死は終わりではない

死は終わりではない  イザヤ402731マタイ91826  2023.10.1

 

皆さんご存じのように、聖書にはイエス・キリストが行った様々な奇跡が書かれています。特にマタイ福音書の9章では、奇跡の話が続いていますが、私たちはそうした話を聞く時、ともすれば、そこで何が起こったかということにばかり心を奪われてしまいますが、本当に大切なことはその奥にあるのです。主イエスが奇跡を起こされた、そのことの持つ意味を考えることをしないと、ただ「イエス様、すごいすごい」で終わってしまうでしょう。

平安時代の日本に安倍晴明という陰陽師がいたという話がありますが、こういう人は奇跡、彼らの言葉では方術を行う時に呪文を唱えます、そうした言葉の意味は聞いてもわかりません。現代人はもとより同時代の人々にとってもそうだったはずです。これと比較して、主イエスが奇跡を行われた時を見てみると、呪文を唱えることは決してありません。誰にもわからない言葉ではなく、み言葉を唱えておられるということがたいへん重要なのです。

奇跡というのはなにもイエス様だけが行われたのではないでしょう。科学万能の現代でも奇跡を起こせると主張している人がいて、その中には科学的に解明できない現象もあるかもしれません。かりに私たちが目の前でそんな光景を見たとしたら、現代にも奇跡があるのかとおそれいってしまうと思うのですが、そのような場合でも、それが神様から来たものか、悪魔から来たものか判断することが大切です。私たちには聖書という判断基準が与えられており、そこにイエス様の言葉がありますから、これに照らして正しい判断を下すことが出来るのです。

 

今日の箇所には、主イエスがある指導者の娘と、出血が続いている女と、二人の女性を救った話が入っています。同じ話がマルコ福音書にもルカ福音書にも出ていて、そちらの方は文章が長くなっており、礼拝説教を2回に分けて行うことが多いのですが、マタイ福音書の場合、簡潔に書いてあって文章が短いし、二人の女性の間に共通点もあるので、説教を1回にまとめて行うことといたします。

主イエスがバプテスマのヨハネの弟子たちを前に、「新しいぶどう酒は、新しい革袋へ入れるものだ」など、新時代を切り開く教えを語っていると、ある指導者がやって来ました。マルコとルカはそれはヤイロという人で会堂長であると書いているので、このあとヤイロと呼ぶことにいたします。ヤイロはイエス様の前にひれ伏して「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言ったというのです。まず、ここに大きな謎があることを皆さんは気がつかれたでしょうか。

ヤイロはここで死んだ娘を生き返らすことを願っています。ヤイロにとって娘が死んだことがたいへんな悲しみであったことは言うまでもありませんが、しかし、なぜイエス様に娘の復活を懇願しようとしたのでしょうか。そこに行くまでには大きな飛躍があるのです。

マルコ福音書の並行記事を見てみると、ヤイロは「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と、しきりに願っています。ルカ福音書でも、イエス様に「自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳くらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである」と書いています。つまりマルコでもルカでも、この時点で少女は死んでいないのです。そのため少女は死んだのか、それとも死にかけていたのか、書いてあることが矛盾していてわからなくなってしまいます。…事実は一つ、しかし証拠となる映像も何もありません。そこである牧師は、マタイのテキストで説教しながら、父親が訪ねてきた段階では娘はまだ死んではいなかったとし、その上でお話を組み立てていましたが、私は、マタイがあえて「娘は死にました」と書きとめている以上、その判断に基づいてお話しすることにいたします。

ヤイロが、イエス様が死者を復活させる力を持ったお方だと信じていたとすれば、それは娘への愛情の現れ以上の素晴らしい信仰だと見なさなければなりません。…イエス様はそれまで多くの病人の病気をいやしたことで、国中でかなりの評判になっていたでしょうが、死者を復活させたことはありません。ヤイロがイエス様の全能の力を信じていなければ、娘の復活を望むことはないはずです。

ヤイロがイエス様に娘の復活を願うまでに、次のことがあった可能性が考えられます。当時、イエス様の登場はユダヤにセンセーションを巻き起こしたはずですが、イエスとはいったいなにものかということが議論になっていて、これを預言者エリヤの再来だと言う人がいたのです。エリヤはイスラエル民族が南北二つの国に分裂していた時代、まことの信仰をもって偶像礼拝と闘った偉大な預言者です。旧約聖書のいちばん最後には「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」という神様の言葉が記されていたので、エリヤの再来が待たれていたことは確実です。そのエリヤについて列王記上17章では、世話になっていた女性の息子が病気で死んでしまった時、その子を祈りによって蘇らせたという話が書かれています。ヤイロは、イエス様がエリヤの再来ならば、死者を復活させることが出来るだろうと考えていたのかもしれません。

 実際には、再来したエリヤとはバプテスマのヨハネであると、のちにイエス様ご自身によって明言されています(1114)。またエリヤは祈りによって子どもを蘇らせていますから、ヤイロがイエス様に「手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」に頼んだのは、エリヤのしたことからちょっとはずれているのですが、そういうことがあったとしても、イエス様に死を克服する力があることを信じ、それにすがったということでヤイロの信仰は称賛されているのです。

 

主イエスはヤイロの家にすぐに向かおうとされましたが、そこに12年間、出血が続いている女性が近づいて来ました。ヤイロとこの女性の間には共通点があります。ヤイロはたった今、愛してやまない娘を亡くしたという究極の悲しみの中にあり、女性も生きる望みをすべて失ったような状況であったのです。

この女性は、12年このかた出血が止まらないことに苦しみぬいていました。

この病気は婦人病のひとつでふつう長血と呼ばれるものです。この人は12年も闘病しながら治らないばかりか、他の福音書によれば治療のために全財産を使い果たしてしまっています。その上さらに彼女を絶望に陥れた事情があったのです。…それは旧約聖書の律法の中に、出血している女は不浄であると規定されていたことから来ます。レビ記1525節以下に書いてあることを要約すると、生理が始まったら、また生理の期間中でなくても出血がある場合、その人は汚れたものとされ、使用した寝床や腰掛け、衣服まで汚れたものと見なされます。出血が治った時は、祭司に清めの儀式をしてもらわなければならないとも書いてあるのです。そのため、この女性は病気そのものと全財産を失ったことから来る苦しみのほかに、人々から孤立し、宗教的にも汚れた者だと断罪されるという三重四重の苦しみの中に置かれていたのです。

レビ記に書いてあることは現代の人権感覚からいうと到底受け入れられないもので、なぜそんなことが規定されているのかということになりますが、本来、女性の体を保護するための規定であったのかもしれません。ヒントになることは、血というものがたいへん重んじられていたということでありまして、たとえば生き物の血を飲むことが禁じられています。それは生き物の命は血の中にあるからです(レビ171012)。こうしたことは人間にもあてはまります。命が血の中にある以上、血が流れて失われることは命がだんだん消耗していくことですから、忌むべきことだと考えられたのかもしれません。

いずれにしても、女性はこのような絶望的な状況の中、イエス様のことを聞いてわらにもすがる思いでやって来たのです。彼女はイエス様の服の房に触れたあと、イエス様から「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と声をかけられ、まさにその時に出血が止まり、病気が治ったと書いてあります。ただしマルコとルカでは、女性がイエス様の服の房に触れた時に出血が止まり病気が治ったと書いてあるので、つまり女性の体が健康体に戻ったのはイエス様の服の房に触れた時なのか、それともイエス様の言葉を受けた時なのか、どちらが本当かということになるのですが、今日はマタイが書いていることを尊重し、イエス様の言葉が女性の病気を治したと考えます。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」、女性はイエス様によって救われました、その結果、病気が治ったのです。

 

途中思わぬことが起こりましたが、主イエスは弟子たちと共にヤイロの家に向かいます。23節、「イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」

ユダヤ人の葬式では、少なくとも笛を吹く人ふたりと泣き女と呼ばれる人ひとりを用意することになっていました。職業として葬式を葬式ならしめる人がいたのです。この時、すでに葬式が始まっていたのかもしれません。悲しみに暮れる家族のそばで笛が奏でられ、泣き女が泣いて、群衆が騒いでいたのでしょう。主イエスがその人々に向かって「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われると、その場にいた多くの人があざ笑いました。娘の復活を願った父親や家族などはそこに入らなかったと思いますが。

主イエスの、少女が眠っているというお言葉には深い意味があると見なければなりません。それはイエス様において、死は終わりではないということなのです。人は眠っても、また目が覚め、起き上がります。このように、一度死んだ人もいつの日か目覚め、起き上がるということです。…古今東西、多くの人が死んだ人は二度と起き上がることなく、そのまま消えてしまうと思い込んでいますが、イエス様はそうではないと言われます。そして、そのことを実証なさろうとするのです。

人々は、この人はいったい何を言っているのかと思ったのでしょうが、イエス様はその人々を外に出すと、家の中に入り、少女の手をお取りになりました。「すると、少女は起き上がった」と書いてありますが、これはイエス様が少女の手を取ったから少女が復活したということではないはずです。原文では「起き上がった」という言葉が受動態になっており、死んでいた少女が自発的に起き上がったということではありません。ここのところをルカ福音書では、「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」と書いていますから、やはりイエス様の言葉が奇跡が起こしたのです。呪文でも何でもなくイエス様の言葉によって少女が起き上がらされた、すなわち「少女が起き上がった」ということだと思います。

死んだ少女が復活した、このことはイエス様の全能の力をあらわすものですが、私たちはイエス様だから出来た奇跡というふうにだけ片づけることは出来ません。むろんそれは、イエス様でなくても死者を復活させられるというのでもありません。

少女も、そして12年間出血に苦しめられていた女性もそうですが、2人ともイエス様の言葉によって救われました。少女は病気のために死にました。もう一人の女性も、命を落とすまでにはならなかったのですが、社会的にも宗教的にも死んだも同然の人生を過ごしてきました。この二人を救ったイエス様の言葉は、他の多くの人の言葉とは全然違います。ただ口から出て、むなしく消えてしまう言葉ではないのです。それは、すべての人のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストその方が語る命のみ言葉であり、その言葉がひとたび発せられたならむなしく帰ってくることはありません。

12年間出血に苦しめられた女性も、蘇ったヤイロの娘も、やがて寿命が来たら死んでいきました。しかし、それにも関わらず、死は終わりではないことを聖書は示しています。私たちも皆、いつの日か人生を終えることになりますが、神のみ前で目覚め、起き上がり、新しい命を頂いて生きることになります。そのことを思いつつ生きることで、いま残されている人生の日々がより充実し、祝福されるものでありますようにと切に願います。

 

(祈り)

 恵み深い天の父なる神様。私たちの中で自分が最初に思い描いたような人生を生きているという人は少なく、多くの人はなかなかうまくいかない人生を持て余しながら、必死に生きているのではないかと思います。そんな中で、どんなにつらいことがあったとしても、イエス様の内に希望を見いだして、毎日を生きていこうとする者たちをどうか顧みて下さい。

 12年間出血に苦しんだ女性と、若くして病に倒れた少女はイエス様のみ言葉によって救われました。二人を救ったみ言葉は死んで死に打ち勝ったイエス様から来ています。イエス様のこの偉大ななさりようが、時と場所を超えて私たちの人生をも導いて下さることを願います。

 神様、この広島長束教会を、イエス様に望みを置くことで、いま悲しみの中にある人々のために、心から祈り、行動する教会として立てて下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名を通してこの祈りをお捧げします。アーメン。