどつゆほども思ってもいなかったでしょう。しかし自分では気づかないまま、神の遠大な救いのご計画に用いられていたのです。

 信仰に生きるということは、このように、一人ひとりの思いを超えて、神の遠大な救いのご計画に用いられることでもあるのです。別に、何か大きなことをしなければいけないということではありません。はたから見たら平凡そのもののような人生であっても、それどころか所属する組織から戦力外通告を受け、負け組と揶揄されるような人であっても、自分に対して示された神のみ心に忠実に生きていく時、これによって神の遠大な救いのご計画が一歩一歩実現してゆくのです。神様の導きの中に私たちの人生があることを信じつつ、2023年に別れをつげ、新しい年へと進んでまいりましょう。

 

(祈り)

 恵み深い天の父なる神様。あわただしい勢いで、この年が去っていこうとしています。私たちは月日の経つのが早いのに比べ、自分たちはいったい何が出来たのか、馬齢を積み重ねるだけなのかと残念に思うことがありますが、それにもかかわらず、神様から広島長束教会と私たちに与えられた大いなる導きを感謝いたします。教会の今年の主題聖句は、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」でありました。私たちは、神様のみ前に恥じることの多い者ですが、このみことばに支えられて、からくも一年を過ごすことが出来たと思います。

神様、私たち一人ひとりとその家庭を顧みて下さい。自分のことだけでも大変ではありますが、どうか自分の外にも目を向けて、本当の意味で隣人を愛する生き方をすることが出来ますように。常にサタンの誘惑の中で揺れ動く私たちですが、教会での礼拝を欠かさず、み言葉に触れ、聖餐にあずかることを繰り返すことで、神様の前で罪から浄められ、新しく創造されていく、このことを新しい年においても続けてゆくことが出来ますようにと願います。

 

 とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。