虐げられた人々

虐げられた人々   イザヤ35:5~10、マタイ93234  2023.11.5

 

(順序)

招詞:詩編136:6、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:312、日本キリスト教会信仰の告白、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

 マタイ福音書は「山上の説教」が終わったあとの8章1節からこの9章38節までずっと、イエス・キリストが奇跡を行った話を続けて書いており、今日のところがひとまずのしめくくりとなります。主イエスが重い皮膚病の人をいやしたり、嵐を静めたり、死んだ娘を生き返らせたりといった話のあとに、悪霊に取りつかれて口の利けない人を見てまた同じ話か、…と思われた人がいたかもしれませんが、どうかこれを行ったイエス様がどういうお方かということに注意して聞いて下さい。

 

 前回は主イエスが二人の盲人の目をいやしたところを読みました。舞台となったのはガリラヤ湖のほとり、カファルナウムにあったペトロの家でした。目が見えるようになった二人が家から出て行ったあと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れて来られました。

 先に出て行った二人の元盲人の人の場合、主イエスに向かって「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続け、イエス様から「わたしにできると信じるのか」と問われて「はい、主よ」と答えています。つまり、イエス様と言葉によるやり取りが出来たのですが、今度の人の場合、口が利けませんからイエス様とどういうやり取りがあったのかはっきりしません。…この人はもともと信仰があったのか、イエス様に直して下さいと懇願したのかどうかわからないのですが、おそらくイエス様は、この人を連れてきた人の話を聞き、また、もの言わぬ当人と何かのコミュニケーションを交わし、深く憐れんで口が利けるようにして下さったのでしょう。そのあとのことについても聖書は「口の利けない人がものを言い始めたので」とだけ書いてあり、この人の発言が全く書かれていません。この人がイエス様にお礼を言ったのか、神様を賛美する言葉を口にしたのかといったことは想像するほかありません。

 マタイ福音書の作者はここで、口が利けるようになった人よりも、その場にいた群衆とファリサイ派の人々の反応の方に関心を持っているようです。

 群衆は驚嘆して、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言いましたが、これはどういうことでしょうか。その日群衆は、主イエスが二人の盲人を目が見えるようにされたこととこの奇跡を、続けざまに見て驚いたことになります。

ただ、奇跡といっても昔はすごい話がありました。モーセが手を伸ばすと海が二つに割れたり、映画で有名な場面ですが、こういったスケールの大きな奇跡に比べると、これらの奇蹟は大したことがないように思える人がいるかもしれませんが、実はそうではありません。

 ためしに旧約聖書を全部調べてみても、盲人が見えるようになったり、口が利けない人が話せるようになったという話はひとつもありません。それまで全くなかったことなのです。しかし、このことはかねてから予言されていました。イザヤ書35章などで、新しい時代が始まるとき、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」などと書いてあります。それまでの時代に全く起こらなかった、みんなそのことを聞いたことはあっても見たことがなかったことが今ここで実現したのです。ですからこの話は、マタイ福音書の8章と9章にまとめられたいろいろな奇跡の最後を飾る、クライマックスにふさわしいものとなっているのです。

 「こんなことは、今までイスラエルに起こったためしがない」、群衆のこの驚きは、まもなくこれを成しとげたイエス様とはいったい何者かということに向かっていきます。ついに現れたメシアなのかと思った人もいたにちがいありません。…で、そのことがわかると、ファリサイ派がどうして激烈な反応をしたのかが見えてきます。彼らは「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出したのだ」と言います。…悪霊によって口が利けなくされた人が口が利けるようになった、ならばイエス様は悪霊を追い出す力を持っておられる方だと考えるのが当然です。群衆はそのように考え、驚きもし賞賛もしたのです。しかしファリサイ派の人々はそうは考えません。…私は悪魔や悪霊についてあまり調べていたのでよくわかりませんが、当時の人々は悪霊というのは決して一つだけではなく、いくつもあり、一番上に悪霊の頭がいると考えていたようです。そこでファリサイ派の人々は、イエス様が悪霊を追い出すことが出来たのは悪霊の頭の力によるものだとして非難したのです。イエス様が悪霊の頭と仲良くしていて、そういうコネがあったからこの場をうまくおさめたとでも言いたいのでしょう。

 イエス様とファリサイ派の人々の間ではすでにいくつかの衝突が起きていましたが、だんだんと修復できない亀裂になっていきます。ファリサイ派はイエス様が悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているということをこののちまた持ち出してくることになります。イエス様のなさった神のみわざをその目で見ながら、これを悪霊のしわざにしてしまうとは、いったい何ということかと思ってしまうのですが、私たちにしても、もしも心がまがっていたら、誰もがみとめる愛のわざを悪霊がしたことでもあるかのように決めつけてしまうことがあるかもしれません。例えば慈善団体とか慈善行為を行っている人に対して、売名行為だと決めつけるように。ファリサイ派の人々のイエス様への敵意はやがて殺意へと変わり、ついには十字架につけてしまうことになるのです。

 しかしながら、イエス様を十字架につけたのは、なにもファリサイ派の人々のようなユダヤの宗教指導者に限ったことではありません。イエス様の行った奇跡を見て驚き、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と賞賛した群衆も、最後の最後でイエス様を裏切ってしまうのです。

 たしかにこの時、群衆はイエス様と共にいましたし、それからしばらくの間も一緒でした。イエス様という歴史上ただ一人のたぐいまれな方をその目で見て、なさることに驚嘆し、教えを聞いて、感動に満たされた大勢の人たちがいました。イエス様が十字架にかけられる直前まで、喜んで話を聞いていたのですが、…最後の最後で変節してしまいます。そこには、イエス様が自分たちが思い描いていたスーパーヒーローではなかった、という思いがあったのです。

 私は、主イエスに病や体の障害をいやされた人たち、またザアカイのようにイエス様に出会って新しい人生の歩みを始めた人たちが、十字架の時に何をしていたのかと疑問に思います。主イエスのいちばん身近にいた弟子たちでさえ、イエス様を金で売り、まるいはイエス様の前から逃亡してしまったのですから、まして、その他の人たちがどうなったのか、そこにはイエス様の苦しみを知りながら何も出来なかった人がいたし、またイエス様を裏切ってしまった人もいたのです。

 

 主イエスはそうした人々の思いをすべてご存じの上で、ご自分のつとめを続けられます。35節、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 これは私のように教会で働いている者にとってはたいへん耳の痛い言葉です。伝道の原点とも言える言葉です。イエス様は町や村を残らず回って福音を語っていかれましたが、同時にありとあらゆる病気や患いをいやされました。このことは、現代の教会にとって、福音を語ることだけでなく実践することをも意味しています。もちろん私にしても他の牧師にしても、病気の人を奇跡的な力でいやすことの出来る賜物は与えられていませんから、イエス様と同じようなことは出来ないのですが、とはいえ口だけ、言葉だけで良いのかということはいつも心にかけていなければなりません。ある人が書いていました、「われわれの責任はイエス・キリストについて語ることではなく、イエス・キリストを示すことである」。これは教会に所属するすべての人に対しても言えることでしょう。自分の生き方そのものによってイエス・キリストを示すことが出来るなら、イエス・キリストについて語ることは現在よりもっと説得力を持つようになるはずです。

 さて主イエスが町や村を残らず回っている時に会った人々について、こう書かれています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

ここで群衆について書いてあることを裏付ける事実はあるのでしょうか。私は初め、食べ物がなく誰もが飢えていて、さらに病気が蔓延し、道の上に死体がごろごろしているような状況を想像していました。当時、ユダヤはローマ帝国の占領下にあって搾取されていましたから、みんなが幸せに、豊かに暮らしていたとは到底言えません。しかし、だからと言ってみんながみんな劣悪きわまる状況にあえいでいたという証拠もないのです。歴史研究の上でもそのようなことは言えません。とすると、ここに書いてあることは、群衆の経済的な状況とか健康面のことを言っているのではなく、精神状況を語ったことになります。その可能性の方が高いのです。人々が道にごろごろ倒れているということではなく、収入はそこそこ足りていたとしても、精神的には八方ふさがりでどこをさまよっているかわからず、不平不満が鬱積しているような状況、それがイエス様から見れば、まさに飼い主のいない羊の群れ、それゆえ混乱に陥り、倒れていると言われます。そこにいるのはまさに救いを必要とする人たちなのです。

主イエスはこの群衆を見て、心を激しく揺さぶられました。36節の「深く憐れまれた」という言葉、原文は「はらわた」とか「内蔵」から来ています。はらわたが傷むほどに憐れまれたのです。これほど感情移入することは私たちには考えられないことでしょう。

「飼い主のいない羊のように」と書いてありますが、実際には飼い主が、自ら羊飼いをもって任じる指導者がいました。祭司とか律法学者、ファリサイ派の人たちなど。けれども、その人たちは自分の羊を正しい方法で養うことが出来ません。一人ひとりの人間にとってもっとも大切な罪からの救いということに対して間違った処方箋を持ってくるので、群衆はそこに真の解決を見いだすことが出来ず、霊的に飢えていたと言えます。ユダヤでは数年前にバプテスマのヨハネが出現し、人々に覚醒をうながしました。ここに希望があったかと思われたのですが、この時ヨハネは獄中にあって動けず、そのため国じゅうに霊的な空白が広がっていたと思われます。主イエスはそのような時代に生きる人々、彼らはのちにイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになるのですが、その人々のことをはらわたが傷むほどに憐み、それゆえに彼らを何としても救いたいと念願されます。そこから「収穫は多いが、働き手は少ない」という言葉が出て来るのです。これはイエス様の、このような深刻な状況だからこそ一人でも多くの人を救いたいという燃えるような思いから出て来たものでありましょう。…私たちはイエス様のそうした思いにとらえられ、その中で信仰生活をおくっていることを感謝したいと思います。

 

むかしマザー・テレサが「世界には二つの砂漠がある」と言ったそうです。一つはサハラ砂漠などの実際の砂漠。もう一つが日本です。日本は霊的な意味で砂漠だと言うのです。本当にそうなのか、日本人としては反論したい気持ちにもなりますが、イエス様なら今の日本をどう判断されるでしょう、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てている」と思われるかどうか。いずれにしても、この国で教会の働きが強められ、羊にとってのまことの飼い主であるイエス・キリストの名が高々とかかげられなければなりません。現状はそれにはほど遠いのですが、それ以外にこの国と人々を救う道はないのです。

 

(祈り)

主なる神様。純粋な気持ちを失い、カラ元気で通しているか、無気力に陥ることの多い私たちを憐れんで下さい。主イエスがはらわたが傷むほどの思いの中で始められた伝道が、2000年という年月を経て、このように極東の日本の地にもひろがり、その恵みの中で私たちが信仰生活を送っていることを感謝させて下さい。

イエス様は福音を語るだけでなく、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。私たちの誰もイエス様と同じことは出来ませんけれど、神様を信じて教会に集う一人ひとりがイエス様を目標に心を合わせ、力を合わせて、キリストの体である教会を少しずつでも築いていくことが出来ますようにとお願いいたします。

神様、もう一つお願いがございます。イエス様がとうといお命をかけてつくられた世界中のキリスト教会が、いま中東の大混乱の中、一つにまとまって平和をになう働きをすることが出来ません。それどころか戦争への道を進んでいるのではないかと思われる教会もあるようです。もしもキリスト教会が戦争をあおいたてるようなことをした場合、キリストのお名前が地に落ちることになりかねません。どうか、平和の主と呼ばれたイエス様のみこころが今こそ発揮されるようにと切に願います。

 

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。