罪を償う供え物

罪を償う供え物  レビ161722、ロマ32326  202310.15

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1363、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:2、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:77、説教、祈り、讃美歌:257、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 皆さんの中で、ローマの信徒への手紙はなんと難しいのだろうと思っている方がいるに違いありません。私もそのひとりで、説教を作るのに苦労していますが、でも、だからと言って、この手紙を読み飛ばすわけにはいきません。

 イエス・キリストの教えをパウロがロマ書にこのような形でまとめたことの意義ははかりしれません。パウロの働きによって、こうして今日まで続くキリスト教会の骨格が作られたのです。

もっとも、当時の教会としても、誰もがパウロが教えていることを理解できたわけではありません。イエス・キリストの実の弟であるヤコブはエルサレム教会の指導者でした。この人は保守的な信仰を持っていて、パウロが異邦人に割礼を施すべきでないと言っても、これをなかなか認めることが出来なかった人でした、最終的には認めたのですが。このヤコブを中心とする教会はその後も残っていきます。パウロがユダヤからみて西側の地域に教会を作っていったのに対し、ヤコブがいた教会は東側にひろがっていきました。その教会ではパウロのような神学的で、難しいことはあまり教えなかったとされています。では、その結果はどうなったか。7世紀にムハンマドが出現し、イスラム教が盛んになった時代、大部分がこれに呑み込まれてしまったのです。イエス・キリストを信じていたはずの人たちが、ムハンマドも神が遣わされた預言者と信じ、その教えを新たな福音として受け取ってしまったのです。神学をしっかり身につけていないとどれほど危険かということで申し上げました。

 

 ということでロマ書に入ります。パウロはそれまで、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、すなわち選民であろうがそれ以外の民族であろうが、すべて罪人であると書いていました。「正しい者はいない。一人もいない」ということです。要するに、人間はみな罪人で、人間が自分の力でどんなに努力したとしても限界があり、それによって救いに達するのは不可能なのです。

打てばこわれるような偶像を拝んでいた人ばかりでなく、まことの神を拝んでいた人であっても、みなひとしく罪人で、そこからの出口を見つけることは出来ないと。ここにおいて八方ふさがりになってしまったのですが、ついにその状況を劇的に転換させる出来事が起こりました。まさに「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ91)ということです。神の義が示されたのです。イエス・キリストによって。

 

この時代のユダヤ人の多くは、自分たちが神から律法を与えられたということを誇りに思い、律法を守り抜くことによって救われるという、まじめではありますが掟によってがんじがらめに縛られた信仰を続けていました。この人たちから見ると、イエス様の教えは律法を軽んじる教え、ユダヤ人の伝統からはずれた異端の説です。イエス様は十字架にかけられて死んだのですからなおさら許すことは出来ません。

しかしパウロはこの人たちに理論的根拠をもって反論しました。イエス様の教えは決して聖書からもユダヤ人の伝統からもはずれていないと。21節の「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」にその答えの鍵があります。…律法が与えられる前、すでに福音が与えられていたことが重要です。十戒を初めとする律法は、イスラエルの民の出エジプトの旅の途上、シナイ山で与えられました。しかるにその数百年も前、律法などない時代に生きた人物、アブラハムについて創世記15章6節は「アブラハムは主を信じた。主はそれを神の義と認められた」と書いています。アブラハムは懸命に律法を守ろうとした人ではありません。そもそも律法自体がないのですから。しかし彼が主なる神を信じたことを神は義と認めた、正しいとして下さった。アブラハムはイスラエル民族の祖であるばかりでなく、今なお信仰の父としてたいへんに尊敬されている人物ですから、信仰の父アブラハムの存在がユダヤ人の誇りであった律法の役割を相対化するものであったことは間違いないのです。

 アブラハムはさらに、将来現れるはずのイエス・キリストをも信じていました。

創世記2218節で神はアブラハムに告げておられます。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」。あなたの子孫とはイエス様です。神はアブラハムに、地上の諸国民はすべて、あなたの子孫、イエス・キリストによって祝福を得ると言われ、アブラハムはこれを信じていたのです。

 パウロが伝えた、イエス様を信じることによって救われるという教えは、当時、突然現れたとんでもない教えだと見なされていたはずですが、パウロはそうではない、これは聖書から少しもはずれるものでない教えだと言っているのです。

 

 23節、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 義という言葉はこのあとにも出て来ます。25節の後半では「それは、今まで人が犯した罪を見逃し、神の義をお示しになるためです。」、26節は「今この時に義を示されたのは」。

 「義とされる」というのはもともと裁判用語で、裁判の被告に対し「だれそれは無罪である」と言って無罪宣告する時に用いられます。そして神の義というのもパウロが初めて言い出したことではありません。旧約の時代に示されてないということはなく、それどころかはっきり示されていました。神様の相手が何しろ罪深い人間たちですから、神の義は何より神の怒りとなって現れました。旧約聖書を読んでわかる通り、人間たちは神様を怒らすことばかりしており、たびたび神の怒りが発せられました。それはおそるべきものでありました。

 この歴史的事実がありながら、パウロは「今この時に義を示されたのは」と書いています。今この時とはイエス・キリストがおいでになった以降の新しい時代ですね。それでは、神様は昔と同じように人間たちに怒りを発せられることで、神の義を示されるのでしょうか。そうではありません。人間たちは神の怒りを直接ぶつけられることから免除されました。…24節は「神の恵みにより無償で義とされるのです」と言います。「無償で」というのは、「価なしに」とか「贈り物として」といった意味があります。神様からのプレゼントとして、人が義とされたのですが、世の裁判でこんなことはないので、たいへん不思議な話になっていきます。…裁判官である神様が被告に、それも有罪であることが明らかな被告に対して無罪を宣告する、この世の裁判でこんなことをすれば、裁判官は罷免に値します。しかし、神様は有罪であることが確実の被告の人間に対し、無罪を宣告してしまったのです。

 さて、そうなると、神の義ということが傷ついてしまわないでしょうか。神様が被告である人間を無罪にした、これを愛なる神がなさったことだと言うことが出来ても、神様には正義の神というもう一つの顔がありますから、無罪の宣告は被告の人間にとっては願ってもないことですが、では神様の正義はいったいどこに行ったのかとなってしまうでしょう。それなのにパウロは、ここで神の義が現れたと言うのです。

 24節、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して」。神様の愛と正義が同時にまっとうされるためには、キリストによる贖いの業がなければなりません。「贖い」という言葉、教会の外ではほとんど耳にしませんが、これはもともと奴隷を身代金を払って自由の身にしてあげるところから来ています。…イスラエル民族はかつてエジプトで奴隷の民でしたが、その身分から解放されました。バビロンに捕囚として連れていかれた大勢の人たちも解放されました。これは民族単位でのあがないですが、パウロがこの手紙を書いていた時代には、奴隷を買い取って自由の身にするということがありました。昔の日本でも、遊女と愛し合った男性が彼女を身請け、お金を払って自由の身にして結婚するということがありました。これらみんなを「贖う」という言葉でまとめることが出来ます。

 そこで次に、罪人である人間をあがない、無罪放免とするために何が必要かということになるでしょう。このことを25節は「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と書くのです。つまりキリストによる贖いの業というのは、キリストが血を流し、ご自分のいのちを身代金として払って下さることで、罪人である私たち人間を自由の中に解放して下さったということにほかなりません。

 詩編49篇の8節以下にこう書いてあります。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」罪に対する報酬は死です。けれども、少しとんで16節、「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

 人が、自分の力でいのちの代金を支払って、自分を死と滅びから救い出すことは出来ません。贖うことは出来ません。けれども神様が受け入れて下さる時はじめて、この定めから救い出されることが出来ます。神様が身代金にあたるものを出して贖って下さることで、人は救われるのです。

 レビ記16章は贖いの儀式についてくわしく説明しています。とても長くてごく一部しか読まなかったのですが、いつかしっかり学びたいところです。そこでは贖罪の献げ物、つまり罪をあがなうための献げ物として雄牛と雄山羊がほふられます。祭司は雄牛と雄山羊の血を祭壇に振りまいたりしたのち、生かしておいた雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、荒れ野に追いやると。これがスケープゴートという言葉の起源でありましょう。

 贖いの儀式はこのあと神殿での儀式となり、そうして最後にイエス・キリストの十字架の死となって完結したのです。主イエスの十字架はただ一度きりのことでありまして、二度と繰り返されることはありません。

 

25節、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

ここに、神様がイエス・キリストを十字架につけた目的が示されています。

それは「神の義をお示しになるため」ですが、これをもう少し細かく言うならば二つあって、一つが「御自身が正しい方であることを明らかにし」、もう一つが「イエスを信じる者を義となさるため」ということになります。

神様は正義の神であると同時に愛の神であり、この二つが矛盾しないためには、イエス様をこの世に送り込むことがなければいけませんでした。…単純に考えると、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、どんな人でも罪人なのだから神様は人間たちすべてに怒りをぶつけるべきということになります。それは人間にとってたいへんなことでありますが。しかし神様は罪人を赦し、みもとに迎え入れて下さいす。これは正義をないがしろにすることでしょうか。

どんな罪をも嫌う神様が罪人を赦すなんて、ふつうありえません。このままでは正義は損なわれてしまいます。では神様は正義を貫徹するために、その愛を犠牲にされてしまうのでしょうか。これも出来ません。そこで正義と愛と両方とも実現し、神様が正義の神であると同時に愛の神でもあるためには、神のみ子イエス・キリストがすべての人の犯した罪に対する神の怒りを一身に受けて、死ぬしかなかったのです。

26節に書いてあるように、これまで神様は忍耐して来られました。これは特にイスラエル民族を除いた話で、神様は世界のあらゆる国、あらゆる民族が思い思いの道を行くままにしておられました。悪いことがあっても大目に見ておられたのですが、いつまでもこれを続けることはなさいません。神様はイエス・キリストの十字架を世界に見せることで、お前たちの罪は神の独り子を殺して贖わなければならないほど大きなものなのだと示されたのです。

私たちにこのことがわかったなら、次になすべきことは明らかです。ペンテコステの日、使徒ペトロが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と説教すると、人々はこれを聞いて心打たれ「わたしたちは、どうしたらよいのですか」と言いました。これに対しペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい」と答えています。

ここにおられる、まだ信者になっていない方は、ここで示された道を進んで下さい。すでに信者になっている方も、むかし洗礼を受けたけれども信仰の終着点に着いたわけではないのですから、信仰の初心を思い起こして下さい。そして今信じていることをさらに深めるために、ロマ書を読んで黙想しそれが自分の魂にとっての血となり肉となるよう努めて下さいますように。

神の義はこのようにして、世界にさらに広がって良くのです。私たち皆、パウロを通して示された福音を信じて受け取っていくところに本当の人生が開いていくのです。

 

(祈り)

 神様、私たちは自分では克服することの出来ない罪の力に支配され、自分で自分を見失っていますが、こんな私たちの前にも神の義が示されたことを心から感謝いたします。正義の神であり、同時に愛の神であられる神様は、まことに驚くべき出来事、イエス・キリストの十字架から来る福音を世界に現わして下さいました。今はまさにその恵みの時であります。

 神様、私たちがこの時、神様が人間の常識を超えたかたちで備えて下さった救いに入ることが出来るよう、神様の前での謙虚な心を与えて下さることで、ここにいる一人ひとりを導いて下さい。

 主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。が、病床で神様に祈りを捧げていることでしょう。どうかその人を顧み、心身の健康を与えて下さいますように。

 

主の御名によって、この祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン。