信仰の法則によって

信仰の法則によって  申命記619、ロマ32731 2023.11.26

 

 ローマの信徒への手紙3章27節は、「では、人の誇りはどこにあるのか」という言葉から始まります。いきなりこれではわからないので、前の方から振り返ってみましょう。

 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」、これは1章17節の言葉ですが、ここからいろんな議論があって3章21節にいたり、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました」となります。神の義というのは、「神の正しさ」でも良いのですが、少し軽い感じがします。「神様の本質的な正しさ」の方がまだ良いでしょう。この、神の義を説明するために、パウロはユダヤ人と異邦人を比較対照しながら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないと説くのです。

 世界の民族の中からただ一つ、神様に選ばれたユダヤ人は、神様から与えられた掟である律法を守る、いや守り抜くことによって義とされる、つまり神のみ前で正しい者とされる、救われると考えていました。しかしパウロはこれを否定します。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と、律法の掟をただ守り抜こうとするだけでは、これを守り切ることの出来ない自分の姿があらわに見えてくるだけで罪の自覚しか生じないと言うのです。それではどうすべきか。パウロは、これに代わってついに与えられた、新しい神の義を示します。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。その人が掟を守るためどれほど努力したのかは関係ありません。善い行いをどれほど積み重ねたとしても、それでもって救いが約束されているわけではありません。イエス様を信じるのです。…神を冒涜し、またローマ帝国に反逆した者として、十字架刑という呪われた刑罰を受けて死なれたイエス様を信じることは当時の人々にとって難しかったでしょうし、勇気も必要だったと思いますが、この方をキリスト、救い主として信じることによって神の義が与えられる、救われるのです。

 けれどもパウロは、その結論に満足できない人がいることを知っています。その人たちは、「では、人の誇りはどこにあるのか」と言うにちがいありません。特にユダヤ人がそうです。パウロに対し、「私は自分が選民であるユダヤ人だということを誇りに思って生きてきましたが、それはどうでも良いことなんですか」とか、「私は、小さな善い行いに努めることで神様が喜んで下さるだろうと思い、それを生きがいに生きてきたのに、パウロ先生は信者のこんな小さな喜びまで踏みにじろうとするのですか」、こういった声が届いたにちがいないのです。誇り、プライドというものを何より大切に生きているという人が本当に多いのですが、パウロはこれを取り除こうとします。まったく大胆なことを言ったものです。怒りの声が聞こえてきそうですが、パウロは、誇りが取り去られるということがどんな法則によって行われるべきかとして、行いの法則ではなく信仰の法則によってだと言うのです。

 ここで法則というのは聖書の翻訳者にとって苦心の訳だと思います。これを原理と訳す人もいます。…「行いの法則」とは「人が義とされるのは律法の行いによる」ということ、つまり律法を実行することによって神のみ前で正しい者とされるということです。そして「信仰の法則」とは「人が義とされるのは信仰による」ということ、つまりイエス・キリストを信じることで神のみ前に正しい者とされるということです。

 この世界にあるあらゆる宗教は、私は全部調べたわけではではないのですが、行いの法則によるものと信仰の法則によるものに分けることが出来るのではないでしょうか。ユダヤ教は明らかに行いの法則によっています。イスラム教もそうです。イスラム教は、善い行いをするなら、それがどんな動機で行われようがかまわないということで、イエス様のように内心にさかのぼって問題にすることはしません。

 仏教もだいたいが行い重視です。信仰から来る善い行いを積むことが功徳になっていきます。もっとも法然とか親鸞になると、善い行いにはげむことよりひたすら信じることに重きを置くようになるので、そこがキリスト教に似ているとよく言われますが。…キリスト教の教派の中にも信じることより善い行いを重視するところがあります。しかしこれは、善い行いをすることが意味がないと言っているのでは決してありません。善い行いをするかしないかが救われるかどうかの基準にはならないということです。

 皆さんは、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗をご存じでしょう。そのうちの一人はイエス様をののしったのですが、もう一人はそれをたしなめて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ233943)。つまりこの強盗は救われたのです。この人は生涯に何一つ善いことをしなかったのではないかと思いますが、それにもかかわらず十字架上でイエス様と出会い、イエス様を信じた、この人が救われるためにはそれで十分だったのです。…ここには、パウロがガラテヤ書2章16節でも言っている「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということの究極的な例があります。

 人が誇りとすべきことは、なかなか認めにくいことですが自分自身の中にはありません。自分がどれほどの能力を持っていてどれほど立派な仕事をしたか、善い行いをしたか、それによって人々にどれほど喜ばれたか、そんなことはどうでも良いことで、イエス・キリストをこそ誇りとすべきです。

 

 では、パウロがそのあと「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか」とつなげていくのはなぜでしょう。論理の急展開にとまどった人がいたかもしれませんが、それはこういうわけです。順を追ってお話ししましょう。

 私たちは、神はユダヤ人だけの神だとか、日本人だけの神だとかいうのではなく、すべての人にとっての神だと教えられていますが、これにその通り、アーメンと唱えるのは簡単ではありません。古代のユダヤ人がまさにそうだったはずです。旧約の時代、イスラエルの民、のちのユダヤ人は世界の中で数も少なく、小さな弱い民にしかすぎませんでした。イスラエルのまわりにはモアブ、アンモン、エドム、さらにペリシテ、エジプト、アッシリアなどさまざまな民族がいましたが、どの民族もそれぞれの神を上に戴いていました。イザヤ書に出てくるのですが、アッシリアの軍隊が押し寄せてきてエルサレムを包囲した時、アッシリアの大将は、自分たちが滅ぼした国々の名前を挙げて、彼らの神々は自分の民をわれわれから救い出すことが出来たか、お前たちの神、主も自分の民をわれわれから救い出すことは出来まいとあざけったのです(イザヤ361820)。つまり、この時代、イスラエルの民にしても、主なる神は自分たちだけの神、世界にたくさんある神々の一つぐらいにしか思っていなかったようで、この神様が世界でただ一つの神、他に並ぶべきもののない神だということは、預言者を通してさんざん教えられていたにもかかわらず、それがわかってくるまでには相当の年月が必要だったのです。

 ユダヤ人は歴史の中で幾多の試練を乗りこえながら、ついに、自分たちの主なる神が唯一の神であること、この神様が世界を治めていることをようやくにして認めることが出来るようになりました。また、ユダヤ人ではない異邦人の中にも、ユダヤ人が礼拝しているまことの神を信じようとする人が出てきました。では異邦人はどのようにしたらユダヤ人と一緒に礼拝して、同じ信仰を持つことが出来るのでしょうか。

 初代教会の時代、迫害によってキリスト教徒が各地に追いやられたり、またパウロなどが積極的に伝道したことで、異邦人の中で自分たちがもともと信じていた神々を棄て、ユダヤ人が信仰している神を礼拝すると共に、イエス様を救い主として信じる人が出てきました。では教会はどのようにして彼らを迎え入れるのかとなるのですが、その時、プライドの高いユダヤ人キリスト者の多くは、われわれの神は唯一無二なのだから異邦人もわれわれのやり方にしたがってもらおうと考えたのです。異邦人もわれわれと同じように割礼を受け、つまりユダヤ人になって、ユダヤ人が尊んでいる律法を守るならば救われる、神様から義とされる、正しいと認められる、このように考えたのです。…すなわち主なる神が唯一無比である以上、外国人もみんなユダヤ人の基準に従い、ユダヤ人が守ってきたルールに従ってもらおうということだったのです。…もしもこの考えが通っていたら、私たちもユダヤ教イエス・キリスト派の一員として、男性は割礼を受けなければなりませんし、男女とも律法を厳格に守る信仰生活を過ごしていたかもしれません。

 これに対し、パウロが出した結論はまったく逆でありました。神は唯一であるのはもちろんですが、ユダヤ人の信仰を世界基準とし、そこに外国人を押し込めるようなことはしません。同時に、異邦人が持ち込んできたもので全教会を統一するようなこともしません。神はユダヤ人の神であると共に異邦人の神でもあられますから、プライドの高いユダヤ人には多少譲歩してもらわなければなりませんが、異邦人も共に受け入れることが出来るのは、イエス様を信じる信仰によって義とされるということ以外にはないのです。

 神様は割礼のある者、ユダヤ人を割礼を受けたことによってとか、律法を守りぬいたかどうかということではなく、イエス様を信じる信仰によって義として下さる、同時に、割礼のない異邦人には割礼を受けることを強制せず、ありのままで良い、律法をすべて守りぬけということでなく、イエス様を信じる信仰によって義として下さるのだ、と教えているのです。

 

 パウロの手紙がローマの教会で読み上げられた時、彼が言っていることを教会の人たちはすぐにわかってくれたでしょうか。おそらく異邦人の信徒は歓迎したでしょうが、ユダヤ人の信徒は、パウロ先生がおっしゃることだからと尊重はするけど、内心ではぶつくさ言ってたかもしれません。…これまでの議論でユダヤ人としての誇りは打ち砕かれてしまいました。パウロ先生は割礼のある者もない者もいっしょくたにしている、われわれが大切にしていた律法についても「律法によっては罪の自覚しか生じない」と、あまりにひどい言い方ではないか、じゃあ律法なんて意味がないのかと思う人も出て来ます。…今日、説教の前に申命記も読みましたが、ユダヤ人はこうした神の言葉を心に留め、子どもの時から繰り返し教えられて育ったのですが、そうした努力もすべて無駄なのかという反論が起こったとしても不思議はありませんが、これに対してパウロは言います。「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない」。

 律法などなくて良かったということでは決してないのです。ならば神はなぜイスラエルの民に律法を与えたのかとなります。私たちにとっても、十戒を初めとする律法をなぜ学ぶ必要があるのか、受け入れなくてはならないのかという問題が起こります。

 これは難しい質問ですが、次のことが考えられます。親でも学校でも、子どもの成長段階に応じて指導の方法を変えていきますね。神様は初級段階の人間たちに対し、割礼をしなさい、律法を守りなさいというふうに教え、導いたのです。しかし、その人間たちが成長して新たな段階に入ると、それまでの教育方法をそのまま続けることは出来ません。次の段階とはまず、人に律法を守り抜くことができないことを認識させることです。罪の自覚を生じさせるのです、その時、自分を頼みとし、自分を誇りに思う気持ちなどどこかに行ってしまわなければなりません。自分に絶望することで、天から授かる救いを熱望するようになるように、と導いて行かれたのです。そのことが律法の確立することになるのです。

 ユダヤ人であれ異邦人であれ、ヨーロッパ人であれ日本人であれ、自分の力により頼むのではなく、ちっぽけなプライドなど取り去り、この自分のために十字架にかかりたもうた神のみ子、イエス・キリストを信じることに向かうべきです。この「信仰の法則」こそ私たちみなをつき動かすものとならなければなりません。

 

(祈り)

 神様、私たちは教会の外ではさまざまな誇りやプライドを大切にして生きていますが、いやしくも神様の前に立つ時、自分がまことに小さく、愚かな者であることを感じます。行いの法則とは、人間の持つ誇りやプライドに乗っかって働くもので、これにとりつかれると信仰の本質を見失ってしまいます。神様、イエス様の十字架を知らされている私たちは、すべての人間的な誇りを投げ捨て、イエス様こそを誇りとし、ただ神様の栄光のために生涯をささげる者として下さい。

 神様、今日ユダヤ人パウロの言葉を通して、ついに示された神の義について私たちが知りえたことを感謝します。ただ心配でならないことは、神様にこれだけ愛され、長い歴史を通して導かれてきたユダヤ人がいま大変なことになっているということです。イスラエルの軍事行動に賛成し、そこに向かっていく大勢のユダヤ人がいます。一方、これに反対するユダヤ人もいます。神様がユダヤ人を選ばれたことは変わりません。だから神様がユダヤ人とユダヤ人がつくったイスラエルという国を暴走と破滅から救い、彼らが本当の意味で世界に平和をもたらすことが出来るよう、世界とユダヤ人に向けて確かな道筋を示して下さい。

 

 この祈りを、とうとき主の御名によってみ前にお捧げします。アーメン。