ヨセフ―救い主の父

ヨセフ―救い主の父  詩編6723、マタイ11825  2023.12.17

(順序)

前奏、招詞:詩編13616、讃詠:546、交読文:詩編23篇、讃美歌:94、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:118、説教、祈り、讃美歌:97、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

クリスマスシーズンになって教会でどんな話をするかというと、皆さんはマリアへの受胎告知や星に導かれて外国からはるばるやってきた学者たち、また羊飼いたちへの天使のお告げなどを思い出すことでしょう。その中で、重要な役割をはたしているはずなのにあまり目立たない人物がいます。それがヨセフです。

ヨセフはクリスマス劇の中では、ベツレヘムの町で「どうか部屋を貸して下さい。私の妻に赤ちゃんが生まれそうなんです」などとしゃべっていますが、聖書の中ではどうでしょうか。調べてみると、ひとことも発言していないのです。神のみ子を胎内に宿すことを告知されて「お言葉どおり、この身に成りますように」とみごとな信仰の告白をしたマリアに比べ、影が薄いようにも見えるのですが、ヨセフとは実際にどういう人だったのでしょうか。

 

 ユダヤの人々は紀元前6世紀にエルサレムが陥落してしまって以来、自分の国を持てないでいました。イエス様はユダヤの国でお生まれになったとよく言われますが、国といっても独立国ではなくローマ帝国の支配下にありましたから、汗を流して働いて得たお金も、ローマに税金としてごっそりもってゆかれてしまうのです。異民族に支配される苦しみをなめつくしていたユダヤ人の中にヨセフがいました。ヨセフはダビデ王の血を引く由緒ある家柄の人でしたが、だからと言って周囲から一目置かれていたわけではありません。私は、ダビデ王の子孫というのはおそらくたくさんいて、ヨセフはその中の1人にすぎなかったと考えています。

 のちにイエス様が成人して、ご自分の故郷、ナザレの会堂で伝道された時、人々は驚いて言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(マタイ135455)と。…ヨセフは大工さんでした。私が聖地旅行に行った時、ナザレでヨセフの仕事部屋というのを見ました。本物なのかどうかよくわかりませんが観光スポットになっていて、そこでは家具職人として紹介されていたので、ヨセフは家を作るというより家具を作っていたのかもしれません。

 ヨセフはマリアと婚約していました。この時代、婚約は法的には結婚したことになっていました。そのため19節で「夫ヨセフは」と書いてあるのです。実際には、婚約から1年ほどあとで夫婦生活が始まります。当時の結婚年齢は低くマリアは13歳ほど、ヨセフは18歳ほどだと考えられています。

当時のユダヤにおいては、結婚までには三つの段階がありました。

第一段階は「許婚」の段階です。その多くは幼少期に本人たちの意思とは関係なく、双方の親の合意によって結婚が決められます。ヨセフとマリアの結婚を親が決めたのか、当人同士が決めたのかはわかりません。

第二段階で、当人同士がその結婚を了承して婚約します。これによって法的に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とは違って、法的には夫婦とみなされても、一緒に住むことは許されていなかったのです。

第三段階で、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え、花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げることが出来ます。この段階になって初めて、二人は一緒に暮らすことが出来るのです。

18節で「母マリアはヨセフと婚約していたが」とあるのは、このうちの第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、二人はまだ一緒に住むことができなかったということです。そんな時に何が起こったのか、18節以下、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」   

マリアはすでに天使ガブリエルから、聖霊によって神の子をみごもることが伝えられており、その言葉通り妊娠しました。彼女はそのことを、悩みながらもヨセフに告げたのでしょう。しかしヨセフにとって、これは青天の霹靂で、すぐに信じろと言っても無理な話です。ヨセフがマリアと他の男性との関係を疑うのは当然です。しかしマリアに、何が起こったのか問い正しても納得のいく答えは与えられません。そこでヨセフはどうしたか、19節は「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書いています。ここで「正しい人」というのは、原語では「律法を忠実に守る人」という意味になります。ヨセフはユダヤ人が神から頂いた律法を重んじる人でした。しかし律法に忠実に従おうとすると、今度はマリアの身に重大な問題が起こってしまうので、ヨセフは悩みに悩むことになったのです。

ヨセフはマリアの潔白を信じることが出来ません。この場合、ヨセフがとるべき態度は3つしかないのです。

まず最初の解決法としては、マリアとの関係をそのまま続けて妻として迎え入れることですが、ヨセフにとってこれはとても耐えられないことです。…マリアのお腹がだんだん大きくなって行くと、それを見た人たちがヨセフとマリアは婚約期間中の戒めを破ったとみなすでしょう、それもつらいものがあります。

それでは、マリアを告発すべきでしょうか。申命記2223節はこのように規定しています。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女に出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない」。マリアを告発して、律法の規定が厳格に執行されると、マリアは石打ちの刑に処せられてしまいます。

三番目の解決法がマリアとの縁を切って、婚約を解消することです。その場合、マリアは未婚の母となり、時が来れば父親のいない子どもを産むことになります。この時代、これはマリアを社会的に葬り去ることを意味しています。生まれた子どもも、自分に罪はないのに悲惨な人生を歩むことになってしまうでしょう。

ヨセフにとって、律法に忠実に従うならマリアを告発すべきです、しかしそれをすることでマリアが石打ちの刑に処せられるのは耐えられません。何ごともなかったかのようにマリアを迎え入れることも出来ず、そこでマリアとひそかに縁を切ろうとしたのですが、それでも解決とはなりません。そのためヨセフは苦悩の底にあったのですが、これは律法に従って正しさを追求しながら、その一方で愛の心を失うまいとするところから来る悩みです。……その解決は、人間からではなく、上から、天からもたらされました。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。主の天使がヨセフの夢に現れて、マリアが罪を犯していないことが明らかにされました、聖霊が彼女に働いて子供を宿した、つまりこれが神のみわざであることを告知してくれたのです。

天使がそこで語ったことをヨセフがすべて理解出来たとは思えないのですが、しかし、これが神のみわざであるということは、ヨセフの悩み苦しみを吹き飛ばすに十分であまりあるものでした。人間の苦悩がきわまった時、人間の側からいくら解決法を求めたとしてもそこにたどりつくことは出来ないでしょう。まことの解決はただ神様から来るのです。苦悩のきわまるところで神の言葉を受けたヨセフは、これをおそれをもって受けとめることで、神のみこころに従ってマリアを迎え入れるという、最善の決断が出来たのです。

天使はヨセフに「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と命じました。イエスというのはギリシャ語ではイエスス、ユダヤ人が当時使っていたアラム語ではイエーシュア、これをヘブライ語に直すとヨシュアになり、何語であっても「神は救いである」という意味になります。当時よくある名前だったようで、聖書にも救い主ではないイエスという人が出て来るのですが、その名にこの方のお働きのすべてが込められています。「神は救いである」、では神はだれを何から救って下さるのか、その答えが「この子は自分の民を罪から救うからである」ということです。自分の民とはこの方を信じ、より頼む人々すべてです。言葉や肌の色が違うどんな人でも、神様の前で罪人であることには変わりませんが、イエス様の民とされることで、罪から救われるのです。

  マタイはさらに旧約聖書を引用して、「その名は、インマヌエルと呼ばれる」と書いています。インマヌエルをイエス様の別名かなと思っている人がいるかもしれませんが、そうではありません。インマヌエルとはそこに書いてある通り「神は我々と共におられる」ということです。これがイエス様のご降誕によって実現したのです。従ってインマヌエルという言葉は、イエス様がおいでになることで、神様が我々人間と共におられるようになったことを語っているのです。

 マタイ福音書は、いちばん最後、2820節を、復活されたイエス様の言葉でもって結んでいます。…「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」…つまり「神は我々と共におられる」で始まったことが、イエス様の十字架の死によって終わったのではなく、今も、将来も、…永遠に続いているのです。

イエス・キリストのすべてが、神が私たちと共におられることのしるしです。神様はイエス様を地上に派遣なさることによって、私たちの人生を神様と共にあるものとして下さいました。ですからヨセフとマリアばかりでなく私たちも、イエス様がこの世においでになられたことによって、自分がたとえどんなところを歩いていたとしても天涯孤独ではなく、一緒におられる方がいるのだということを知るのです。

 

ヨセフとマリアはその後、住民登録をするためにナザレを出てユダヤのベツレヘムに向かい、そこでイエス様がお生まれになりました。生後40日が経った時、家族3人はエルサレム神殿に行きます。そこでメシアに会うことを熱望していたシメオンとアンナに会います。しかし主の天使が再びヨセフの夢に現れ、エジプトに逃げなさい、ヘロデ王がこの子を探し出して殺そうとしていると告げたので「その夜のうちに」、ヨセフは大慌てでマリアと幼子イエス様を連れてエジプトに逃げました。マルティン・ルターは、東の国の学者から献げられた黄金が、3人の旅費やエジプトでの生活費になったのだろうと書いています。

ヘロデ王は紀元4年に死にました。すると、主の天使がまたヨセフの夢に現れて告げました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは死んでしまった」と。この時ヨセフはイスラエルの地に帰ることを恐れたのですが、天使はさらにヨセフの夢に現れました。彼はその言葉に従ってガリラヤのナザレに帰ることになります。

そうしますと主の天使は合計4回、ヨセフの夢に現れ、彼はそのお告げにすべて従ったことになります。ヨセフは自分の知恵と力ではどうにもならない難局に追いやられたのですが、しかしいずれの場合も、天使を通して与えられた神の言葉に従うことで、マリアと幼子イエス様を守ったことになるのです。

イエス様はヨセフの血を分けた息子ではありませんが、ヨセフはイエス様の育ての親としての務めを立派に果たしました。…ナザレに帰ってからヨセフとマリアの間には、少なくとも合計6人の息子と娘が生まれます。ヨセフは大工の仕事で一家の生計を支え、イエス様は長男として両親に仕えると共に、弟や妹の面倒を見ていかれたのだと思います。

イエス様が12歳になった時、ヨセフとマリアは親類や知人と共に、イエス様を連れてエルサレムに上り、神殿で礼拝しましたが、その帰り道でイエス様が一時行方不明になるという事件が起こります。聖書でヨセフについて書かれているのはそれが最後で、イエス様が30歳で伝道を始められた時、マリアは健在でしたがヨセフの名前は見当たらず、すでに天に召されていたのでしょう。皆さん、ナザレの村でヨセフの葬式が行われた時の一家の悲しみや、若き日のイエス様が涙を流されるところなど、ちょっと想像してみて下さい。

ヨセフの一生は決して華々しいものではなく、マリアに比べて影が薄いことは確かですが、しかしヨセフの働きがあってこそ幼子イエス様の命が守られ、ひいてはイエス様が世に出て世界に向かい、力強く罪からの救いを宣べ伝えることが出来たのです。…ヨセフはその人生でたいへんな決断をすべき時にあたって、すべて神のみこころに忠実に従いました。…私たちに主の天使が、夢でお告げを語ることはちょっと考えにくいのですが、しかし私たちは聖書を通して、神様が自分に何を求めているかを知ることが出来るのですから、常に聖書を読み、祈り、礼拝を欠かさず、神様が私たちそれぞれに求めておられるみこころに従っていきたいと思います。

 

(祈り)

 天の父なる神様。2023年、今年もあと残り少なくなり、私たちは一年の喜びと悲しみをたずさえて、この場に臨んでいます。この年、いろいろなことがありましたが、どうか神様のみ子が世に与えられたことをもって感謝のうちにこの12月を過ごすことが出来ますように。

 神様。あなたが大切な御子を送って下さった世界は、罪と汚れに悩み、悲惨な現実の中で救いを求めてあえぐ暗闇の世界でありました。その中でヨセフとマリアは苦しみ、悩みながらも幼子イエス様をけんめいに守り通しました。そのことによって暗闇の世界に明るい光が照りわたったことを思い、神様を賛美いたします。神様、どうかヨセフが主の天使から与えられた神様の言葉に忠実に従ったことをもって、私たちの信仰生活の模範とし、目標とさせて下さいますように。

 神様、広島長束教会に関わる人々の中で、高齢のため、また病気のために、なかなか教会に行けないものの、クリスマスには礼拝に出席したいと願っている人が何人もいることを覚えます。どうか、その方たちを顧みて、願いをかなえて下さい。一人でも多くの人と共に、イエス様のご降誕をお祝いするためです。

 この祈りをとうとき主の御名を通してお捧げします。アーメン。