地球よりも重い命

地球よりも重い命 出エジプト2013、マタイ52126 2023.10.22

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1364、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:3、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:195、説教、祈り、讃美歌:542、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

  今日はモーセの十戒の中の第六の戒め、「殺してはならない」を取り上げます。これは殺人の禁止です。

いま、どんな国に行っても、またどんな民族を訪ねても殺人が自由自在に出来るところはありません。殺人は罪としてはもっとも重い刑罰をもって裁かれます。ここにいる私たちはみな殺人をしてはならないことを知っておりますし、この中に人を殺したこと人はおりません。だから、この戒めは改めて学ぶ必要はないかとも思ったのですが、よく考えてみると、今日この戒めほど土台が揺らいでいる戒めはないのではないかとも思えてきます。これは、もはや学ぶ必要のない戒めでは決してないのです。

 

皆さんご存じのように、毎日報道されるニュースには血なまぐさいものが多く、テレビを見るのが恐ろしいという人もいます。海外ではウクライナ、イスラエルなどでの戦争が報じられ、また銃社会のアメリカでは最近、子どもの死因のトップが殺人という調査結果さえ出ています。そうした国々に比べて日本は平和だとはいえ、殺人がなくなることはなく、通り魔事件とか障害者や子どもが犠牲になる事件が起きています。…私が懸念するのは、自分で人を殺すことはなくても、心の中で殺人を肯定する人が多くなっているのではないかということです。

死刑の是非については議論がわかれ、犯罪被害者の立場に立つと判断がきわめて難しいのですが、事件に直接関わりのない人が「あいつは死刑にしろ」と叫ぶことでうっぷんばらしをするとしたら、その人は心の中で殺人を犯していることになりはしないでしょうか。ヘイトスピーチも同様、数年前、東京で「良い朝鮮人も悪い朝鮮人もみな殺せ」と叫びながらデモをしたグループがいましたが、殺人を呼びかけながら行動に至らないということは考えにくく、実際に殺人の罪を犯してしまう人の背後に大勢の犯罪予備群がいるものと見て、間違いないでしょう。

 

それでは出エジプト記の「殺してはならない」を、まず言葉の意味から考えてまいりましょう。殺してはならない、これはあらゆることに適用される無条件的な戒めでしょうか。そうだとすると虫も殺してはいけないということになりますが。旧約聖書を読んで行きますと、ここで「殺してはならない」と言っておきながら、動物を殺して食べていますし、罪を犯した人がたびたび死刑になります。戦争で敵を殺すことはむしろ奨励されているくらいです。

実は旧約聖書の原文には「殺す」と訳すことが出来る言葉がいくつもあるのです。数えてみたら何と26もありました。何でこんなに使い分けてあるのかわからないのですが、その中で、ここで用いられている言葉は個人的な殺人行為に限られる言葉です。…つまり絶対に、何ものも、いかなる場合にも殺すなということではないのです。旧約聖書の時代、動物を殺すことはもとより、死刑や、戦争が認められており、それ以外の殺人について、ここで禁止されていたと見なすことが出来ます。

この戒めによって、勝手気ままな殺人は神が許されないことが明確になりました。これは当時としては画期的なことでした。…人の命を自由に与えたり取ったりすることが出来るのはただ神だけです。殺人は神の領分を侵すことになるのです。…しかしながら、ここで、戦争の場合などを戒めの対象外としたことは今日、再検討が必要です。これについては別の機会にふれてみたいと思います。

 

私たちは殺人事件なんてテレビや新聞で見聞きする以外、自分とは関係のない世界のことだと思っています。しかし本当にそうでしょうか。もちろん、そんなことが自分の身近にあっては大変ですが、罪というのはいつも身近にあって人の心に入ろうと機会を狙っていますから、どんな人でも何かのきっかけで人を殺してしまわないとは限りません。注意を怠ってはならないのです。

19世紀のロシアに有名な殺人事件の話があります(ドストエフスキー「罪と罰」より)。……金貸しの、それもたいへん評判の悪いお婆さんが殺されました。犯人は貧しい大学生でした。この青年がなぜお婆さんを殺したかと言いますと、自分には殺人という行為が許されていると考えたからです。

青年の考えたところを私なりにまとめると、殺人が禁止されているのはどこにでもいる、平凡な人間だけなのです。彼は言います。「ナポレオンを見ろ。ナポレオンはヨーロッパを征服し、数え切れない人間を殺しておきながら、英雄としてたたえられているではないか。ナポレオンのような特別に選ばれた人間は、弱い人間を犠牲にする権利を持っている。このような人間に殺人罪は適用されないのだ。……だとしたらこの自分も、今は貧しい学生にすぎないけれどやがて大きなことをなしとげる人間として、他の平凡な人間を犠牲にしても良いはずだ。業突く張りの婆さん一人殺すのは非難されるべき筋合いはなく、かえって社会から感謝されることなのだ。何をためらう必要がある」と。

こうして青年は周到な計画を立てて殺人を実行するのですが、その瞬間から苦しみ始めます。そしてついに、神のみ前に良心の呵責に耐えかねて、自分の罪を自首するまでになるのです。

――皆さんはこの青年の、殺人に至った考えのどこに間違いがあったと思いますか。彼は、普通の平凡な人間は法を守らなければならないけども、自分のような特別に選ばれた人間はこれに拘束されないと考えました。しかし、特別な人間であれ何であれ、その前に出たら頭を下げなければならない存在があるのです。

殺人の問題性は、人間の生命の尊厳を犯すところにあります。人間の生命は、神だけが造れるもので、いかなる人間もこれを造ることは出来ません。どんなに生命科学が進歩しても、人間が生命を造り出すことは出来ません。自分の生命は神から来ていますし、他のすべての人間もそうなのです。生命とは神聖なものです。その生命を、たとえどんな理由があっても、人間が好き勝手に扱うことは許されません。なぜ殺人が許されないか、第一に、殺人者は自分自身を人の生と死をつかさどる主人にしてしまうからです。神様の領域に入り込むからです。第二に、殺人者は隣人との関係を絶対に修復出来ないところまで破壊してしまうからです。

人間の生命を生み出し、取り上げることが出来るのは、ただ神のみです。「殺してはならない」、これは生命の主である神の命令であります。

 

さて生命の尊厳ということを考える時に、特に人間の生命の尊厳を考えなければなりません。もちろん生命にはいろいろのあらわれ方があります。動物、植物、菌類、微生物、すべてが命を持っています。すべての命がとうとばれるべきです。ただ人間が生きるために犠牲となる命があります。これに反対するインドの宗教の中にはすべての命を奪うなと教えているものがありますし、キリスト教でもアフリカで医療伝道を行った、あのシュヴァイツァー博士は、すべての生命に対する畏敬の念から、顔に蚊が止まっても殺さないでそっと放していたと伝えられています。しかしそこまで徹底することは、旧約聖書はもとより新約聖書のどこからも要求されてはいません。

「殺してはならない」という戒めが新しい積極的な意味をもって現れるのはイエス・キリストの登場からです。旧約聖書で示された真理が、主イエスによってさらに深められ乗り越えられてゆきます。しかし旧約聖書の言葉が投げ捨てられたのではありません。「殺すな」という戒めに新しい解釈が加えられ、それを人間が受け取って生きるようになったということです。

主イエスはマタイ福音書の5章21節以下で、この戒めについて語っています。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。

そして23節:「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。

主イエスは「殺してはならない」という戒めを、ただ殺人行為をしないだけでなく、そこに至る内面の動機にまで遡って問題にしているのです。人の心の中に憎しみや嫉妬や怒りがあります。その中に殺人の動機があるからです。

殺人は人間の心の深いところから出て来ます。神を心から敬うことがない人は、神が創造された他の人を敬うことが出来ません。「あんな人、いなければ良い」という思いが心に芽生え、それが口に出ると悪口になります。Ⅰコリント6章10節には、神の国を受け継ぐことの出来ない人のリストがあり、そこにみだらな者や泥棒などと並んで「人を悪く言う者」が載っています。人を悪く言うことには毒があります。それは十分に人を傷つけ、ついには実際の殺人行為にまで発展してゆくのです。

そこで主イエスは、兄弟と仲直りしなさいと言われます。兄弟とは同じ両親から生まれた男性に限りません。主イエスが来られる前、兄弟とは同じ民族に属している人に限られており、外国人はそこから除外されていました。けれども主イエスは神の前ですべての人が兄弟であることを示されました。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ335)とおっしゃっています。こうして兄弟の範囲は広がって行きましたが、さらに考えたいのは、主イエスがただご自分を信じる人々のためだけに十字架にかかって下さったのかということです。これは議論があるところで、イエス様はご自分を信じる人のためだけに十字架にかかったのであって、信じない人のために十字架にかかったのではないと考える人もいますが、私が聖書全体から受け取ったのは、そうではなくすべての人々のためであるということです。主イエスはすべての人のために命を捧げられた、ただ主のこれほどの恵みを受け入れない人がいるのは悲しい現実です。

いずれにしても、主イエスを信じる者は、もはや自分たちの共同体の中だけで殺人の禁止を言うことはなくなりました。信者でなければ、つまり異教徒であれば殺しても良いような考えが昔の教会になかったとは言えませんが、今日では厳しく批判されています。主イエスによって、肌の色が言葉などがいくら違っていても、兄弟として仲直りする道が開かれたのですから、主イエスの教えを信じつつ戦争や殺人を肯定したり、正当化することなど出来るはずはないのです。

 

今日の世界で、第6の戒めによって解決していかなければならない多くの問題が山積しています。戦争と殺人事件ばかりでなく、死刑、中絶、自殺などどれも複雑な問題で、とても限られた時間内に語り尽くすことは出来ません。ただ、すべて問題に対処するときには聖書から考えてゆきましょう。

「殺してはならない」の戒めは、私たちに決して関係のないことではありません。私たちは直接殺人の罪を犯していなくても、間接的に人を殺していることがないか自分を省みたいものです。

人の命がはなはだしく軽んじられているのが今の世界です。けれども私たちは、地球よりも重い命がひとりひとりに与えられていることを知っています。ほとんどの親にとって子供は何よりもとうとく、神はこの親心をもって人間を造られました。神にとっていらない命などありません。生きる値打ちのない命などひとつもありません。

神様から与えられた命を心からとうとび、隣人に与えられた命をもとうとんで、私たちは今持っている命以上の命を生きるのです。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたは「殺してはならない」と教えられました。神様の願い、神様のご命令がそこにあります。私たちは誰もこの命令を守ってきていると思っていました。しかしご命令にそむく人間の歴史がこれまで続いてきました。今も続いています。その中で、多くの命が失われている現状に慣れて無感覚になっていることをお許し下さい。もしも私たちが、直接手を下さなくても、人を死に追いやるようなことに荷担していましたら、どうかすぐにお知らせ下さい。人が人を殺す事件が起こるたび、神様がどれほど怒り、悲しまれていることでしょう。みこころにそむく世界をそれでも見捨てず、イエス様を通してお支え下さる神様に栄光がありますように。

 神様の光の下、私たちが自分と隣人のいのちを育み、花を咲かせる光栄あるお役目をお与え下さい。どうかひとりひとりの思いや言葉やふるまい、すべてがお互いがお互いを生かすものでありますように。そしてこの教会につながるすべての人、特に病気とたたかっている人に健康と、主にある喜びがありますようにと願います。

 

尊き主イエスのみ名を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。