信じたとおりになるように

信じたとおりになるように 列王記下61517、マタイ92731 2023.10.8                     

 

(順序)

招詞:詩編1362、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:312、信仰告白:使徒信条、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣

 

聖書の舞台となっているパレスチナでは、かつて失明する人がたいへん多かったそうです。生まれつき目が見えない人以外に後天的に目が見えなくなる人がいたのです。その原因は、いてつくような暑さや、舞い上がる砂ぼこりが目に入ってしまうこと、蚊が群れをなして病原菌を運んだとかいろいろ言われています。衛生の知識がないことが苦しみをさらに増幅させてしまいました。現代ではこれほどのことはないと思いますが。

目が見えないことがどんなに苦しいことか、いうまでもありません。皆さんは今日こうして自宅から教会まで来られましたが、かりに視力を失ってしまったと仮定して、目隠しをし、白い杖をつきながら、ここまで来ることが出来るかどうか想像してみて下さい。考えられないことでしょう。先日のテレビでは、視覚障害の方が踏み切りを渡れず、列車にぶつかってしまったという痛ましい事故がいくつもあることが報道されていました。こういう事件をなくすためには、何といっても目の見える人の支えが必要です。将来、目が見えない人のために目の役割を果たす機械が発明されたら、状況が劇的に改善するかもしれず、そうしたことも期待したいです。

 

主イエスの前に現れて、ついていった二人の盲人がそれまでたどってきた人生は、私たち目明きにとっては想像も出来ないほど苦しかったものに違いありません。この人は自分の力で生計を立てることが出来ません。今の時代なら、目が見えなくても、マッサージ業ばかりでなく学者、弁護士、ピアニストなどなど各分野で優秀な成績をおさめておられる方がいますが、それは気の遠くなるほど長い期間をかけて少しずつ勝ち取られたたたかいの成果と言えます。この時代は、目が見えなくては何も出来ないと誰もが思っていたのです。だからこの二人も、恥をさらして物乞いをしなくては生きていけなかったはずです。

しかしながら、だからこそ、彼らは神の偉大な力を世に現わすために選ばれたのです。

イザヤ書35章はかの地で神の栄光が回復されることを歌っています。イザヤ書35章1節、新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」、ここは文語訳の方が有名かもしれません。「荒野とうるほひなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびてさふらんの花のごとくに咲(さき)かがやかん。」…中村哲さんなど砂漠を緑の大地に戻そうと奮闘する人々を励まし、突き動かしただろう印象深い言葉ですが、これに続く喜びあふれる光景の中にこの言葉があるのです。5節、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」

それでは、次にマタイ福音書の11章を見てみましょう。3節、「ヨハネは牢のなかで、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」

主イエスがおいでになって以来、目の見えない人の目が開くことから始まる、幾多の驚くべき、素晴らしい出来事がたてつづけに起こっています。これこそイエス様が救い主であることの現れ、その場所に神の国のしるしがあるのです。神の国はイエス様と共に始まりました。……皆さんご存じのように、福音書には病気の人や障害を背負った人がイエス様によっていやされた話がたくさん書かれています。イエス様が悩み、苦しみ、病んでいる人たちと共におられ、この人たちを救って下さった、私たちはそのことを見ずに、イエス様を救い主だと言うことは出来ません。

この世の中に神の国が誕生したことを示す出来事の一つが、二人の盲人を巡って起こりました。

 

私たちは先週の礼拝説教で、主イエスが死んだヤイロの娘を生き返らせたところを学んでいます。イエス様はこの大仕事を終えヤイロの家から出ると、二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら、ついて来ました。必死になってついて来たはずです。

彼らはイエス様に「ダビデの子よ」と言って、呼びかけます。……これより1000年ほどの昔、預言者ナタンがダビデ王のもとに来て告げました。「主はあなたに告げる。…あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。…わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サムエル下71214)神様がダビデの子孫から、神の子であり、救い主である方を生まれさせる、その王座はとこしえに続くと約束なさったので、ユダヤ人は長い苦難の歴史の中で「ダビデの子」の到来を切に待ち望んでいたのです。

それまでイエス様についていろいろな噂が立っていましたが、イエス様に向かって直接「ダビデの子よ」と言った人はいませんでした。この二人が初めてですから、その意味で彼らは大したものだと言えます。…その後、ほかにもイエス様をダビデの子と呼ぶ人が出て来て、イエス様のエルサレム入城の際には、群衆が歓呼して「ダビデの子にホサナ」と叫んでいますから、彼ら二人はその先がけになっているのです。

 しかしながら、神様が「ダビデの子」について「彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」などと言われたことで、ユダヤ人はこれを偉大なダビデ王をしのぐ強大な権力をふるう大王のように思ってしまうことになりました。神様はそのような意味で約束されたのではなく、ユダヤ人に大王を与えるつもりはなかったので、人々が期待する王とのミスマッチが起こるのです。そのためイエス様は、確かにダビデの子ではあるのですが、自分からダビデの子だと唱えることはありません。誤解を避けなくてはならなかったためです。

 この時、主イエスは二人から「ダビデの子よ」と呼びかけられて、すぐに応えることはなさいません。追いすがる二人の盲人がいるのを知りながら沈黙を決めこんだまま歩いています。イエス様は冷たいように見えませんか。…しかしここでイエス様は、ご自分がダビデの子であると知れ渡ってしまい、人々から誤解を受けることを避けたのです。…家に入ってから、これは宿泊していたカファルナウムのペトロの家ですが、やっと二人に向き合ったのです。なお、二人の目が見えるようになったあと「このことは、だれにも知らせてはいけない」と厳しく命じられたのも、人々がご自分のことを誤解して大王にかつぎあげないようにするためだったからと考えられます。

 主イエスは家に入ってから、二人の盲人と向き合われました。イエス様は二人が願っていることを知っておられるはずですが、すぐに目に触れて見えるようにするのではなく、まず「わたしにできると信じるのか」と言われました。ここに「信じる」という言葉が出て来ます。イエス様は彼らの信仰を問われたのです。二人は「はい、主よ」と答えました。

 ここから私たちは、信じないところでは何も起こらないことを教えられます。…自分の病気は絶対に治らないと思い込んでいる患者を医者は治すことが出来ません。…自分はもうだめだだめだと言っているのに元気はつらつ、そんなことはきわめて稀です。このお医者さんは自分の病気を治してくれるという信頼があってこそはじめて病気が治っていくように、イエス様に対して信じない者に恵みはありません。イエス様に全幅の信頼を置くところで恵みが与えられることを今日、この場で覚えて頂きたいと思います。

 イエス様が二人の盲人がご自分を信じていることを確認し、二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになりました。

イエス様の驚くべき力がこの結果をもたらしたのですが、皆さんがこれをもって、信仰が強ければ願いがかなう、信仰が浅いと願いがかなわないなどと単純化して考えないことを望みます。そうでないと、あなたの願いがかなわないのは信仰が浅いからだ、などと間違った言い方をする人がいないとも限りませんから。

二人の盲人がイエス様の全能の力を信じていたことは確かです。しかし、イエス様から見たら、それも不確かであり、不十分なものでしかありません。彼らがイエス様をダビデの子だと見抜いたのは立派でしたが、そこまででしょう。目が見えるようになりたいということ以上のことは、ほとんど考えてなかったように思われます。私たちにとって大切なことはイエス様のお支えによって、彼らの信仰が信仰として認められるものになったということです。そのことは私たちにとっても同様で、どんな人でも、自分はこの信仰をつかみとったと言うことは出来ません。信仰とは結局、神様によって与えられるものでありまして、人間としては自分の不信仰を認めるほかないのです。自分はイエス様を信じていると思っているその信仰も、イエス様から与えられたものですから、私たちはイエス様から与えられるものに自分を委ねるだけなのです。

 

 皆さんはすでに気がつかれていると思いますが、イエス様が、目が見えない人の目を見えるようにされたことには、単なる奇跡以上のものがあります。イエス様が目が見えることと目が見えないことを通して教えられていることにこそ私たちは注意を向けなければなりません。

 福音書にはこういうことに関して、謎めいた言葉がたくさんあります。例えばマタイの1514節、「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」、これはたとえです。実際に目の見えている人に向かって、イエス様はあなたは目が見えないのだと、そんなあなたが道案内することが出来るのかといっておられるのです。このように考えていくと、実際に目が見えているか見えていないかは大したことではないのです。霊的な目が見えているのか、見えていないのかこそが重要です。もしも私たちが、テレビから提供される情報をすべてそのまま疑わずに信じ、この世の流行にそのまま乗っかり、信仰を持っていない多くの人とまったく同じように考え、同じように感じていたら、それがすべていけないというわけではありませんが、霊的な目は見えてないと言うしかなく、神様に、今度は、霊的な目を開いて下さいと祈る必要があるのです。

 最近、「新しい戦前」という本を読んでいて、白井聡さんという方が言っていることにハッとしました。今の日本で保育園や幼稚園の園児たちはみんなすごく伸び伸び元気にやっているけれども、小学3、4年生頃から縮こまるようになって、大学生になると本当に覇気がなくなって萎縮しているのだと。いろいろな理由があるのでしょうが、これが日本中で起こっているとしたら大変なことです。若い人たちが心理的に閉塞状況の中にあるのなら日本の将来が思いやられます。おそらく目の前に光が見いだせない、霊的な目が開かれてない状況なのでしょうが、私たちもそういうところに引っぱられてしまってはなりません。

 最後に、列王記下6章の話を取り上げたいと思います。これは預言者エリシャの物語の一部です。エリシャと召し使いのいた町がある時、敵の大軍によって包囲されてしまいました。召し使いはその軍勢を見てあわてふためき、「ああ、御主人、どうすればいいのですか」と言うのです。しかしエリシャが「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、彼の目が開き、火の馬と戦車、つまり神様の軍勢がエリシャを囲んで守っているのが見えたのです。このように神様が目を開いて下さると、肉体の目には普通見えないものまでが見えてくることを教えているのです。

 信仰のない人だったら、こんなことあるわけないと一笑に付すのではないかと思いますが、皆さんはどうでしょうか。私たちの上に霊的な目が与えられるよう、祈りましょう。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。今日、私たちは、二人の盲人がイエス様によって目が見えるようにされたことを聞いて、アーメンと唱えることの出来る幸いを感謝いたします。イエス様がこの二人の目を見えるようになさったことは、ただそれにとどまらず、神の国の現れです。この二人がこのあとどうなったか聖書には書いてありませんが、ただ目が見えるようになっただけで終わることはなかったと思います。二人に霊的な目が開かれたことを私たちに信じさせ、私たちにも同じ恵みを与えて下さい。

神様、私たちはそれぞれ自分は目が見えると思いこんでいますが、実は、本当に見るべきものを見ていないのかもしれません。どうか肉体の目に映っていることをすべてとは思わず、そこに神様の導きがあり、神様の導きこそが自分を支え、動かしているのだということを見ることが出来るようにして下さい。

 

とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。