ついに現わされた神の義

ついに現わされた神の義  詩編13018、ロマ32122  2023.9.24

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13521、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:26、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:228、説教、祈り、讃美歌:269、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 私たちは礼拝で、ローマの信徒への手紙をひと月に一回ずつ読み進めています。これは聖書全体の中でも特に重要であるばかりでなく、難解なことでも有名な書ですから、私たちにとっては目の前に、3000メートル級の高い山がそびえているようなものです。私たちは一緒にその山を登り始めたのですが、登山口を示す案内版にあたるのが1章17節の言葉で、こう書いてあります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。神の義という言葉がありますね。その上で今日の3章21節を開くと、「ところが今や…」、少し飛んで「神の義が示されました」となっています。1章のところでは「神の義」という言葉はあったものの、これが何なのかはっきりと示されているわけではありません。私たちは神の義というのがよくわからないまま、ずっと山を登ってきたのですが、それが今日の箇所で初めて見えてきたわけです。もっとも、それだけでは山頂に達したということでは決してありません。木がおいしげった山道を歩いていて、これまで上が見えなかったのですが、いまようやく頂上を仰ぎ見る地点に立ったというところです。

 

 私たちがここまで読んできてわかったことは、1章の18節から3章の20節までの道のりというのが、私たちが「神の義」という本題に入る前の準備のようなものだったということです。私たちはその中で、律法を持たず、神の直接のお導きを受けなかった異邦人が罪人であることを教えられましたが、それだけでありません、神が世界の民族の中からただ一つ選ばれ、律法を与えられたユダヤ人もまた罪人であることを教えられたのです。

 これにはユダヤ人はカチンと来たはずです。ユダヤ人にとってみれば、まことの神を知らないまま、自分で偶像をつくってはこれを拝んでいる異邦人が罪人であることはわかりますが、神様から選ばれ、尊い律法を与えられ、これを守りぬこうとけんめいな努力をしていた自分たちまで罪人だと言われたのですから、それが正しいなら、自分たちが今までやってきたことはいったい何なのだということになってしまうのです。

 私たちは実際にユダヤ人に会ったことがほとんどありませんから、ユダヤ人の精神生活というのがよくわからないというのが現実です。ユダヤは自分にとってあまりに遠い世界だと思っている人も多いでしょう。日本人はもともと絶対的な神を畏れることを知りません。人間にちょっと毛の生えたようなたくさんの神々に親しんでいたために、善悪の区別がユダヤ人とは少なからず違っていて、悪いことをしても水に流せばみそぎがすんだと、簡単に思っているところがありますが、ユダヤ人は違うのです。彼らの前には絶対的な神がおられます。ユダヤ人はかつてジプトで奴隷の民でありましたし、カナンの地に戻って自分たちの国をつくっても超大国の前に滅んでしまうという大変な苦難を経験した結果、自分たちが罪を犯したために神の罰を受けたのだと悟り、まことの神の前にこうべを垂れ、神様のみに従っていこうということで律法を守り抜こうとしたのです。神様の言葉を昼も夜もそらんじ、合計で600を超える律法のすべてを実行しようとするのは、これが始まった当初には大きな意義を持っていましたが、やがてイエス・キリストが批判されたような硬直化したありさまになってしまいました。そうした信仰を律法主義と言います。そのいきさつについては、私たちはよほど想像力を働かせないとわからないのではないかと思います。

 パウロは3章20節までのところで、まことの神を知らない異邦人が罪人であることを明らかにすると、次に自分もその一員であるユダヤ人に対して、あなたたちも異邦人と同じく罪人なのだと言いました。パウロにしても、ユダヤ人が救いを達成しようとけんめいに努力していることを知らないはずはありません。…シナゴーグでの礼拝を欠かさないのは当然のこと、週に2度断食して祈る人もたくさんいました。汚れたものから遠ざかり、律法に書かれた掟をすべて完全に守ろうとし、神様、これで大丈夫でしょう、どうぞ私を祝福して下さいと…。こういうのは神様なんかどうでもいいという人に比べたらずいぶんと立派に見えるもので、本人もそのことを意識していたのですが、パウロは、そんなことでは救いに到達することは出来ないと言います。

 このユダヤ人たちは、神を信じると言いながら、実は自分の力によって救いを達成しようとしていたのです。しかし、それは神のみ前ではどうってこともないことだったのです。世間では人格者として通っている人もひと皮めくれば、イエス様の言葉で言うなら白く塗った墓、外側は美しく見えるけれども内側は腐っていて、すでにほころびが見えてきています。…このユダヤ人に現れたことは、他の宗教の世界で真剣に救いを求めている人にも同じように起こります。要するに、人間のけんめいな努力によって救いに達するのは不可能なのです。偽りの神々を拝んでいた人ばかりでなく、まことの神を拝んでいた人であってもです、その人がどんなに努力したところで、誰もがみな罪の下にあり、そこからの出口を見つけることは出来ない、ここにおいて万事休すということになってしまいました。このことはパウロから2000年近く経った現在でも変わりないのです。

 

 このように人間のあらゆる企てが挫折してしまったところに、21節に書いてあることが起こりました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。ここには考えれば考えるほど深いことが書いてあるのですが、誰もがすぐに呑み込めることではないでしょう。…そこに現れてくるのは、難題を立ち所に解決する打ちでの小槌ではありません。私たちはとかく、何かのことでどうしようもなくなったところに神様が現れて、たちまちのうちに問題を解決して下さるのを期待することが多いのですが、そうやってたやすく獲得した恵みはたやすく失われてしまうものなのです。そのことをパウロもわかっていたのでしょう。だから「ところが今や…神の義が示されました」というのをロマ書の最初の方に持ってくることはありません。3章20節まで、異邦人とユダヤ人の罪についてえんえんと書いて、誰もが罪の下にあるという、どうしようもない現実を確認したあとで、この議論に入っています。それは、人間のどうしようもない現実をまず確認できなければ、次の段階に進むことは出来ないからです。

 ここに現れた神の義とは「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証され」たもので、それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。そして「そこには何の差別もありません」と言われています。

 まず神の義ということですが、これは教会の外で使われることはほとんどない言葉でしょう。平たく言えば「神の正しさ」となりますが、これで言い尽くすことは出来ません。少なくとも神の本質としての正しさです。「神は愛である」ことがよく言われ、神の本質は愛であるということを心に刻んでいる人は多いのですが、もう一つのこと、神の本質が義であるということが忘れられてはなりません。

 神の義はイエス・キリストを信じることによって与えられました。その意味は次回のロマ書の礼拝説教でくわしくお話しすることとして、それは律法を守ろうとするけんめいな努力によって勝ち取られたものではないのです。救いを求める人間の試みがすべて挫折したところに上から、神から与えられる、それは福音なのです。1章17節で「福音には、神の義が啓示されています」と書いてあります。神の義が語られるところに福音があります。

 それでは、神の義が「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて」とはどういうことでしょうか。これは矛盾しているように見える言い方ですがそうではありません。…神の義が律法とは関係なくというのは福音と律法とは違うということ、福音は律法をすべて守りぬこうとすることによって救いを獲得しようとすることとは違うのだということにほかなりません。

 しかし、それだけでは、律法とは関係ないはずの神の義が律法と預言者によって立証されて、というところでわからなくなってしまいます。これを解くには神の民であるユダヤ人の悠久の歴史を振り返ってみる必要があります。パウロに反対するユダヤ人が信じているところを言ってみるとこうなります。「むかし神はユダヤ人が出エジプトの旅をしている途上、シナイ山でモーセを通して律法を与えた、われわれはこれを最も大切なものとして尊んでいる。そのことを知っていながら、パウロはいったい何を言っている。あとからやっと出て来たイエスがわれわれが守ってきたものをくつがえそうとしても許さんぞ。だいたいイエスは神を冒涜した極悪人として処刑された人間ではないか」と。

 パウロはこの論法をどうやって突きくずそうとするのでしょうか。これは4章になって詳しく展開されるのですが。パウロはまず、律法が与えられる以前のユダヤ人に目を向けさせます。ユダヤ人の祖先はアブラハム、ユダヤ人の歴史はアブラハムがカルデアのウルを出発し、カナンの地に向かったところで始まりました。アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブで、神は、わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神であると言っておられます(出3:6)。彼ら3人はユダヤ人の信仰の基を築いた人たちです。では、彼らは律法をけんめいに守ろうとしていましたか。そうではありません。彼らはユダヤ人に律法が与えられる前の時代に生きていたので、当然のことですが律法を知らないのです。しかるに創世記16章6節では「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とはっきり書いてあります。つまり律法とは関係なく神様から救われるという福音が、すでにアブラハムにおいて示されていたのです。イサクとヤコブも同様、律法主義を知らないまま、しかし生き生きとした信仰の生涯をまっとうしたことになります。

 第二のこととして、モーセを通して与えられた律法そのものにも福音が証しされている、とパウロは理解しています。たとえば3章24節、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」、贖いという言葉はパウロが突然言い出したものではありません。すでにモーセが贖いの儀式を行っています(出24章、レビ16章など)。律法の書には犠牲となる動物の血を注ぐことで神様に罪を赦して頂いたことが書かれており、これが繰り返し行われ、ついにイエス・キリストの十字架へとつながっていったのです。ですから律法の中にすでに福音は芽生えていたことになります。

 そして第三のこととして、神の義が預言者によって立証されていました。旧約聖書に登場する預言者たちがイエス・キリストのことを予告していたのです。たとえばイザヤ書53章の苦難の僕の歌、「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ536)とか、「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ5312)、これがイエス様を指し示しているのは明白です、

 すなわちパウロは、ユダヤ人が尊敬してやまない信仰の祖先が律法が与えられる以前に生きた人であり、また律法自体を見ても、さらに預言者の言葉を見ても、律法主義とは無縁の信仰があったことを言っているのです。そこに神の義が示されています。福音があります。福音は律法に先立って与えられていたのです。

 福音はイエス・キリストを信じることによって与えられます。でも、旧約聖書の時代、誰もイエス様のことを知らなかったのではないでしょうか。しかし、先ほど申した通りそうではありません。…アブラハムはイエス・キリストを信じていたのでしょうか。創世記2218節に神がアブラハムに与えた言葉が記されています。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」。神はアブラハムに、地上の諸国民はすべて、あなたの子孫、すなわちイエス・キリストによって祝福を得ると言われたのです。アブラハムにとっては想像も出来ないほどスケールの大きな言葉ですが、彼がこれを受けとめ、信じたのは確かです。旧約聖書の時代、神はさまざまな方法によって救い主の到来を予告しており、心ある人はイエスという名前は知らなくてもそれを信じていました。

旧約聖書のすべてがイエス・キリストを証ししていますが、これがイエス様がこの世界に来られたことで実現し、今や神の義が示されました。…ユダヤ人であるか異邦人であるかを問わす、どれほど懸命に努力しても罪人であることは変わらず、どうしても救いに到達することが出来なかった人間たちの前に、全く新しい時代が開いたのです。パウロは「そこには何の差別もありません」と、驚くべきことを掲げます。ユダヤ人であっても異邦人であっても、肌の色がどんなに違っていても、男でも女でも、子どもでも老人でも、財産の違い、能力の違い、さらにそれだけに限りません。すべての人はもともと罪の下にあったのです。そこには、人間の目から見て比較的罪の軽い人ばかりでなく、殺人犯のように重罪を犯し、もうどこにも救いの道がないかのような人もいましたが、そういう人も含め、誰も排除されません。イエス・キリストはその十字架において、すべての人の罪に対する罰を一身に背負われたからです。

 ただ、それは本当に神の義の現れなのかと思う人がいるはずです。罪人の罪の責任は本人に帰すべきではないか、これをイエス様が担うことで果たして神の正しさが全うされるのかという疑問が出て来るのですが、これについてはロマ書の次の礼拝説教に委ねることにしましょう。

 今日のところでは、人間の試みがすべて挫折したあと、ついに現われた神の義がイエス・キリストと結びついたものであり、決してパウロが思いついたものではないこと、すでに何千年も昔から旧約聖書に書かれていたということを確信して頂きたいと思います。すべての人が罪人であるということは、皆さんも私も罪人であるということです。ならば八方ふさがりの出口なしの状態のままそこにとどまるか、それともついに現れた神の義に自分の魂を預けるか、二つのうちどれかを必ず選ばなければなりません。

 

(祈り)

 神様、異邦人として生まれ、育った私たちが、イエス・キリストに出会い、誰もが罪の下にあるにもかかわらず、ついに現れた神の義の働きによって救われ、いまこうして神様を礼拝できている恵みを心から感謝いたします。

 神様、神様からあれだけ厳しい訓練を受け、自分でも懸命の努力を積み重ねたユダヤ人でさえ、自力で救いに達することが出来なかったことを、私たちは異邦人に属する者として重大に受け止めることが出来ますように。私たち自身も本当の意味で罪の自覚に立たないと、神様の恵みを本当に恵みとして受け取ることが出来ません。…罪に対してあやふやであいまいなこの世にのみこまれることなく、絶対の力をもって世界を統べ治めている神様を畏れ敬い、信仰の道を進んでいくことが出来ますよう、私たちに知恵と勇気を与えて下さい。

 神様、私たちや私たちの家族、また友人の間でなかなか治らない体や心の病気、貧困など多くの苦しみがあります。どうか信仰によって困難の中に道を切り開いていくことが出来ますように。また日本各地で伝道のために苦闘する教会を支え導き、福音によってこの国に希望をもたらして下さい。今、このなにごとにおいても難しい時代の中に語り、行うべき神の言葉と力を与えて下さい。

 この祈りをとうとき主イエスの御名によってお捧げします。アーメン。