救いを必要とするのは

救いを必要とするのは  ホセア616、マタイ9913 2023.9.3

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13513、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:56、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:191、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-26、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式 Ⅱ-179)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

イエス・キリストの弟子の一人にマタイがおりますが、この人が主イエスに従うようになったいきさつが今日のお話です。徴税人をしていたマタイは、主イエスの12弟子の一人となりました。この人の一生について私たちはよくは知りません。新約聖書の中で、マタイはここの話以外ほとんど出てこないのです。……しかし、皆さんはマタイという名前を聞いて、思い出すことがないでしょうか。そうです、今開いている聖書の箇所がマタイによる福音書なんですね。これは徴税人マタイが書いたものでしょうか。……今日までの聖書学の研究によれば、これは徴税人マタイが書いたものと証明できてはいません。けれども、この人と全然関係がないとも言い切れないのです。マタイが主イエスについての記録を書き、それが他の資料と一緒になって、現在のマタイ福音書になったという可能性が考えられています。    

 

マタイが主イエスの弟子になったことは、マルコ福音書にもルカ福音書にも書いてあります。ただ、そこではレビという名前になっています。もともとレビという名前だったのがイエス様に会って、マタイという名前を与えられたのかもしれません。マタイの意味は「主の賜物」となります。

マタイは徴税人でありました。徴税人とは、要するに税務署に勤めている人です。この時代、徴税人が人々にどう思われていたか、それは今日のお話で大切なところですが、私たちにはちょっと想像出来ないほどです。 

税金がなくては日本の国は成り立ちません。今の時代、税金が高いか安いかは別にして、誰かが「私は税務署に勤めています」と言ったら「良いお仕事ですね」と言われるでしょう。ところが昔はそうではなかったんですね。

「サザエさん」にこんな話がありました。お父さんの波平さんが、奥さんのフネさんを驚かしてやろうと「ごめん下さい。税務署からやって来ました。ハハハハハ」と言って自宅に入ってきました。するとフネさんが「今、税務署から来てらっしゃるんですよ」。見ると、税務署の人が渋い顔をして座っていました。これなど昔、税務署の人が庶民から煙たがられていたことを示しています。でもイエス様の時代はそんなものではありませんでした。

当時のユダヤは独立国ではなく、ローマ帝国の支配下にありました。それはユダヤの国で取り立てられた税金がローマに流れてゆくということです。ユダヤ人にとって、祖国が異民族によって支配されていることは我慢ならないことでしたが、それは何より彼らの信仰からしても許せないことでありました。自分たちは神に選ばれた民族だと思っているのに、これを占領して、税金を取り立てるというのは、悪魔のしわざにほかならなかったのです。

ローマ帝国はローマ人を徴税人として、ローマ人がユダヤ人の恨みを買ってしまうようなことを避けました。そのかわりユダヤ人の徴税人を雇ってユダヤ人から税金を取り立てました。そのためユダヤ人は同じ民族である徴税人を嫌いました。ユダヤ人の目に彼らは、祖国を裏切って敵のために働いている売国奴でしかありませんでした。…それでも、徴税人がまじめに仕事をしていたならまだ良かったでしょう。実際には、彼らはしばしば決められた額以上のお金を取り立てて、自分の懐に入れていたのです。聖書に登場するもう一人の徴税人ザアカイは、主イエスによって救われたとき、「だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と宣言しています(ルカ19:8)。それは徴税人が、実際には汚いやり方で利益を得ていたことを証明しています。今の日本なら、税金が高すぎると訴えて行動することが出来ますし、税務署の情報公開もされていますが、新聞もラジオも人権という考えもない当時、人々はどうすることも出来ず、徴税人に対して、表向きはともかく、かげでは後ろ指を指し、軽蔑し、蛇蠍のごとくに嫌っていたのです。

皆さんは、この時代の徴税人のことを、差別され、虐げられた善良な人たちだと思ってはいなかったでしょうか。もしそうだとすると、主イエスは徴税人のそうした境遇に深く同情されたのだということになります。けれども、主イエスのなさったことはもっと奥の深いことです。徴税人が不当な利益を貪っていたことを、主イエスは見逃してはいません。主は「医者を必要とするのは、丈夫な人でなく病人である」と言います。徴税人マタイは病人なのです。さらに「わたしが来たのは、罪人を招くためである」という言葉から、マタイが罪人であることも明らかです。マタイが差別され、虐げられた人であるのは事実としても、規定に反して不正な利益を手にしていた可能性が強く、善良な人だとはとても言えないのです。

 

マタイが主イエスに従った、そこにどんな大きな心のドラマがあったのでしょうか、聖書に書いていることはたいへん簡潔です。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」、これだけです。この部分はやはりマタイ自身が書いたように思えます。彼が作者だとしたら、自分のことをくどくど語りたくなかったでしょう。

マタイはそのとき勤務時間中でした。主イエスに呼びかけられて立ち上がり、仕事を捨てて従ってゆくというのはなかなか信じられないことです。マタイはもしかしたら、それまで群衆にまじってイエス様のお話を聞いたり、噂を耳にしたりしていたのかもしれません(参照マルコ2:13)。それにしても、マタイの召命は他の弟子たちとは違っています。ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブはイエス様に呼びかけられるとすぐに漁師という仕事を捨ててイエス様に従いましたが、いつでも元の生活に戻って来ることが出来ました。事実、イエス様が亡くなられたあと、彼らは再び漁師の生活に戻っています。マタイの場合、公務員です。退職したあとで、同じところに再び戻ってくることはちょっと考えられません。だからマタイは、二度とここには戻らないという決意でイエス様に従ったのでありました。

主イエスは足をとめ、マタイに呼びかけられます。「わたしに従いなさい」と。実はこのことは、教会の礼拝の中でいつも行われていることなのです。もしも、そのことがわからないと、礼拝に出席する意味がずいぶんと少なくなってしまうでしょう。主イエスは今日も、私たち一人一人にじっと目をとめ、それぞれが持っている問題を受けとめ、みことばをもって立ち上がらせて下さいます。私たちはマタイとは違って仕事をやめる必要はないのですが、自分にとってもっともふさわしい道が主イエスによって準備されていることを信じて下さい。

 

それから宴会が始まりました。10節では「その家で食事をして」となっていて、そこがイエス様がふだん利用しておられる家かそれともマタイの家かはっきりしませんが、同じ出来事が記してある他の福音書を見ますと、マタイの家であることに間違いありません。マタイは自宅を開放して、主イエスと弟子たち、そして徴税人、また罪人と呼ばれる人を招待して、宴会を開きました。…ここで罪人というのは、カルヴァンによると悪い生活をし、評判の悪い人たちです。言葉が悪いのですが、ガラの悪い人たちでしょう。徴税人はふだんそのような人たちを遠ざけることがなかったとされています。

マタイは大盤振る舞いをしました。この宴会は主イエスに捧げられたものでした。マタイは自分を闇の中から光の中へと連れ出し、新しい人生の始まりと永遠の救いへと導いてくれた主イエスへの感謝の思いを精一杯そこに込めたのです。彼は、一切を捨てて主イエスに従ってゆこうとするときに同僚らを招いて、それをもって自分の壮行会としたのです。きっと自分の先生の主イエスを同僚らに紹介し、ぶどう酒を持って、どうか私のことをお祝いして下さいと言ってまわったのでしょう。

マタイにとってその日は、罪と汚れにまみれたそれまでの人生の総決算であると共に、希望に向かっての出発の日でもありました。そしてその喜びを、かつての自分と同じように神と人から見捨てられたように思われていた人々と分かちあおうと願ったのです。主イエスもそういうことならと、喜んで出席されたのでしょう。マタイが集めてきた人たちのその後はわかりませんが、イエス様と出会ったことが人生の大きなインパクトにならなかったはずはありません。

聖書には、自宅を開放して家庭集会を開いた人のことがたくさん出てきます。広島長束教会ではコロナの大流行以来、家庭集会を開いていませんが、これを近いうちに復活させたいし、その場にふだん教会に来ていない人もお招きしたいと思っています。

しかし、この楽しい宴会の最中に間に困ったことが始まりました。ファリサイ派の人々が、おそらくは外からこの様子を眺めて、自分たちがふだん軽蔑している人たちばかりなので、主イエスの弟子たちに文句を言ったのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。

このあたり、皆さんは神様に祝福された人々の楽しい宴会の最中に、人相が悪くて、堅苦しいファリサイ派の人々が文句を言ったように思っていませんか。そうだとすると、皆さんの心にはバイアスがかかっているのです。かりに私たちがその場にいたとしたら、イエス様ともあろう方がなんで人たちの中にいるんですか、と思ったかもしれません。…当時の社会でファリサイ派の人たちが紳士だとすると、宴会に集まっていたのはやくざな人たちばかりだったのです。

教会員の方なら、ファリサイ派というと悪役として有名ですから、彼らが言うことに賛同はなさらないでしょう。ただ、彼らの言い分は彼らなりに筋が通っていることは知っておいた方が良いと思います。

主イエスを批判した人たちは、徴税人も罪人も、汚れた人々と見なしていました。現代でも多くの国で差別ということがありますが、これが宗教と結びつくと非常に厄介なことになります。ファリサイ派の人たちの頭には、清さと汚れという二つの概念がありまして、神様は当然清い方におられ、自分たちも清さを追求することで神様と共にいると考えたのです。その時、徴税人や人々から後ろ指を指される人たち、その中にはごろつき、犯罪者、遊女、異邦人などがいますが、彼らは神様の前に汚れた人たちなのだから、彼らとはつきあってはいけない、まして一緒に食事するなどとんでもないとなっていたのです。このような考えは今お多くの人々の中にあります。

これに対して主イエスはまず「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました。このことを伝染病にたとえてみましょう。伝染病患者が出れば、その人は隔離されます。隔離された患者に同情して、その中に入ってゆこうとする人があれば、その人もまた感染してしまうでしょう。だから、誰でも彼でも病人とつきあうことは出来ません。こんな時、病人に近づくことの出来る資格を持つ人がいます。それが医者であり看護師です。…罪人に近づくことが出来るのも、そのような務めを持った人です。主イエスは汚れた人々と交わっても汚れない聖なる救い主として、罪人の中に入って下さいました。

主イエスは続けて旧約聖書のホセア書6章6節の言葉「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を引用しました。「あなたがたは自分は聖書に忠実だと思っているだろうけど聖書に何と書いてあるか。神を礼拝する時に大切なのは憐れみであって、いけにえのような形式ばかり重んじる心ではない。あなたがたは形ばかりを追いかけて神への忠実という大切な中身を忘れているが、その一方で徴税人らの方が、私を通して憐れみを取り戻しているではないか」と。……主は徴税人らとただ食事をするために来られたのではありません。この人たちを神様に忠実な民に生まれ変わらせるために来られたのです。

 

私たちはこの宴会に集まってきた人々のような、人々から爪はじきされていたり、悪い評判を立てられているような人間ではないと思います。教会は誰にでも開かれている場所ですから、どんな犯罪者が来てもかまいませんが、今ここにいる皆さんはそういうタイプではないでしょう。そうしますと今日のお話から何を受け取ることが出来るのか、それはイエス様と一緒に罪人の中に入ってゆくということでしょうか。もしもそのような道を選ぶよう召された人は、まっすぐその道を進んで下さい。しかし、すべての人にそのことが要求されているわけではありません。病人のもとに行くのが医者だとすれば、きちんとした訓練を受けていなければなりません。人は簡単にイエス様のまねが出来るものではありません。

しかし一方、私たちにはファリサイ派の人々と同じようになる危険が常にあるのです。自分はあの人たちとは違う、あんなこと自分はしないと考えて、他の人々を見下したり、差別したりする方向に進んでいく場合があります。そのような人にかぎって、イエス様に習って困難な仕事をしている人を見て、かげ口をたたくのです。たとえ法に抵触するようなことはしてないとしても、それは干からびた信仰でしかありません。

そのように聖書を読み解いてゆくうちに、主イエスの言葉の時代を超えた新しさが見えて来ないでしょうか。人間の目から見ると徴税人も罪人もファリサイ派の人々より罪が重いように見えます。しかし、イエス様の目にはどちらも罪人です。…それなら、イエス様に従って、過去を悔い改めようとする徴税人マタイは、自分のいる所に安住して前に踏みだそうとしないファリサイ派の人々より一歩も二歩も先んじていることになります。…私たちも偽りの清さにより頼むことなく、神のみ前で自分をかえりみ、自分の罪がどこにあるかを悟って、祈りつつ自分を変えていくことを求めたい、そのような人こそ神様に受け入れてもらえるのです。

今日はこのあと聖餐式があります。私たちは聖餐において、主イエスが私たちの罪の赦しのために肉を裂き、血を流して死んで下さったことを記念するのですが、それと同時に終わりの日にあずかる主の祝宴をあらかじめ告げるものであり、その原型は、主イエスが中心に立って徴税人や罪人と共に、マタイの再出発を祝っておおいに食べ、飲んで楽しまれた宴会にもあるのです。主イエスは私たちがどんな罪人であっても、この食卓に招き、共に席につかせて下さいますから、誰もが主イエスの招きに応えて、自分のいる場所から立ち上がって主イエスのもとに来ることが出来ますようにと願います。

 

(祈り)

愛と恵みに満てる神様。今日から9月の礼拝が始まります。私たちは今。前半生を徴税人として暗闇の中で生きたマタイがイエス様に召されて弟子となり、しかもマタイ福音書の成立のために大きな役割を果たしたことを思い、神様の力のいかに大きなことかと改めて思わせられます。どうかマタイの心に燃え上がった喜びの幾分の一であっても、この教会に下さいますようにお願いします。  

神様、私たちがそれぞれの生きる場所で、記憶から消してしまいたいような恥ずかしい過去と決別し、新たな思いで主イエスに従っていくことが出来ますように。また、たとえ自他共に認める立派な生活が出来ていたとしても、罪の縄目の中でもがいている同時代の人々に対する、憐れみの心を持つものとさせて下さい。いま日本も世界も、大きな傷と破れをかかえて悩み、苦しんでいますが、この国の平和が、そして世界の平和が、あなたのあわれみの中に根を下ろし、実現してゆきますようにと願います。

 

主イエス・キリストと共にある喜びと平安が、神様を見失った社会の中にもたらされますようにと心から願います。主のみ名によって、この祈りをみ前におささげします。アーメン。