神はわが力

神はわが力   イザヤ30117、マタイ62734  2023.10.29

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1365、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:284、説教、祈り、讃美歌:286、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 107日、ハマスによるイスラエル襲撃を契機にイスラエルとハマスの間で戦争が勃発し、その渦中にある人々がいまこの時も傷つき倒れ、死んでいることが世界に衝撃を与えています。現地の人々が目をおおうばかりの苦しみにあえぐ中、私たちはほとんど何も出来ないことにおろおろするばかりですが、まずはここで何が起こっているのかを知り、聖書に問いかけ、祈ることから始めていきたいと思います。

 キリスト教信徒にとって、この戦争が聖地で起こっていることは重大な意味を持っています。

今のイスラエルの中心となっているのは、世界中から帰還してきたユダヤ人ですが、一方、パレスチナ人とはユダヤ人が帰ってくる前からこの地域に住んでいた人々です。旧約聖書にペリシテという民族が出てきますが、これがパレスチナという地名の語源になっています。歴史をたどると、紀元70年、ローマ帝国のエルサレム征圧によって多数の人々が世界中に散らばって「さまよえるユダヤ人」になったのですが、その時、逃げていくことが出来ずその地にとどまったユダヤ人がおり、またサマリア人もいたわけで、そうした人たちがのちのパレスチナ人になったのですから、ユダヤ人もパレスチナ人も元はといえば血がつながっているのです。

 この地では1948年のイスラエルの建国以来、たびたび戦争が起こり、たいへんな緊張状態が続いて現在に至っているのですが、いまイスラエルを支持し、支えているのがアメリカやヨーロッパ各国、つまりキリスト教の影響が強い国々です。そのため日本では以前から、キリスト教は戦争ばかりしているという声がくすぶり続けていましたが、今回の事態を受けてそういう声がさらに増して行き、教会に打撃を与えるだろうと思います。

現在、日本のキリスト教会の多くはこの地での一刻も早い停戦を求め、声をあげています。…しかしながら、イスラエルを支持している教会もあるのです。たとえば中川健一牧師をリーダーとする教会は、クリスチャンはイスラエルを支持すべきだと言います。この人は、選民であるユダヤ人がイエス・キリストに立ち帰ることによって、キリストが再臨され、新しい世界が始まるという歴史的展望を描いており、これを実現させるためには今のイスラエルを守らなければならないと、…パレスチナ人の生命の安全も言ってはおりますが、いまユーチューブで「イスラエルが政治的縛りから自由になり、最善の軍事戦略を選択することができるよう」祈るように、とも呼びかけています。こういう教会が、日本にも世界にも一定数あるはずで、皆さんならどう評価されますか。…私はこれには反対の立場です。…いまイスラエル国内外のユダヤ人の中からも、ガザへの軍事侵攻に反対し、イスラエルは間違っているという意見が出ていることにわずかな希望を感じています。

現在、聖地で起こっている事態については情報が錯綜しており、さまざまな立場の中でどれが正しくてどれが間違っているのか判断するのは簡単ではありませんが、キリスト者なら一人ひとり自分の考えを持つべきです。聖書からユダヤ人の歴史を学んでいけば、そのことによって今のイスラエルについても公平な立場から判断することが出来るものと思います。今日のテキストであるイザヤ書30章は、現在の戦争に対する直接の答えを出しているわけではありませんが、何がしかのヒントは提供してくれるでしょう。

 

イザヤ書30章の1節から7節の間には、イザヤの二つの預言が記されています。1節から5節までの預言で、当時のユダのヒゼキヤ王が結んだエジプトとの同盟について糾弾し、6節7節の預言で、王がエジプトに送った使節について、それが意味がないことを皮肉を込めて表明しています。

ヒゼキヤという人は、王として紀元前729年から699年までユダの国を統治しました。この人について聖書は「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(歴代誌下292)と書いています。主なる神に替えて他の神々を拝んだようなことはなく、それどころか国中から偶像を取り除いた人なので評価は高いのですが、しかしイザヤ書30章には彼の治世の間に神を怒らせたことがあったことを書いています。だから、この人にも罪があったと見なければなりません。

ヒゼキヤの治世の間、紀元前722年にユダにとっての兄弟国家であるイスラエルが北の超大国アッシリアによって滅ぼされました。711年、ペリシテ人の国アシュドドがエジプトの力に頼り、また同志国をつのってアッシリアに対抗しようとしたのですが、アッシリアの前に敗北してしまいました。この時、ユダの国は反アッシリアの同盟と裏でつながっていたらしいのですが、あやうく難を逃れています。…ヒゼキヤ王は、ユダの国がアッシリアに滅ぼされないためにはどうしたら良いのかと必死に考え続けていて、そこから、他の国と同盟を結ぶことによって難を逃れることを模索していたと考えられます。

30章1節から7節までの預言の背景にあるのは次のことです。ユダの王ヒゼキヤは、705年にアッシリアの王サルゴン二世が死んだことを契機に、アッシリアに対して貢物を治めず、反逆を決行しました。ただそれは、小さなユダの国が独力でなしとげられることではないと考え、そこで西の大国エジプトと同盟を結ぶことで、アッシリアの脅威から免れようとしたのです。ヒゼキヤ王の政策遂行に重要な役割を果たしたのは、ユダの指導者たちの意見であったと思われます。したがって、エジプトとの同盟策は国を挙げての合意の下になされました。

小さなユダの国がアッシリアに対抗し、生き残りをかけたたたかいをするために他の力のある国と同盟しようとした、それはいっけん合理的な判断に見えます。しかし神様の前ではそうではなかったのです。神は言われます。「災いだ、背く子らは」、それは神に背くことでした。続けます、「彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすがわたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。」

力のある国との同盟がなぜいけないのでしょうか。…古今東西、小国は大国と結びつくことで自国の安全を確保しようとします。ユダの国もそれに倣っただけのように見えますが、謀をたてる時もまず神のみこころをこそ問うべきだったのです。しかし、そのことは初めから頭にありません。現実的なパワーバランスから考えていたのです。…だいたいエジプトは信頼できる国だったのでしょうか。ユダには主なる神がついておられますが、エジプト人は偶像の神々を礼拝しています。ユダがエジプトと盟約を交わすことで、エジプト人が信仰している神々の影響がユダに及んでくる危険があるのですが、ユダは無頓着でした。一説によると「盟約の杯」とは異教の神々にささげる酒を飲みかわすということで、もしこれが本当なら「罪に罪を重ねている」と言われるのも当然だと言わなければなりません。

6節は「ネゲブの獣についての託宣」というタイトルになっています。同盟を成立させるために、ユダの国からエジプトに向かった使節団はネゲブを通って行きました。ネゲブとは死海の南に位置する荒れ野です。本来、使節団はガザから西へ海沿いに進んでいくのが普通で、そこが一般的なルートなのですが、もしもこの道をたどろうとすると、その道が封鎖されているか何かの理由でアッシリアに見つかってしまうおそれがありました。そこで、わざわざひと目につきにくい荒れ野を通っていったのです。ユダの使節団はエジプトへの貢ぎ物をろばやらくだに載せて行きましたが、荒れ野にはライオンや蝮、そしてよくわからないのですが飛び回る炎の蛇が待ちかまえています。その道をさんざん苦労して進んでいっても「エジプトの助けは空しくはかない」、本当に頼るべき神様に頼らずエジプトの軍事力や経済力の前にひれ伏しても意味はないということです。神はエジプトのことを「つながれたラハブ」と呼びます。ラハブは神話的な怪獣ですが、鎖でつながれていたら怪力を発揮することが出来ません。神様は図体ばかり大きくても大事な時に何もできないエジプトという国の正体を知っていたのです。

 

では次に8節をご覧下さい。「 今、行って、これを彼らの前で板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。」

神様はイザヤにご自分の言葉を記録するよう言われます。後の日に、それが神から出たことであり、ユダの人々の苦しみは彼らが神の言葉に従わなかった結果もたらされたものであることを、彼らがはっきり理解するためです。

しかし反逆の民である彼らが、神の言葉をどう受けとめたでしょうか。神様は彼らが偽りの子で、主の教えを聞こうとしない子らだと言いますが、彼らはそれに加えて先見者や預言者を妨害するのです。先見者も預言者も意味はほとんど同じ、神の言葉を取り次いでいた人たちです。彼らは先見者には「見るな」と言い、イザヤのような預言者には「真実を我々に預言するな」と言います。都合の悪い言葉はいらない、自分たちに気に入ってもらえる言葉を語れということです。…アッシリアが迫って国が滅びるかどうかの瀬戸際にある時、人々が気に入って聞いてくれるような言葉とは何か、だいたい想像がつきます。…ユダの国に迫っている脅威について正面から語ることはいやがられますから、「憂慮すべきことはあってもただちに影響は出ません。大丈夫です」などと言って、偽りの安心感の中に人々を誘いこもうとする言葉です。そこにまことの神は出て来ません。まるで、今どこかの国で起こっているのと同じようなことがあったのです。

 

このようなユダの国のありさまを見つつ、イスラエルの聖なる方、主なる神は警告を発せられます。12節から、「お前たちは、この言葉を拒み、抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ、この罪は、お前たちにとって高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。その崩壊の様は陶器師の壺が砕けるようだ。容赦なく粉砕され、暖炉から火を取り、永遠から水をすくう破片も残らないようだ。」

この時のユダの国は、まことの神よりも、あてにならないエジプトとの同盟によって国を守ろうしていました。神の言葉を聞こうとせず、耳に心地良い言葉ばかり求めていました。篤い信仰を持っているとされたヒゼキヤ王さえそこに巻き込まれていたのですから、まして他の人々ならなおさらです。しかし危機というものは、人々が大丈夫、大丈夫と思っている間にじわりじわりと進行するものです。そして、ある日突然、破局が来るのです。まるで城壁に生じたわずかな亀裂が広がって、ある日突然、城壁全体を崩してしまうように、また陶器師が作った壺が粉々に砕け散ってしまうように。

これは反逆の子らにもたらされた神様からの警告です。このことがその通り起こったかどうかはイザヤ書を読み進むうちに明らかになってくるでしょうが、私たちはこれを現代世界に与えられた警告としても受け取りたいと思います。

いま一人ひとりの個人や家族・小さな団体から国際社会という巨大な単位まで、危機管理の重要さが認識されていると思いますが、イザヤ書がここで教えていることはおおいに参考になるはずです。…危機の発端は、神の言葉を聞かず、神の力をあなどり、それ以外の力に頼ろうとしたところにありました。そして危険が迫ってきていても、大丈夫、ただちに影響はないと安心していたところ、わずかな亀裂がある日、城壁全体を崩してしまうようなことになるのです。気がついた時はもう手遅れで破局に至るということが、地球上いたるところで起こってきたし、これからも起こるのではないでしょうか。

 

それではいったいどうしたらいいのでしょう。どこに救いがあるのでしょう。15節をご覧ください。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」

うまく説明出来ないのですが、ここにはユダの人々、ユダヤ人ばかりでなく私たちみんなにとっての希望があります。私たちのまわりにもアッシリアのような強大な敵が迫っているかもしれません。仕事のことや人間関係、その他さまざまな悩みで押しつぶされそうになっているかもしれません。そこで、苦しみから逃れるために、この世で力のある人に頼ったり、現実逃避をしていつわりの安心感に酔うということがしょっちゅうあるのですが、もしも神様のことをないがしろにしているなら本質的な解決はなく、その結果たいへんなことが起こる場合があります。これは決して、ただの脅かしではありません。

主なる神に立ち帰って静かにするなら、あなたは救われます。主なる神を安らかに信頼していることで力を得るのです。

ユダの人々は残念ながら、この戒めに従わなかったので、このあとさらなる苦しみをなめることになりましたが、このことを教えられている世界が、日本が、そして私たちが同じ失敗を繰り返す必要はありません。

今日は10月最後の日曜日、教会はこの日を宗教改革を記念する日として覚え、礼拝しています。16世紀、ルターを初め宗教改革に邁進した人々は、社会的地位が高かったわけでもなく、たくさんの財産があったわけでもありません。ユダの人々にとってのエジプト、現代人にとっての軍事力や資金力のような、この世の力に頼ろうとするのではなく、主なる神に立ち帰り静かにすることで救われ、安らかに信頼していることで力を得たのです。このことが教えていることを、世界も私たちも求めていくべきなのです。

 

(祈り)

 天の父なる神様、いまイスラエルとハマスの戦争のためにガザの人々を初めとして多くの人々が人道上の危機にあり、それがキリスト教徒にとっての聖地で起こっていることが、私たちにも大きな衝撃を与えています。これは宗教と宗教の争いなのか、それとも宗教とは別なところから起こった争いなのでしょうか。いずれにしてもイスラエル・パレスチナ双方で殺戮が続いていることに、もしも世界の教会が責任を負っているのだとしたら、一日も早く病根を明らかにし、それを治療することで、教会が平和のために貢献することが出来ますように。そのために、私たちのわずかな力をもお用い下さい。

 神様、いま私たちはイザヤ書からユダヤ人の歴史を学びました。神様が世界の諸民族の中からただ一つ選ばれたイスラエル民族・ユダヤ人は、歴史の中で消え去ることなく生き続けました。イエス・キリストはまさにユダヤ人の中からお生まれになったのです。その後、ユダヤ人の多くはイエス様を信じないまま今日に至っていますが、神様がこの民族に与えた使命とはイスラエル国からパレスチナ人を追い出すことだったのでしょうか。そんなはずはありません。どうか平和を愛する神様のみこころがユダヤ人とパレスチナ人の中で実現しますようにと祈ります。どうか私たちの旧約聖書の学びも、平和な世界につながっていくものでありますように。

 

主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。