神の愛による人間復活

神の愛による人間復活 ホセア118315、ガラテヤ415  2023.12.3

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13612、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:100、説教、祈り、讃美歌:114、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(讃美歌:207)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

今年も残すところ1か月ほどになりました。今日が待降節、アドヴェントの第一日です。待降節は1130日に近い日曜日から始まり、4回の日曜日をへて1225日のクリスマスに至る期間で、イエス様をお迎えするために心を清め、整える時とされています。

報道によると1129日、アメリカのニューヨークで、5万個のLEDライトと400キロのベツレヘムの星をつけた高さ24メートルのクリスマスツリーの点灯式が行われました。たくさんの市民が集まりましたが、その周辺ではイスラエルを非難し、パレスチナを支持するデモ隊が警察隊と衝突していたということです。一方がデモ隊はキリスト教伝統の破壊工作だと非難すれば、もう一方は「今はクリスマスを祝っている時ではないのです」と叫んでいるのです。

そこで考えたのですが、私たちがもしも、戦火の中で無惨に殺されて行く人々に目をつぶって、自分たちだけで優雅でぜいたくなクリスマスを楽しむのだとしたら、そんなクリスマスに何の意味があるのかということです。どうか、一番初めのクリスマスが豪華絢爛とはかけ離れた暗い時代の貧しい人たちの世界で起こったことを思い起こして下さい。いまクリスマスを祝うために、多額の費用をかけて派手な演出をする必要はありません。…そもそもイエス・キリストはイザヤ書で平和の君と呼ばれた方ですし、イエス様誕生の際には「天に栄光、地に平和」という歌が響いていたのです。だから先の世界大戦のさ中でも、つつましいクリスマスが祝われていたはずです。いまこの時期、質素でも心のこもったクリスマスであれば良いのです。…ガザをめぐって一時休戦が破れてしまいました。この地で停戦が実現することを切に願いますが、たとえ戦争が続き、さらに絶望的な状況に陥ってしまったとしても、それでもクリスマスがあることは天から頂いた恵み、ここから平和が発信されるのです。

ということで、今年はコロナ禍の3年間よりさらに変則的なクリスマスになってしまうかもしれませんが、それでもイエス様をお迎えする気持ちを新たにしたいと思うのです。

 

待降節第一主日礼拝の今日、与えられたのはホセア書の言葉です。ホセアのことはよく知らないという人が多いかもしれませんが、イスラエル民族が南北二つの国に分裂していた時代、紀元前8世紀に北のイスラエルで活動した預言者です。1章1節に「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代」と書いてあり、この時代にホセアが活動していたのですが、イザヤ書1章1節を見ると「これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである」と書いてあるのに気がつきます。つまりホセアは、たいへん大雑把ながらイザヤと同じころ活動したことになります。実際にはイスラエルの王ヤロブアムの治世は789年から750年だとわかっており、一方イザヤが召命を受けて預言者としての活動を開始するのは諸説ありますが740年頃とされているので、ホセアはイザヤより少し前に活動した預言者のようです。

当時、中東には北にアッシリアという超大国がありました。アッシリアは紀元前722年にイスラエルを滅ぼし、さらにユダをもおびやかすことになるのですが、ホセアが活動していた時代、周辺国からの脅威や国内問題があったためにイスラエルに攻め込みませんでした。そのためイスラエルは戦争の恐怖におののくことがなく、経済的にはたいそう繁栄したのですが、その反面、社会は腐敗し、混乱をきわめていました。4章1節以下に、イスラエルの人々についてこう書かれています。「主はこの国の住民を告発される。この国には誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」と。この時代のイスラエルの国にあった問題は、ただ支配層が腐敗しているにとどまりません。むしろ国全体、国民全体が神様から離れ、腐敗に腐敗を重ねていたのです。

このような時代に、ホセアは預言者として主なる神から召し出されたのですが、神が彼に命じたのは「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」というまるで信じられないようなことでありました。夫以外の男性と性的関係を持つ不道徳な女性と結婚し、その女性が生んだ誰が父親かわからない子どもを受け入れよということなのです。誰もが自分の身に置きかえてみたら、これがどれほど受け入れがたいことかということがわかります。神はなぜ、こんなとんでもない命令を下したのでしょうか。その理由が2節に書いてあります。「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」。

当時、イスラエルもそしてユダもそうですが、バアルの神などの偶像を礼拝することが人々の心をむしばんでいました。神の民がまことの神から離れ、異教の神々のもとにかけよっていくことは、神様から見たら淫行に等しいことです。そして実際、それらの信仰にはさまざまなみだらなことがつきまとっていたことがわかっています。神様にとって、ご自分が世界の諸民族の中からただ一つ選んで育ててきたイスラエル民族が間違った信仰によって堕落していくことは、まさに淫行の女との結婚生活を送るようなものだったのです。

淫行の女をめとれという命令を聞いて、ホセアの中に葛藤がなかったとはとうてい言えないのですが、彼は結局この命令に従い、行ってゴメルという女性と結婚します。そしてゴメルは3人の子どもを生むのですが。それが本当にホセアとゴメルの子であったかはわかりません。

  神はその子どもたちに名前をつけます。最初の男の子はイズレエル、かつてイスラエルの王であったイエフという人は、この町で先の王朝につながる人々をことごとく殺してしまいました(列王記下9~10章)。イズレエルは虐殺が行われたことで有名になった町です。神はその名をホセアの家で生まれた最初の男の子の名前に託して、お前たちを滅ぼしつくすと宣言したことになります。

 ホセアとゴメルの家で次に産声をあげたのが女の子でロ・ルハマ、その意味は「憐れまれぬ者」。これもイズレエルと同じく普通の名前ではありません。「憐れまれぬ者」、こんな名前をつける親も、その名前と共に成長する子どももつらいはずです。神はこの国の人々をもう憐れむことをしない、というメッセ―ジを送ったことになります。神の愛はもう限界に達していたのです。そして三番目に生まれた男の子は「ロ・アンミ」、その意味は「わが民でない者」。もうお前たちは私の民ではない、ということで、北のイスラエルの民は神様に見捨てられようとしています。

  ホセアとゴメルは3人の子どもたちをかかえて、どんな家庭生活を送ったのでしょうか。ホセアは神の命令に従って、ゴメルを愛したようですが、ちょっと想像がつきません。

この結婚生活は数年のうちに破綻しました。ゴメルはホセアのもとから姿を消してしまったのです。彼女は明らかにホセアを裏切りました。ホセアはうろたえ、途方に暮れ、そしてゴメルを憎んだに違いありません。ホセアは神様の命令に従って、人間として全く受け入れがたいことを受け入れたにもかかわらず、耐えがたい苦しみを経験し、苦悩しました。けれども神はそのホセアに追い打ちをかけるように、さらに命令を下すのです。「行け。夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 干しぶどうの菓子はバアル礼拝で用いられたものだということです。「夫に愛されながら姦淫する女」、ここにゴメルという名前はないのですが、伝統的解釈に従ってゴメルだと考えます。神はホセアに対し、彼を捨てて出て行った女を再び迎え入れよと命じ、彼はそれに従いました。ゴメルを探し出し、かなりの代価を払って買い取りました。その時ゴメルは別人の所有になっていました。おそらくはバアル神殿に仕える娼婦、もしくは誰かのお妾さんになっていたのだと思いますが、ホセアは引き取って、彼女にこう言うのです。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」。自分を裏切った妻に対して、ふつうこんなことが言えるものでしょうか。そこには、裏切られても裏切られてもゴメルを愛したホセアを通して、まことの神の愛が見えているのです。

 

 この世の中にラブストーリーはごまんとありますが、ホセアとゴメルのような話がほかにあるのでしょうか。私は聞いたことがありません。

 預言者ホセアは壮絶な結婚生活を体験することによって、神が人間を愛するとはどういうことなのか身をもって知り、それを証しすることになりました。

ホセアとゴメルの愛は、まさに神とイスラエルの民の縮図です。神が世界の諸民族の中からただ一つ選び出し、相互に契約を結んだイスラエルの民は、もはや神との契約を忘れ、偶像の神々とそれがもたらす怪しげな信仰に夢中になっています。まるでゴメルがそうであったように。裏切られた側である神がイスラエルの民を見捨ててしまっても、それは当然のことですし、一向にかまわないはずです。しかし、それにもかかわらず、神はイスラエルの民を見捨てようとはなさいません。怒りの言葉が喉元まで来ながら、それでもイスラエルの民を愛し抜こうとするのです。初めの時の愛を貫こうとされるのです。

 この神の愛を示すために、預言者ホセアは淫行の女ゴメルをめとり、彼女を愛し、裏切りにあっても買い戻すことを求められるのです。…11章8節を見ると神様の熱情がほとばしる言葉があります。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。神のイスラエルの民、ユダヤ人に対する愛は21世紀の今も変わらず、現在、彼らの一部がガザなどにおいて悪魔的所業をくりかえす中でも、本当にぎりぎりのところで継続しているものと考えられます。

 

 預言者ホセアが身をもって証しした神の愛を今日アドヴェントで語ったことには理由があります。それは神の愛が人間の想像を超えているということですし、また人間には考えることもできない神の愛がついにイエス・キリストをこの世界に到来させたからです。ゴメルと一緒になって神への裏切りを繰り返す人間たちをそれでも見捨てず、その罪を赦し、あがなうために、神が人となってこの世に来られた、それが救い主イエス・キリストの誕生であり、ホセア書はこれを指し示しているのです。3章5節をご覧下さい。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」。ホセアは、自分の身を裂かれるような苦しみの中でイエス・キリストを証ししたのです。

 新約聖書もそのことを語っています。ガラテヤ書の4章4節以下、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。ここで難しい部分はわからなくてもかまいません。神は、その御子をお遣わしになりました。ご自分を裏切った者たちを愛し、みもとに連れ戻そうとする神様がその愛の総仕上げとしてなさったことが御子の誕生であったことを覚え、神様への畏れと感謝、賛美のうちにクリスマスを迎えていきたいと思うのです。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる御神様。今日、ホセア書を読んで神様への畏れを覚えました。まことの神様に背いて別の神々のもとに走っていく人々が、自分と関係ないとは言い切ることが出来ないからです。人間は人間の力だけで救われることはありません。神様が人間となられ、人間の罪の身代わりとして十字架にかかって、罪を滅ぼすことなしには人間にとっての救いはありません。このことを何よりご存じな神様が、愛する御子の地上への派遣という大きな痛みを伴う決断をなして下さったことを思い、神様への畏れの中で今、賛美と感謝を捧げます。どうか今日から始まる待降節の期間、私たちの心を悪魔の誘惑から清め、イエス様を迎えるにふさわしいものとして下さい。

 

 この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。