正しい者は一人もいない

正しい者は一人もいない  詩編1413、ロマ3520  2023.8.20

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1345、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:4、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:Ⅱ-80、説教、祈り、讃美歌:258、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 ローマの信徒への手紙は、最初の1章1節から7節までがパウロの自己紹介、1章8節から15節までがパウロの思いで、あなたがたにぜひ会いたい、信仰によって励まし合いたいということが書かれていて、1章16節から本論に入るのですが、本論の中でも1章16節からいま読んだ3章20節までがひとつながりになっていて、今日はその結論の部分となります。

 前回までのところをかいつまんで申します。パウロは世界の民族をユダヤ人と異邦人に分類します。異邦人は、これを代表する民族の名を使ってギリシア人とも言いますが同じことです。パウロはまず異邦人は罪人であると言いますが、そのあとで今度はユダヤ人も罪人であると言うのです。パウロ自身もユダヤ人なのですが。プライドの高いユダヤ人はこれを聞いたら、当然ながら面白くないはずですが、パウロはユダヤ人だったらこういうだろうということをあらかじめ想定して反論を書いています。

 今のユダヤ人はどうかわかりませんが、この時代のユダヤ人は、自分たちは世界で唯一無二の民族だと考えていました。それは自分たちこそ神の民であり、神様に選ばれて律法を与えられていますし、また男性がみんな割礼を受けているからです。そんな人々に対し、パウロはユダヤ人も異邦人も同じく罪人なんだと言うものですから、ユダヤ人にしてみたら、われわれが神様からこれまで受けてきた恵みはいったいなんなのだということになりますね。ユダヤ人からのこうした批判についてパウロは、自分たちがこれまで神様にさんざん逆らっていながら、我々は神の民なのだから特別で、異邦人にまさっているというユダヤ人の考え方は虫が良すぎるではないかと言うのです。ユダヤ人の、ついには神様をも悪者にするような言い方に対し、パウロは神様はどこまでも正しいと言うのです。

 

 こうして9節に入り、パウロはこれまで語ったことをもう一度確認して、宣言します。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」

 「わたしたち」とはパウロを含むユダヤ人です。…自分の国が世界の中心、わが民族はほかのすべての民族に優っていると思いこむことは日本にもありましたが、この点でユダヤ人は徹底しています。自分たちは世界の中でただ一つ、神様によってえらばれた民なのだ、だからギリシア人に代表される、本当の神様を知らない異邦人とは格が違うんだということだったのですが、パウロはユダヤ人のこのプライドを徹底的に打ち砕きました。われわれユダヤ人に優れた点などない、律法を与えられ、割礼を受けていたとしても、ユダヤ人は異邦人と同じように罪の下にあると言うのです。神様は罪を憎みますから、それはユダヤ人も神の怒りの下にあるのだということです。すべての人間が罪の下にあります。その意味ですべての人は平等なのです。

 このことは私たち、頭でわかったとしてもすぐに納得できることではありません。まず平等と言う言葉について確認してみましょう。

人間はみな平等だと建前としてはわかっていても、現実にはこれを信じられないことがたくさんありますね。あの人は財産家だけれど、自分は食うや食わずの生活をしている、同窓会で昔のクラスメイトに会ったらみんな偉くなっているのに、自分ときたら……ということがあります。特に生まれつきの違いで、つまり自分の努力だけではいかんともしがたいことで他の人に対し劣等感をいだくことがあると、あの人が羨ましいと思うだけでなく、神様は不公平だと思うこともあるかもしれません。

 この世の中で人間は決して平等とは言えないように見える現実があります。そこで経済的不平等をなくそうという運動が起こったりするのですが、ではみんなが経済的に平等になれば良いのか、…パウロはそんなことを言ってはおりません。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」、つまり人間は罪を犯すことによってみな平等なのです。

 これを認めるのは簡単ではありません。自分が心から尊敬したり崇拝している人について、その人も罪人であると言ったら、とうてい納得できないという人がいるに違いありません。また、片方に殺人犯を立たせ、もう片方にこれまで警察のやっかいになったことのない普通の人を立たせて、どちらも罪を犯すことによって平等だと言っても、すぐには信じられるものではありません。

 しかしこれらの議論はみな人間の中だけで考えています。神様の目から見るなら、どんな人だって五十歩百歩、どんぐりの背比べみたいなものです。私たちにしても、これまで警察に引っ張られたことはないとしても、かりにのっぴきならない状況に陥ったら犯罪を犯すかもしれません。今までそんなことがなかったのは、私たちがたまたま安全地帯にいたからなのだと、パウロはそれほどまでの深刻な理解を示しています。

 人間はどんな人でも皆、罪という力の下に支配されているのです。パウロはすでに、異邦人の中であらゆる不義、悪、むさぼりなどが満ちていることを暴き、今度は返す刀で、ユダヤ人が自分では神の御心に従っているとしながら、実際は神の思いとは反対のことばかりしていると言うのです。本当の神様を信じているかどうかに関わりなく、すべての人が罪の力の下に支配されているということなのです。

 異教の神々を信じて礼拝していた人々ばかりでなく、本当の神様を礼拝しているユダヤ人までが罪の下にあるというのは大変なことです。では、ここからいったいどうしたら良いのでしょうか。

こうした状況を打開するための手っ取り早い方法として倫理や道徳を唱える人がいます。日本でも学校で道徳教育を行っています。それらは何もないよりはましかもしれませんが本当の解決にはなりません。人々が倫理的、道徳的に向上していくことで人間社会は住みやすくなり、社会は良くなっていくという考え方がありますが、パウロが言っているのは、人間の倫理的、道徳的な努力によって罪の問題は解決しないということです。人間がみな罪の力に支配されている事実をそのままにして、その中でどのように努力しようとも根本的な解決にはならず、結局は罪の支配を温存してしまうことになってしまうと言うのです。

 

 そこでパウロは、今度は10節から18節にかけて、旧約聖書の引用によって、罪の力にどうしようもなく支配されている人間の姿を明るみに出しています。この中の10節から12節にかけては詩編14篇1~3節の引用ですが、パウロはそれ以外に旧約聖書のいろいろなところから縦横無尽に引き出してきています。いちいちその場所は示しません。…それにしても、旧約聖書のたくさんの言葉をいつも頭にストックしていて、必要な時にいつでもそこから持ってくることが出来るというのは、私たちにはなかなか真似できないことですね。

 「正しい者はいない。一人もいない」。これはたいへんに厳しい言葉です。

創世記には、悪徳の都ソドムを滅ぼそうとして来た主なる神様に対し、アブラハムがとりなす話があります。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」というアブラハムに対し、主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全体を赦そう。」と答えられました。しかし正しい者が50人もいるでしょうか。アブラハムは、正しい者が45人だったら、40人だったら、30人だったらと数字を切りつめていきます。主はついに、正しい者が十人いたらその十人のために町を滅ぼさないと言われたのですが、いざソドムの町に行ってみると十人の正しい者もいなかったのです。町は滅ぼされてしまいました。

私たちは「正しい者はいない。一人もいない」ということをなかなか認めることが出来ません。これは言い過ぎではないか、大げさだと思ってしまうのです。11節には「神を探し求める者もいない」とも書いていますが、しかし、神を探し求めているからこうして礼拝に来たのじゃないかと言いたくもなります。しかし、その思いにこそ問題があります。たしかに私たちそれぞれ、正しい者になりたいと思っていますし、救いを求めて礼拝に出席しています。ふだんの生活でもそれなりに良いことをしていると自負しているかもしれません。…こういうことは人間同士の中では評価されることでありましょう。でも、神様の目から見たらどうなのかということなのです。…ふだん神様の存在がリアルに感じられない私たちです。もしも目の前に神様が現れても、胸をはって、神様、自分はみこころにはずれたことは何一つしたことがありません、と言うことが出来るでしょうか。それが出来ない現実があることをまず認めて下さい。

12節と13節は言葉における罪を明るみに出しています。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は呪いと苦味で満ち、」。あの言葉で失敗しちゃった、口は災いの元であるということは、誰もが実感していることではないかと思いますが、聖書は人間が言葉において犯す罪をたいへん重大に受けとめています。ヤコブの手紙の3章2節以降がそのことを明らかにしているので、少し長いですが読んでみます。

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語をするのです。

御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」

 

 15節、「足は血を流すのに早く、その道には破壊と悲惨がある」、まるで人を殺すために走っているかのように見えます。そのように直接、人を殺してしまう人もいますが、それがすべてではありません。ここでパウロはイザヤ書59章7節を引いていますが、そこには「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ」と書いてあります。罪のない者の血を流すというのは、イザヤ書のこのところでは、裁判において無罪にすべき人を死刑にすること、つまり国の裁判制度を悪用して、直接、手をよごすことなく無実の人を死刑にしてしまうことを指しています。…このように見ていきますと、私たちがふだん心に思っている罪がいかに範囲の狭いものであるかを思い知らされます。直接、誰かを殴って殺したということがなくても、私たちには相手の心にぐさりと突き刺さる言葉を吐いたということがあるわけです。また会社とか国が進める政策に賛成し、それが進んでいった結果、犠牲者が出るということもありますね。もしも国が進めている戦争を支持したら、間接的に殺人に加担することになってしまいます。…だからパウロが「彼らは平和の道を知らない」というのは、私たちにとっても決して遠いことではありません。そして、それらすべての根底にあるのが「彼らの目には神への畏れがない」、ということでありまして、このことがユダヤ人にも異邦人にも、つまりすべての人間に対し、等しく言えることなのです。

 

 今日の聖書箇所の中でも、特にその結論部分にあたるのが19節と20節です。 ここに律法について書いてありますが、それはユダヤ人が神に選ばれ、律法を与えられたことの本当の意味を語っているという点で重要です。ユダヤ人の多くは、神様から律法が与えられたのは、自分たちが優れているからだと考えていたのですが、それは間違いでした。ではユダヤ人に律法が与えられたのはどうしてだったのか、それは神様に選ばれ、律法を与えられた自分たちでさえ、それを正しく実行することができない罪人であることを明らかにするためであったと言うのです。本当の神様を知らない異邦人が罪の力にからめとられていっただけでなく、本当の神様に導かれ、厳しく訓練されたはずのユダヤ人でさえも罪人だと言うのであれば、いったいどうすれば良いのかということになってしまいます。

ユダヤ人はそれまで苦渋の歴史をたどってきました。紀元前586年にエルサレムが攻略され亡国の民となってから、ユダヤ人は自分たちは神様に背いたからこんな目にあうのだと、律法を厳しく守ろうとする方向に転換しました。このことの持つ歴史的意義は大きなものでありましたが、その後、イエス様が地上におられた時代、それが行き過ぎて律法主義と呼ばれるものになってしまいました。律法を一字一句かたく守ろうとしても、罪の下にあることは変わらず、罪から抜け出すことが出来なかったのです。

 パウロはどうしてこのような認識に立つことが出来たのでしょう。皆さんご存じのように、彼はもともとユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、律法を厳格に守ることによって神の前に正しい者として生きていこうとし、その結果、異邦人を軽蔑するだけでなく、キリスト教徒を迫害していたのです。しかし復活したイエス・キリストとの出会いによって、自分が実は罪の巧妙な支配によって踊らされていて、それによって毒のある言葉を語り、血を流すのに速い歩みをしていたということに気づかされたのです。

 神様から与えられた律法が尊いのは言うまでもありません。しかし律法を一字一句厳格に守っていこうとしてもそれは出来っこありません。自分は律法の掟を守れない人間なのだということが突きつけられます。ではいったい、どうすれば良いのか。今日のところはそこで終わっています。

異邦人だけでなくユダヤ人も、つまり異教徒ばかりでなく本当の神様を礼拝している人も、すべての人が罪の下にあるという絶望からどう立ち上がっていくのかということは、パウロが次に書くことに期待して頂ければと思います。

 

(祈り)

 神様、私たちは同調圧力の強い日本社会の中で、人の目ばかり気にして生きることが多い者たちです。自分がかかわる狭いコミュニティーの中でだけ平穏に生きていければそれで良いと思いがちですが、東洋道徳の中でも「小人閑居して不善をなす」と教えられています。神様の目から私たちはどのように見えるのでしょうか。今日、聖書から教えられた、すべての人が罪の下にあるということを、いま私たちの想像をはるかに超える深刻な現実であると受け止めています。

 神様、神様からあれだけ厳しい訓練を受けたユダヤ人でさえ罪の支配から抜け出せなかったことを、私たちは異邦人に属する者として重大に受け止めることが出来ますように。私たち自身も本当の意味で罪の自覚に立つことによって、自分の力で自分を救うことは出来ないことを思い、神様からいただく救いを真剣に求めさせて下さい。

 私たちの誰もがいつの日か、神様の裁きの前に立つことになります、どうかその時に神様の怒りを受けて滅ぼされてしまうことがないよう、確かな救いの道を示して下さい。

 

 この祈りをとうとき主イエスの御名によってお捧げします。アーメン。