結婚の真実

結婚の真実   出エジプト2014、ヨハネ8:1~11 2023.11.19

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1368、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:55、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:403、説教、祈り、讃美歌:433、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 だいぶ昔のことになりますが、アメリカで12歳の牧師が誕生したというニュースがありました。いくらクリスチャンが多い国だといっても、中学生になったばかりの年頃で、さすがアメリカだなあと思ったものですが、ただこの少年牧師に出来ないことが一つありまして、……「結婚式の仕事ばかりは……」と遠慮していたということです

 世の中に男と女がいて、すれ違い、ぶつかりあい、愛し合い、そして幸せな結婚をすれば良いのですが、そこにいろいろな問題が生じて、時には自分の配偶者以外の人に心ときめいたりすることもあるわけです。男と女のこうした関係は、くりかえし歌に歌われ、小説になり、ドラマや映画になって、人類永遠のテーマといって良いでしょう。ただ初めから自分は結婚しないと決めている人がいますし、さらに最近では、同性結婚の是非が論じられたりと、複雑な問題があることも見えてきました。

いまここにいる皆さんの中には、結婚している人、これから結婚する人、独身を選ばれた人、配偶者と死別した人などいろいろおられます。私がわざわざアドバイスするようなことは何もないでしょう。だから私も、「こればかりは……」と遠慮したいくらいですが、自分の思いではなく聖書が何を語っているかをお話しすることで、少しでも皆さんのお役に立つことが出来ればと考えています。

 

 モーセを通して与えられた十戒の第7の戒めは「姦淫してはならない」です。姦淫は不倫と意味が近いですが、姦淫はやや固い言い方、さらに姦淫が対象範囲とするものは不倫より広いようです。…妻ある男性が他の女性と、夫ある女性が他の男性と通じてしまうことは姦淫にあたりますが、調べていくとそればかりではない、さまざまなケースがあるでしょう。いちいちあげることはいたしません。神は人間の結婚生活を尊ばれ、このための重大な傷害となる姦淫を戒めておられます。この戒めはもちろん、結婚するしないに関わらず尊重しなければなりません。これは結婚した人、これから結婚する人、結婚しない人を問わず、純潔ということを教えているのです。

 ある人が「教会で姦淫の戒めを語る必要はない。教会に来ている人に、わざわざこの戒めを語らなければならないような人はいない」と言ったそうです。その気持ちはわからないわけでもありませんが、聖書に出て来るコリントの教会でも、ある人が父親の妻を自分のものとしているというとんでもないことが起きていました(Ⅰコリ5:1)。現代の教会でもさまざまなことが起こっていて、そういうことはすぐに噂になったり、報道されるものです。その中ににせ情報が混じっているかもしれないことを想定したとしても、教会がこうした問題と無縁であるということはありえません。姦淫の戒めをもう語らなくて良い、そんな時代はまだまだ先のことでしょう。

 イスラム教の影響が強い社会では、姦淫してはならないという戒めは、日本の私たちから見ると厳しすぎるくらいに守られており、例えば名誉殺人と言って、不名誉な行為を行った娘を実の親が殺すということさえ起こっています。こういう社会に比べると日本は乱れていて、昔ながらの道徳をそのままふりまわすだけでは説得力なないばかりか、性にまつわる複雑きわまる問題を解決できるとは思えません。姦淫などない清らかな社会はどんどん遠ざかっているように見えます。しかし私たちには聖書という道しるべがあるのです。聖書は結婚について、また姦淫について何を語っているのでしょうか。

 

聖書にはじめて結婚のことが出てくるのは創世記の初め、アダムとエバのところですが、ここを取り上げて主イエスは述べています。マタイによる福音書の19章4節です。

 「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。……それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 主イエスは創世記を引用することによって、まず男女の結婚が神の導きの下、どれほど強い絆で結ばれているかということに注意を喚起しておられます。アダムが神からエバを与えられたとき、喜びの思いが「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という言葉になりました。アダムのこの喜びの姿の中に、なぜ若者が大切な親から離れてまで結婚するのかということを見出すことが出来ます。 夫と妻との結びつきは、「あなたの父母を敬え」という十戒の第5の戒めを忘れさせるほどの神聖な結合であるのです。子は親の分身であると言われる以上に、夫と妻は一体なのです。……だとしますと、夫が自分の勝手な都合で妻を出してしまうなら、それは自分自身を否定することにほかなりません。もちろん、妻が夫を出してしまう場合もそうです。

 今ここでは同性結婚については取り上げません。男女の間で考えていきますが、主イエスがおっしゃっているように、夫婦の結合はそれほど神聖なものでありますから、ふたりの者が一体となるとき、一夫一婦制以外のかたちは考えらません。一人の男が一人の女を、一人の女が一人の男を愛することが求められているのでありまして、ここから外れると姦淫となります。…ただ、ご存じのように聖書の中には一夫多妻が出てきます。子供のなかったアブラハムは正妻の他にハガルを側女としました。ヤコブの妻レアとラケルはどちらがたくさん子どもを産むかで競争しました。ダビデは8人の妻を娶りました。しかし聖書を読んですぐにわかることは、そうした結婚がみな災いを生み出しているということです。アブラハムもヤコブもみな家庭内のいさかいで悩まされました。ダビデに至っては、母親の違う息子同士の間で殺人事件が起きており、そうしたことはすべて多妻結婚が神のみこころと違うことを証明する結果になりました。聖書は創世記の人間創造に基づいて、あくまでも一夫一婦制を教えているのです。

 そして「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」ということは、教会での結婚式において、みんなで心から「アーメン」と唱えてきた宣言ではありませんか。もしも、神が二人を結び合わせて下さったにも関わらず、離婚のことばかり考えるとしたら、それは心の中に神を受け入れていないことになるのです。

 結婚とは男女が情熱の燃えるままに行うことというより、二人が神の前に立って契約の関係に入ることです。ですからその結婚を破壊し、姦淫の罪を犯すことは神に対する罪となります。

また、神に対する罪は姦淫の罪であると言えます。旧約聖書では神とイスラエルの民との関係がしばしば結婚の関係にたとえられました。たとえば「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛」(エレミヤ2:2)というような聖句があります。ここでは神様が夫、イスラエルが妻なのです。神から離れ、他の神々とされるものに心を寄せてしまったイスラエルの民は神を裏切り、姦淫の罪を犯していると叱責されるのです。

 どうして神を裏切ることが姦淫の罪になるのかと思う方がおられるかもしれませんが、このことはイスラエルの民の歴史が示しています。イスラエルの民を惑わす誘惑が周辺の諸民族を通じて入ってきました。異なる神を信じる諸民族はきわめてルーズな性生活をおくっており、イスラエルの民はこれに心を引かれて、本当の神から離れようとしたのです。すなわち神に対する不誠実な関係はしばしばふしだらな生活を生み出します。それはまた、ふしだらな生活が、しばしばいいかげんな信仰と手を取りあって進んでいくことを示しています。

姦淫はまず神に対する罪ですから、このことを自覚することによって、配偶者など自分に一番近い隣人からまだ見たこともない遠くの人々まで、隣人と共に生きる生活を神様の祝福のうちに過ごして行くことが出来るのです。

 

 主イエスは十戒の中の姦淫の戒めをさらに深いところから教えられました。そのことをヨハネによる福音書8章の、いわゆる「姦通の女」の話から見てゆきましょう。

 主イエスの前に姦通の現場で捕らえられた女性が連れてこられました。見つかったとき一緒にいたはずの男は逃げてしまったようです。もしかして彼女は何かの悪だくみの犠牲者だったのかもしれませんが、現場を押えられた以上言い逃れは出来ません。彼女を引っ立ててきた人たちはイエス様に「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と言います。たしかにレビ記2010や申命記2222で「姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」と規定されています。「ところで、あなたはどうお考えになりますか」。

 当時のユダヤでは旧約聖書の律法に書いてあるからと言って、一字一句すべて厳密に守られていたわけではありません。たとえ姦淫の罪が明らかになっても、配偶者を死刑に追い込んでしまう告発などせず、離婚だけするということがかなり行われていたことと思います。イエス様誕生の際も、結婚前のマリアがお腹が大きくなったのを見たヨセフは、そのことを表ざたにするとマリアが死刑になることを恐れ、ひそかに縁を切ろうとしたのです。

姦淫の罰は死刑だという掟は、当時必ずしも厳密に守られていたわけではなく、律法学者たちやファリサイ派の人々がこれをわざわざ持ち出してきたのには別の目的がありました。すなわち、イエス様が「この女を死刑にしろ」と言われた場合、ローマ帝国の直轄地であったユダヤで、いくら聖書にあるからといって当局の許可なしでことを進めようとするなら、国家反逆罪で訴えることが出来るのです。逆にイエス様が「この女を死刑にすべきではない」と言われたら、「イエスは聖書を守らない」と言いたてることによってイエス様の評判を地に落とすことが出来ます。

 この人たちには、死刑になるかもしれない女性の境遇を思いやる気持ちなど毛頭ありません。彼女はイエス様を陥れるための道具でしかありません。その姿は現代人の中にもしばしば見出すことが出来るのではないでしょうか。他人のふしだらな生活を非難しつつ実はそういう話を聞くことが大好きな人、ひとの罪を声をはりあげて非難することによって自分を正当化しようとする人、どれもこの人たちの末裔であると言って良いのです。

 初め主イエスは何も言われず、ただ地面に何かを書いておられました。まわりはますますやかましくなってゆきます。人々はしつこく問い続けました。ついに主は身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これを聞いた人は、年長者から始まって一人また一人と立ち去っていったのですが、それはなぜでしょうか。…みんな、この女性と同じ姦淫の罪を犯したのでしょうか。そんなことはないと思います。中にはそういう人がいたかもしれませんが。おそらく大部分の人はその点に限っては潔白だったでしょう。ただ、もしも機会があったら同じことをしたかもしれない人、してみたいと思っていた人はいたでしょう。それなのに自分のことには目をつぶってこの女性を血祭りにあげようとしている、あまつさえこの出来事を、イエス様を窮地に陥れるために利用しようとしている、……そうした醜い心がイエス・キリストという鏡に映ってしまい、自分を恥じたのです。

ただそうだからと言ってこの女性に罪がないのではありません。イエス様は彼女の罪を水に流そうとしているのではありません。私たちはこの女性がイエス様のもとを立ち去らなかったことに注目すべきです。……まわりの人はみないなくなりました。彼女も逃げようと思えば逃げられたと思うのですが、最後までイエス様のもとにとどまったのです。

キリスト者とは何者でしょう。世間の人にくらべて高貴で道徳的な人間でしょうか。そういう人もいるでしょうが、それがキリスト者と世間の人々を分かつものではありません。……姦淫の罪を犯した女性も、それを糾弾する人たちも、共に神に背いていることでは大して違いがありません。私たちの中にも、大なり小なりその両方の面があるのですが、その罪がイエス・キリストという鏡に映し出されるのです「あなたたちの中で罪のない者は…」と言われて、その場を立ち去った人たちは、あとでイエス様の下に戻ってきたでしょうか。そうだったら良いのですが、そのあとのことはわかりません。…一方、姦通の罪でとらえられた女性は、すべての人々が立ち去った後も、イエス様のもとにとどまりました。大切なことは、たとえどんなことになってもイエス様のもとから離れないことです。

この女性は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という罪の赦しの言葉を聞くことになりました。皆さんは、主イエスがここでなさったことは正しいと思いますか。やはり、この女性を赦すべきではなかったという人もいるかもしれません。そう思うのもある意味、無理からぬことでありまして、イエス様が簡単に罪を赦してしまったら、それはまたすぐに繰り返される危険があるのです。

しかし主イエスはここで、簡単に罪を赦してしまわれたのではありません。イエス様は姦通の女が受けるべき罪を十字架においてかわりに負って下さったのです。…彼女を引っ立ててきた人の罪をも一緒に背負って、罰を受けて下さったのです。……私たちはどうでしょうか。主イエスのもとに来ること、その場にとどまることなしに、祝福された結婚生活も家庭生活もないことを覚え、いまこうして教会での礼拝にあずかっていることを感謝したいと思います。

 

(祈り)

 

 恵み深い父なる神様。私たちが男として、また女としてのこの世に生まれ、生かされていることを、神様からいただいた恵みとして感謝して受け入れることが出来ますように。また、自分に与えられた性に違和感を持つ人にも、神様がもっとも望ましい道を示して下さいますように。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」ということを、私たちの人生によって実証させて下さい。結婚した人も、これから結婚する人も、独身を選んだ人も、せまりくる罪とのたたかいの中で、何より必要な神様のみこころを見失うことがないようにして下さい。真実の愛を貫くことこそ私たちの人生の最も大切な課題となりますように。神様の御導きを願いつつ、主のみ名によってこの祈りをおささげします。アーメン。