あなたの父母を敬え

あなたの父母を敬え 出エジプト2012、エフェソ614 2023.9.17

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13518、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:434、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 今日はモーセの十戒の中から第5の戒め、「あなたの父母を敬え」を学びますが、イエス・キリストの言葉を紹介することから始めます。

 イエス・キリストが十字架につけられているとき、そばに5人の人がいました。瀕死のイエス様はそこに母マリアと弟子ヨハネがいるのを見て、まずマリアに「ご覧なさい。あなたの子です」と言われました。続いてヨハネに「見なさい。あなたの母です」と言われました。そのときからヨハネはマリアを自分の家に引き取りました(ヨハネ192527)。全人類の救いという責任を負ってまさに死に臨もうとしていたイエス様の最後の言葉の一つが、ご自分を産んで育ててくれた母親をかえりみる言葉でありました。ここに、「あなたの父母を敬え」という戒めを主イエスがどのように実践されたかということが示されています。

 

 「あなたの父母を敬え」、これは見ての通り、子の親に対する態度を規定した

戒めで、要するに親孝行を求めた戒めです。

父母を敬えというのは聖書から教えられるまでもなく、世界中あらゆるとこ

ろで言われていることですね。子供に対し親を敬いなさいというのは、おそらくどんな宗教でも教えていることだと思います。特にアジアでは親孝行が人間生活の根本にあるものとして規定されてきた長い歴史があります。その代表と言えるのが、私たちもよく知っている儒教の精神です。

儒教は中国において、孔子というすぐれた人物によって始まりました。彼はまず自分の身を修めることから始め、そこから家、そして国を治めるに至ることを説きました。……自分の家でも、社会でも、人を指導し、監督することの出来る者は、まず自らを厳しく修めることの出来る者でなければならない、……この儒教の倫理において、もっとも身近な人間関係が子どもの親に対する関係でありまして、親孝行の「孝」ということが倫理の基本になるのです。孟子においては、「孝は百行の本(=基)」となります。

 日本にはこの儒教の影響が今も強く残っていると思われます。今日、日本を治めている政治家に、政治の根底にはまず自らを厳しく修めることがなければならないという思いがどこまであるのか、疑問に思われるようなケースも少なくないのですが、昔は、まず自分自身を修めることを心がけることから始め、、傍らに良き師を求め、その意見を聞きながら良い政治に努めた人がたくさんいたようです。

 江戸時代二百六十年間、幕府が日本の国を治めた原理は儒教思想、すなわち儒学を採用することによって行われました。江戸幕府が採用したのは、儒教の中の朱子学という学問です。その後、朱子学に対して陽明学というのが起こり、徹底した知行合一を主張し、学問と行為が一つでなければならぬとしたということですが、これに基づき、儒教の中心としての「孝」の精神を徹底させたのが、近江聖人として知られた中江藤樹という人です。

 中江藤樹は1608年に今の滋賀県に生まれました。学問と人間の徳は一つでなければならないという考えに基づき、「孝」を実践しました。始め米子藩に仕えたのですが次に愛媛の大洲藩主に懇望されてそこに仕えました。しかし殿様に仕える身では母に仕えることが出来ないというのでついに辞任し、まだ27歳の若さでありながら故郷の村に帰り、専ら母親に仕えることに専念したといいます。これがつまり儒教の精神の実践であったわけです。中江藤樹が近江聖人と呼ばれたのは、その人徳が近郊の農民や町人にまであまねく及んだためです。その一例として、その村出身の馬子、馬を引く人が客を乗せて運んだあと、ふと見ると財布が置き忘れてあったので、客を宿まで訪ねていって財布を届けたという話が伝えられています。つまり中江藤樹の感化が、近隣のあらゆる人に及んでいたということです。

 本来儒教の精神は、人間がまず自らを正し、そうして政治の姿勢を正すということにあり、これが学問の目的となるのです。ですから学問は机上の空論ではなく、実践と結びついたものでなければならなかったのです。

 儒教は親に対する「孝」が、さらに主人とか君主に対して忠誠を尽くすことに結びつき、それがしばしばとんでもない行き過ぎを産んだので封建的な思想だと見なされることが多く、実際にそういう役割を果たしたのですが、実はその根本に、人間の心を正すことによって現実を変革しようという革新的な精神も持ちあわせていたことは認めて良いと思います。

 

 さて、儒教の説いた「孝」の教えと、十戒の中の「あなたの父母を敬え」というのはどこが同じでどこが違うのでしょうか。人間の生き方の根本に親孝行が入っていることでは共通しておりますが、ここには何と言っても根本的な違いがあることを指摘しておかなければなりません。

 モーセの十戒については出エジプト記20章1節で「神はこれらすべての言葉を告げられた」と書いてあり、神の命令なのです。また12節に「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とも書いてあり、神様との関わりなしには成り立ちません。……いっぽう儒教には神様がいません。天ということは言うのですが。そのため儒教は本当に宗教なのかということが昔から論争の的になっています。神様がいないだろう教えの中で「孝」ということが尊ばれているのです。

 

どんな人間でも父親と母親なくして生まれた者はおりません。父親も母親もわからないという不幸な人はいますが、それでもその人が父親と母親から生ま

れたことを否定することは出来ません。人間は、そしてすべての生物がそうですが、命が自然に湧いて出て来ることはありません。必ず父と母から生まれてきます。といっても父親と母親が創造したのではなく、父親と母親を通して生まれ、その背後に命の創造者である神様がおられるのです。命は神様から来ます。人は神様から生まれ、神様に帰ってゆきます。神のご支配の中に、自分の父親と母親がいるのです。ですから父と母を敬うことは、とりも直さず、父と母を通して表わされた神様を信じ、神様のご支配を尊ぶことになるのです。

 人間が一人(いちにん)前になるには、動物と比べ比較にならないほど多くの時間がかかります。むかし日本で武士の家に生まれた男の子は15歳で元服したそうですが、今は男女とも18歳で成人、人によっては30歳になってもまだ大人になりきれていない人がいるようです。人は大人になるまで両親の保護と教育のもとにいなければなりません。そこでどんな人も、社会の中でいろいろな人たちとの人間関係を築いていこうとするなら、まず父母との関係を正しく築いていかなくてはなりません。

 古代のイスラエルにおいて、両親は子供を愛し、育てるのはもちろん、その信仰生活についても責任を持っていました。神様の言葉を子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も聞かせないと命じられていたのです(申命記66)。両親は子供を作ることだけで父と母になるのではなく、子供を神の戒めによって養育する責任があるから父と母になるのでした。そこから子供が両親を敬うことはそのまま神様への服従と結びつくことになっていたのです。親の権威というのは、信仰者としての生き方を子供に伝えるところにありました。…現代の日本にこれをそのまま持っていくことは出来ません。両親が信仰を持たない人であっても敬うのは当然です。しかし私たちが今度は親として、また親となって子供に向かい合う時に、子供に神様を指し示し、信仰を継承させてゆくという大きな役割が与えられているのです。

 

 ところでこの第5の戒めは「あなたの父母を敬え」とありますが、それは文字通り両親だけに限っているのではなく、両親を含めすべて自分の上に立つ人や権威に対する畏敬をも教えていることに注意しなければなりません。マルティン・ルターは、彼が作った信仰問答の中で、国家の指導者をはじめ、社会やいろいろの団体の中で指導的地位にある人に対して、これを神の備えた権威として、敬意をもって従うことを求めています。これは聖書理解の筋道からはずれるものではありません。すべて上に立つ者は神によってその位置に定められているのです。すべて神によらない権威はないとロマ書13章は教えます。父と母の権威は神から来ます。そして会社の社長や国家の指導者などの権威もすべて神から来るのですから、私たちはこの人たちをも敬うことを教えられているのです。

 しかしながら、これを聞いて井上牧師はずいぶん保守的なことを言ってるな、キリスト教はそんなに保守的で封建的な教えだったかと思われる方がいるかもしれません。

 やっかいなことは、たとえばあなたの父母は神が定めた権威だから敬いなさいと言われても、それがきれいごとのようにしか見えない現実があることです。ここにいらっしゃる皆さんはそれぞれ良いご両親を持っているか、あるいは持っていたと思いますが、世の中にはひどい親を持っている人がいます。自分の子を捨てて出て行った人がいます。車の中に自分の子を置きっぱなしにしたためにその子を熱中症で死なせてしまったとか、わが子を虐待して死なせてしまったという親もいます。封建道徳の中ではどんなにひどい親であっても絶対服従を教えるものがありますが、キリスト教もそうなのでしょうか。そこでエフェソ書6章1節を見ますと「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」と書いてあって、十戒の教えをそのまま踏襲しているように見えますが、4節では「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と書いてあります。これは親の行き過ぎに対する歯止めです。聖書は子供に対して諭すだけではなく親に対しても教えているのです。一方ばかり見ては偏ってしまうということの例として申しあげました。

 私たちは何より神のみこころを問いつつ歩まなければなりません。もしも父親と母親に従うことが良いこととは思えない、それどころか悪いこととしか思えない、そんな場合はどうしたら良いでしょうか。……親への服従がまっとうされるためには、一つ不可欠の条件があるのです。それは十戒の第一の戒めに抵触しない限りにおいて、ということです。「あなたの父母を敬え」は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めを守って、はじめて実現するのです。もしも親に従うことが神のみこころに反する結果となってしまう場合、ぎりぎりのところで神様に従うために親の言うことを聞かないという選択もありえます。

 この社会には、父であり母であるという素晴らしい特権を与えられていながらその責任を果たそうとしない人がいます。孤児院で聞いた話では、そこの子供たちに親がいないわけではなく、親がいるのに養育を放棄してしまったケースが殆どで、そのため、子供が親のところに行くと、親の方は面倒くさいのでカップラーメンを出す、すると子供にはカップラーメンがおふくろの味になってしまうという話を聞きました。こうした子供たちの前で「あなたの父母を敬え」と言うことがつまづきになってしまう可能性を否定することは出来ません。しかしこの子供たちも、父親と母親から生まれたという事実を否定することは出来ません。そして、このような育ち方をした人には別の形で人生の秘儀が備えられています。たとえば有名な賀川豊彦先生も円満な家庭から生まれた人ではなかったということです。どんなにひどい親を持ったとしても、その親のために祈ることが大切です。父母を敬うということは、父母がすばらしい人間である場合ばかりではなく、全くそうではない場合にも求められているのです。

 

 十戒の第5の戒めはこの自分が生まれて、一人の人となったことの背後に、創造者にして主なる神の恵みの導きがあったことを教えてくれます。父母を敬うことは、その背後に働かれている神の導きを思うことであり、神への讃美であり感謝となるのです。私たちは誰もが父母から生まれ、育てられ、父母はそのまた父母から生まれ、育てられ、これを繰り返してゆくとどれほどたくさんの人の恩恵を受けているかわかりません。それらすべてが神様のお導きなのです。

 

(祈り)

創造者にして父なる御神様。誰もがよく知っており、誰もがこれを立派に果たすことが出来ていない戒めが与えられました。父母に対して良き息子、娘でいることが出来ない私たちを、そして自分の子供に対しても良い親であることが出来ない私たちを憐れんで下さい。

神様、人と人の関係を保つことは難しく、血のつながった家族の間でさえ、いやそれだからこそ、うまくゆかないことがたくさんあります。これは私たちに愛が足りていないからでしょうか。神様への畏れの気持ちが足りないからでしょうか。どうか主にある家族の幸いを私たちひとりひとりにお与え下さい。そして神様は、あなたの父母を敬えということから、自分の上に立つ人を敬うことをも教えて下さいました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めの下で、これを行っていく者として下さい。

 

私たち、そして私たちの愛するすべての人の心の中のいたみや悩みをすべてご存じである神様の慰めと励ましをお願いいたします。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。