エルサレムの包囲と解放

エルサレムの包囲と解放 イザヤ29124、ルカ194144 2023.8.27

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1356、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:532、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 今日取り上げたイザヤ書29章は「アリエルよ、アリエルよ」という言葉から始まっています。アリエルって何だろうということなんですが、すぐあとに「ダビデが陣を張った都よ」などと書いてあることから見て、これはエルサレムしかありません。アリエルとはエルサレムのことです。

 アリエルという言葉の意味についてですがいろいろな説があります。2節に「アリエルには嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉(アリエル)のようになる」と書いてあって、語呂合わせになっています。神様もしゃれを言われるんですね。ここから、アリエルの意味は「神の祭壇の炉」だという説が出てきましたが、ここらへんの議論は学者に任せて、エルサレムとはどんな都かというところから話を進めましょう。

 

 ヘブライ語ではエルサレムのエルは神を、サレムはシャロームのことですから平和を意味しています。だから名前からいっても平和の都でなければならないのですが、この都は有史以来、幾多の戦乱を見てきました。今もユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の聖地としてたいへんな緊張状態の中にあります。エルサレムは世界の中でも最も危険な都と言えるのではないでしょうか。今日のお話は、こうした歴史の展開を踏まえて読まなければならないと思います。

 聖書の中で初めてエルサレムが登場するのは創世記14章、そこにサレムの王、すなわちエルサレムの王で祭司であったメルキゼデクという人が出て来てアブラハムを祝福しています。次が創世記22章で、アブラハムが息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげようとした有名な話がありますが、その舞台であるモリヤの地というのはエルサレムの中にあって、今も残っています。

 紀元前11世紀にダビデ王はエルサレムをイスラエルの都に定め、その子ソロモン王はここに壮麗な神殿を建設しました。ソロモン王の死後、エルサレムは分裂国家の一つユダの都となりますが、ますます厳しさを増していく国際情勢の中にあって紀元前586年に陥落、神殿も破壊されてしまいます。住民はバビロンに連れて行かれ、約50年そこに留め置かれました。イエス・キリストが初め伝道したのはガリラヤの地ですが、ご自分の身に危険が迫っていることを知りつつエルサレムに向かい、そこで十字架につけられました。紀元70年、ローマ帝国の軍隊はエルサレムを制圧、ユダヤ人は世界中にちらばって行きました。その後、7世紀にイスラム教が起こってエルサレムがイスラム教徒のものになると今度は十字軍が進軍し…、やがて1948年にイスラエル国が建国されるというめまぐるしい流れになっています。私たちはそうした歴史の中で、エルサレムが幾多の戦乱に見舞われてきたこと、ここで主イエスが十字架にかかり、復活されたことをつかんでおきましょう。エルサレムはイスラエルの都であるばかりでなく、神の都でもあるのです。

 

 イザヤ書29章はまず、アリエルすなわちエルサレムが苦しみを受けることを予告しています。

エルサレムはかつて偉大なダビデ王によって都に定められました。ダビデがエルサレムをどれほど大切に思っていたかを示すエピソードがあります。十戒の石の板が入っている神の箱をこの都に運び入れた時、ダビデは力のかぎり踊ったと言うのです(Ⅱサムエル614)。ここに信仰の中心である神殿が建設され、当時の世界に輝く都となったのですが、…今や神様はこれを苦しめられます。「アリエルには嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉(アリエル)のようになる」。都は祭壇の炉のようになる、火に例えられる試練を受けるのです。…なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか。それは人々が、まことの神様から遠く離れてしまっていたためです。いつわりの神々とそれらがもたらす快楽と安心感に身も心も奪われてしまったのです。神様にしてみれば、これまでけんめいに育てあげてきたわが子の裏切りに直面するようなことですから、赦すこが出来ません。

 そこで、どうなったかというのが3節と4節、「わたしはお前を囲んで陣を張り、砦を築き、城壁を建てる。お前は倒されて地の下から語り、お前の言葉は塵の下から鈍く響く。亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ、お前の言葉は塵の下からかすかに響く。」

 分裂国家の一つユダは、超大国アッシリアの脅威の前におびえ、常に恐怖の中にありました。アッシリアの軍隊はユダの兄弟国家イスラエルを襲い、722年にこの国を攻め落としましたが、それで満足することなくユダをも虎視眈々と狙っていたのです。

701年、センナケリブ王に率いられたアッシリアの軍隊は、ユダの砦の町をすべて占領し、エルサレムを包囲しました。それこそ「亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ…」ということになってしまったのです。この時のユダの王ヒゼキヤはまことの神の前で正しい人でしたが、圧倒的な力を誇る敵軍に勝つことが出来ません。敵軍の将がやってきて、どの神が自分の国をわれわれアッシリアから救い出したか、お前たちが信仰している主が自分たちをわれわれから救い出すと言うのかと挑発し、ユダの方は地団太を踏むのですが、絶対絶命の時にあたってヒゼキヤ王は祈ります。「主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」(列王上1919)と。

そしてどうなったか、列王記下1935節にこう書いてあります。「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」。神はヒゼキヤ王の祈りを聞き入れて下さいました。これがイザヤ書の5節に書いてあることです。「群がる外敵は砂塵のようになり、群がる暴虐の者らは吹き去られるもみ殻のようになる。そのことは突然、瞬く間に起こる」。まことに驚くべきことが起こったのです。

 神はご自分の民であるイスラエルの背信に怒って、たびたび外国の軍隊をさしむけてこれを苦しめられました。しかし、それは永久にということではありません。神は怒りを抑えながらもご自分の民を愛し、ぎりぎりのところで顧みて下さったのです。

 7節はエルサレムの敵について語っています。「アリエルを群がって攻撃する国はすべて夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み、苦しめる者はすべて」。飢えた人、喉が渇いた人が夢で飲み食いしても、目覚めてみるとやはり空腹で喉がかわいたままであることには変わりありません。このように、神の都エルサレムを滅ぼそうとする勢力が襲来し、それがイスラエルの背信に怒って神がさしむけたものだとしても、神は最後にはこれらの勢力を無力化してエルサレムを救って下さる、このことが紀元前701年に起こった出来事で示されています。

 神はこのように、エルサレムの都を守って下さると言われますが、それでは外国の軍隊が来たら、いつでもこの都のために敵を滅ぼして下さるというのでしょうか。ただ、もしもそうだとしたら、エルサレムが陥落してしまうことはなかったはずです。紀元前586年、エルサレムは陥落して徹底的に破壊されてしまいました。神様が偉大な力を発揮して、エルサレムを守って下さる時もあれば、そうでない時もある、神様のみこころははかりがたいと言わなければなりません。

 

 エルサレムが陥落したあとバビロンに連れていかれた人々は、539年に帰国を許され、順次帰ってきました。やがて、時代が下り、イエス・キリストの登場となります。

 主イエスははじめガリラヤ地方で伝道されていましたが、それで満足されることはなく、危険を顧みずにエルサレムに向かいます。ルカ福音書の1333節以下でイエス様はエルサレムに対する思いを吐露しています。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」と。続いて「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」。

 この延長線上にルカ19章の出来事があります。エルサレムに近づき、都が見えたとき、主イエスは泣かれるのです。大の男が、それもイエス様が泣かれた、そこにはたいへんに重い意味がありそうです。

 イエス様の涙には、ご自分がエルサレムで十字架にかかり、殉教の死をとげられることへの言葉に尽くせない思いがあったことは間違いないでしょう。神の都エルサレムでイエス様は犠牲の小羊となります。すべての人の罪を背負って死なれるのですが、そうしなければイエス様が復活されることはありえません。福音はエルサレムから始まって、全世界に伝えられます。…ただ、ここで「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」とは何を予告しているのかということが問題になります。これはエルサレムがまことの神に対し不信仰であるために、ここで言われた災難が襲ってくるのだということでしょう。これが紀元70年のエルサレム陥落を指しているのか、さらに別の未来の出来事を指しているのか諸説ありますが、主イエスは愛する神の都エルサレムに迫ってくる災いを思って泣かれたのです。

なお42節に「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」と言われていることを皆さんは頭に置いておいて下さい。有史以来、幾度も戦乱に見舞われてきたエルサレム、そこには平和への道をわきまえていないということがあったのです。

 

イザヤ書に戻ります。都エルサレムはまことの神に背いたために神の罰を受け、アッシリアの軍隊に包囲されるという絶体絶命の危機に陥りましたが、神の憐みによって奇跡が起こり、かろうじてこの危機を脱することが出来ました、

9節以降に書いてあるのは、亡国の危機を招きよせた原因であると考えられます。酔っぱらっているがぶどう酒のせいではない、よろめいているが濃い酒のせいではない、これがエルサレムの人々の状況でした。ただ10節はその理由について「主はおまえたちに深い眠りの霊をそそぎ、お前たちの目である預言者の目を閉ざし、頭(かしら)である先見者を覆われた」と書いています。この書き方は非常にわかりにくいのですが、神様の恵みの導きが人々から取り去られた状況を指しています。

神様が診断なさった人々のありさまはこうです。「この民は、口ではわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」。…信仰が形ばかりになって内容がなくなってしまっているのです。…人間の愚かさには限りがありません。それなのに人間は神より知恵があると思っているのです。…ここに陶器とそれをつくった陶工がいるとします。陶工に作られたものである陶器が陶工に対して、あの人は自分の造り主ではないとか、分別がないとか言ったとしたら、皆さんはどう思いますか。…しかし、それと同じようなことが起きているのです。神様に造られた人間が、神様は自分の造り主ではないとか、神様は意地悪だとか不公平だとか言って叫んでいます。「神様に従うことはつまらない。なぜわれわれが神様の言葉を聞かなければならないのか」、そういう人が古代イスラエルはもとより、現代にもたくさんいて、神様の教えを聞いてもなんだこんなものはと笑って、投げ捨ててしまうのです。

しかし神様は、こざかしい人間たちをはるかに超えた知恵を持っておられます。14節、「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される」。この世で賢者とか聡明な者だと自他ともに思っている人が思いもつかないことを神様はなされます。その結果が17節以降に書かれている救済です。

今度は地理的にエルサレムに限定されていません。「なおしばらくの時がたてば、レバノンは再び園となり」、レバノンにまで広がっています。エルサレムが言葉の本当の意味で神の都となり、神の栄光がイスラエル民族の住む全地に及ぶということだと思われます。その日には「耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」と。エルサレムを中心にいつかこのような国が出来るのだと、まさにこれは神の国の実現です。ただその道筋は21世紀の今、どこまで見えて来ているでしょうか。

キリスト教の他教派の中にはこのことがまさに今、進行中であると考える人がいます。この人たちは1948年にイスラエルが建国したことを聖書の預言の実現であると考えます。たとえイスラエルを攻めてくる敵があっても神はこれを斥けたもう、そうしてまもなくイエス様が再臨され、エルサレムに来られると熱烈に待望しているのです。

しかし現実のイスラエルにそうしたことを見るのは正しいことでしょうか。皆さんご存じのように、イスラエルはパレスチナを初めとするアラブ諸国と厳しく対立し、しばしば武力衝突を起こしています。そうした中で、まもなくイエス様が再臨されると考えているキリスト教勢力は、今のイスラエル政府を積極的に支援し、そのパレスチナ政策についても支持し、軍事的な支援も良しとしているのです。エルサレムを攻めてくる国を神が滅ぼしてくれるとまで考えています。この動きが加速していった場合、エルサレムでユダヤ教・キリスト教勢力対イスラム教勢力の戦争が起きかねませんし、それは多くの国をも巻き込んで、世界大戦を引き起こしてしまうかもしれないのです。イエス様の涙は、こうしたことにも向けられていたのかもしれません。

どうか、そうならないために聖書をもう一度読みなおしてみましょう。イザヤ書は人々の不信仰がエルサレムの危機を招いたことを語っており、主イエスも「もしこの日にお前も平和への道をわきまえていたなら」と嘆いているのです。

まことの神様の前でへりくだりを欠いた信仰は意味がないと言わざるをえません。だから今のイスラエル政府を支持したり、支援することには危険が伴わないかどうか、慎重に考える必要があります。ではどうしたら良いのか、一つのヒントが主イエスの行動の中にあります。

エルサレムが昔からずっと戦乱に見舞われてきた都であることを主イエスがご存じでないはずはありません。その上でこの都に、ロバの子に乗って入って来られたのです。古来、王とか英雄は馬にまたがったり、戦車に乗って凱旋したものですが、そうした弱肉強食、強い者がすべてを手にしようとする世界の中で、主イエスは平和の乗り物であるロバの子に乗って来られました。戦乱の都エルサレムから発せられたこの平和のメッセージこそ、まことに厳しい国際情勢の中から想起して、現代に生きる教えとして受け取りたいと思います。

 

(祈り)

 神様、私はむかしエルサレムを訪れて、驚きました。エルサレムを囲む城壁の中に黄金の門というのがあって、かつてイエス様がそこからロバの子に乗って入って来られたのですが、イスラム教徒によって封鎖されていました。新しいメシアを入って来させないためだということです。

 この都は今もたいへんな緊張状態の中にあります。そこにはユダヤ教地区、キリスト教地区、イスラム教地区があって、何とか衝突を避けようとしているのですが、将来はわかりません。かりにエルサレムで戦争が起これば世界に波及してしまいます。しかし、エルサレムで真の平和が達成されたら、その恵みは世界に及ぶでしょう。そのことを心から望みます。どうか世界の教会が、聖書のメッセージを間違って受け取ることがありませんように。平和の君イエス・キリストこそが争い悩む世界をリードして下さるようにとお願いいたします。

 

この祈りをとうとき主イエスの御名によってみ前にお捧げします。アーメン。