平和の鳩を空に放つ

平和の鳩を空に放つ  創世記8章1~12、マタイ243639  2023.8.13

         

(順序)

前奏、招詞:詩編859、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:266、説教、祈り、讃美歌:531、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

ノアの箱舟はたいへん有名な話ですから、クリスチャンでない方でもだいたいのあらすじはご存じです。子供向けの物語かと思っている方も多いでしょう。しかし、じっくり読んでみると、これは決して一筋縄ではゆかない物語です。今日は大人のための、そして今に生きるノアの箱舟の話をいたします。

 

考古学の研究のため中近東で地下を掘っていくと、深い地層の中でノアの時代の大洪水の証拠が見つかるということです。またアメリカ大陸の先住民に大洪水の伝説があるところから、これは相当に広い範囲で起こった可能性が高いです。洪水はさすがに日本までは来なかったようですが。…これを体験した人々にとっては、それこそ世界の終わりのような出来事でありました。

この時以降、世界をおおうほどの大洪水は起こっていませんが、皆さんご存じのように、それでも洪水は脅威であり続けます。そして、それに加えて、戦争や伝染病の流行など世界の終わりを思わせることはたびたび起こりましたし、今も起こっています。

ノアの箱舟の話は人が安全地帯にいながら読むのと、命に関わる危険が迫っている時に読むのとでは受けとめ方がまるで違ってきます。あの第二次世界大戦のさ中、多くの人がこのままでは世界は滅びてしまうと思っていたでしょう。そうしてノアの箱舟の話を読み直し、迫り来る危険から逃れる知恵を何とかして見つけようとしていたはずです。このように危機の時代が来たり、あるいはそのことが予想される時代が来るたびに新たに読み直されるのがノアの箱舟の話なのです。

私たちのこの広島では、一週間前の8月6日、原爆の犠牲者を悼んで、式典やさまざまな集会、また灯篭流しが行われました。世界は今だに核廃絶に踏み切っていません。自国を守るためとかその他いろいろな理由をつけて核兵器を手離そうとしない国があり、また、今は核兵器を持っていないけれども将来は持ってやろうとしている国や人々がいるので核廃絶は本当に難しいのですが、広島はそれでも核なき世界を訴え続けています。そこには、もしも広島が訴えを取り下げて核兵器を認めてしまえば、人類はそれこそ核戦争によって滅びてしまうだろうという危機感があるからです。…毎年行われていることですが、今年の式典の中でもハトが空に放たれました。そこに私たちは大洪水を生きのびたノアと、核なき世界を目指す広島とのつながりを見ることが出来るでしょう。

 

聖書は、初め神が造られた世界はきわめて良かったと書いています(創世記131)。しかし、人間のせいで世界はだんだんと堕落した世界になって行きました。神は、地上に人の悪がはびこり、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になりました。神が願った美しい、完全な世界は今や見るかげもなくなろうとしています。神は人間を造ったことを後悔し、心を痛められました。それにしても神様が後悔し、心を痛められるというのはよくよくのことです。こうして神は人を地上からぬぐい去ろうと大洪水を起こされたのですが、それは神が腹立ちまぎれにやってしまったということではありません。…これは神の<悲しみ>であり<痛み>なのです。

しかし、神のさばきが迫っている時代の中にあって、なお神の恵みをかろうじて受けとめた人がいました。それがノアです。6章9節に「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と書いてあります。

神様を見失い、堕落する一方の世の中でノアのような人がいたのは奇跡に近いことです。ただ、ノアが完全無欠な人格者であったということではありません。ノアだけがこの世の罪に一切そまることなく過ごしたということではありません。そんなことは不可能です。けれどもノアには他の人と違ったことがありました。それは自分は神様なしで生きることが出来ない者であることを知っていたということです。だから神様と共に歩んだのです。…神はノアのように、神を必要としている人を滅ぼすようなことはなさいません。

神は箱舟を建造するようノアに命令しました。それは現代の単位に換算するとおおよそ長さが135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルにもなります。こんな大きなものを、しかも陸地の真ん中で建造せよと言うのです。ノアと家族にそれまで船大工の経験があったとは思えないので、それは想像を絶する労苦であったと言わなければなりません。ノアはすべて神の命じられたとおりにしましたが、まわりの人たちから見てこれほどばかばかしいことはありませんでした。

空が晴れわたって雲一つないとき、人間の目は洪水が起こることなど信じることは出来ません。けれども神が洪水を起こすと言われるなら、そう信じるのです。私たちは時代を見通す者となりましょう。私たちは断じてノアをあざ笑った人たちの中にいてはならないし、突然の大洪水で滅ぼされる者になってもいけないのです。

 

 ノアの一家と動物たちが箱舟に乗りこんで7日の後に洪水が起こりました。世間の人々はその時もまだ食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。ノアは人々に大洪水が起こるぞと警告していたはずです。だから箱舟が建造されている時は大切な悔い改めの期間だったのですが、そんなことをする人はだれ一人いませんでした。7章11節によると第二の月の17日から洪水が始まりました。一滴、また一滴と雨が降ってきます。そしてどしゃぶりとなり、嵐となります。しかし人々は、「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」(マタイ2439)のです。

 そうしますと7章16節で「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」と書いてあることが重要になってきます。洪水がいっさいのものを呑み込んで行った時、人々はやっと、陸地の真ん中で箱舟が建造されたことの意味を悟って、箱舟に殺到したにちがいありません。しかしもう遅すぎました。神様が戸を閉ざされた後だったからです。

 

 4040夜に及ぶ大洪水が始まりました。水が増えるにつれて箱舟はいよいよ高く浮き上がります。箱舟の中のノアと家族にとって、これが楽しい船旅であったはずはありません。それこそ生きた心地がしなかったはずです。嵐の中、狭い部屋の中で身を寄せ合い、必死にお祈りしている彼らの姿が目に浮かびませんか。…たとえ神様を侮り、悪事を重ねた人々であっても、その人たちの死にざまを見て、人間の罪の大きさと神の怒りのすさまじさにふれたノアは驚愕し、恐れおののいていたにちがいありません。ノアの目の前で世界は滅びたのです。こうしてノアに見えてきたのは、自分にも迫ってくる神の裁きのみ手でありました。

――いま自分はここにいて、あの人たちは水の中で死のうとしているが、自分とあの人たちといったいどれほど違うと言うのか。まかりまちがえば自分だってあの人たちの中にいた。そして神様がひとたび心変わりされたなら、この箱舟だってひとたまりもないのだ、と。…しかし神を信じる者には滅びから免れる道が用意されています。神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物とを心に留められました。やがて水が減り、第七の月の17日に箱舟はアララト山の上に止まりました。第十の月の1日に山々の頂が現れました。

それから40日後、ノアはようやく窓を開いて、からすを放しました。ノアは山々の頂が見えてから40日もただじっとしていたのです。どうしてそんなに長い間待っていたのでしょう。おそらく、大洪水という神のこれほどまでに恐ろしい裁きをまのあたりにして、恐怖と不安に打ちのめされ、何をする気持ちにもなれなかったのでしょう。でも、いつまでもそうしているわけにはいきません。ノアは重い腰を上げて窓を開け、まずからすを、続いてハトを放しましたが戻ってきました。まわり一帯、まだ水びたしだったのです。

 ノアは七日待ってもう一度ハトを放します。8章11節、「鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた」。オリーブは山の上に生える木ではなく、背の高い木でもないので、これは山岳地帯だけでなく平地からも水が引いたことを示しています。

 ハトを空に放つ、これは水がどれほど引いたかと共に、神様のお怒りがどれほど解けたかを確かめる行為でもありました。そこに神様のお赦しを求める思いがなかったはずはありません。「神様は人間を造られたことを後悔し、世界を滅ぼそうと大洪水を起こされましたが、どうかお怒りを解いて下さい、罪を赦して下さい、過ちはもう二度と繰り返しませんから」、このように祈っていただろうノアと家族が、ハトがオリーブの葉をくわえて戻ってきたのを見た時、どれほどの感動にうちふるえたことでしょうか。

 このように考えて行きますと、ハトがオリーブの葉によって伝えてきたメッセージの何と深いものだったのかと思うのです。それは神とこの世界との平和を伝えてきたのです。…ここから、ハトが平和の象徴となりました。神と人間の間が平和であるとき、人間と人間の間にも平和があります。人間が神をおろそかにした時、人間社会は乱れ、争いや戦争が起こるばかりか、自然界もたいへんな犠牲をこうむることになり、それが大洪水だったのですが、いま神のお怒りが解けたのです。

 ノアの時代の大洪水が人間の罪が呼び起こしたものだとすると、そのことは同じように戦争についても言えます。人間が神をないがしろにした時に戦争が起こりました。戦争は人間の罪が最も凶悪な形で現れたものですが、これを別の角度から見るとやはり神の怒りの現れとなるのです。78年前に終わったあの戦争の中でも、人々はやはりノアの時代の大洪水を思い出していたはずで、平和の象徴ハトの到来が待たれていました。だから戦争が終わったあとに造られた国際連合の旗は、世界地図のまわりにオリーブの葉をあしらったものとなっているのです。

 今も「神様、もうこれ以上お怒りにならないで下さい」と祈り続けた心が空にハトを放すのです。だから私たちは、広島で、長崎で、そして世界の各地から空に放たれたハトがオリーブの葉をくわえて帰ってくることを願わずにはいられません。

 

 信仰抜きの平和運動というのはちょっと考えられません。人類史上最初に原爆が投下された広島は、長崎と共に世界に向けて核廃絶を訴えていく使命を与えられていますが、今後もこれを続けていくために教会に与えられている役割というのは、人間たちの罪とたたかい、神様に対し、罪の赦しを求め続けていくということでありましょう。

 皆さんは、原水爆に関連していま広島で進行中のことをどう判断されますか。

 2017年に平和記念資料館にあった被爆人形が撤去されました。今年の2月、広島市の平和教育プログラムから「はだしのゲン」が削除されました。同時に核実験の死の灰を浴びた第五福竜丸について書かれたものも削除されました。しかし、これだけではありません。

現在、広島市の中学3年と高校1年の平和教育で使われている「8時15分」という教材は、こういうことを教えています。「原爆を落とした米国人を恨むな、平和の懸け橋になれ」、「アメリカが悪いのではなく戦争が悪い」、「人間の弱さが戦争につながる」、「どちらが悪いという考えは全く意味がない」。現在のところアメリカ政府は原爆投下が国際法違反だとは一切認めていませんし、謝罪もしていませんが、この状況下でこの教材は、原爆を落としたアメリカを赦そうという方向に子どもたちを導こうとするものです。もちろんキリスト教信仰から考えると罪の赦しは大切です。しかし加害者に悔い改めが期待できない状況で広島の子どもたちに罪の赦しを勧めることが正しいのかどうか、かなり難しい問題ではありますが考えてみて下さい。

私自身はむしろ10年ほど前に体験したことを思い出します。その年の8月6日、キリスト者平和の集いにアメリカから数人のグループが参加し、その場で「お赦しを、お赦しを」と原爆投下を謝罪する歌を歌い続けたのです。このような場を用意してこそ、はじめてアメリカを赦すことが出来るのではないでしょうか。

戦争について考えた時、自分一人がどんなに平和を願ってもどうしようもないと思ってしまうことがあります。しかし、あきらめてはなりません。なぜなら神様が私たちをあきらめていいないのですから。

私たちは時代が戦争に向かっていくことを決して望みませんが、たとえどれほど困難な時代が来ようとも、神が遣わされたイエス・キリストを信じぬいてゆく限り、どこかに進むべき道があることを信じましょう。ハトを空に放つように神様との平和を求める者たちの思いは決してむだになることはありません。…神はいつの日か、ついに戦いの世を滅ぼし、世界を、日本を、本当の平和へと導いて下さるのです。

 

(祈り)

恵み深い父なる神様。あなたがこの平和を祈念する礼拝におられることを信じます。毎年8月は平和を考える月、日本のほとんどすべての人たちと同じく、私たちも戦争を嫌い平和を望んでいます。しかし、平和はひとりでにやって来るものではありません。神様はいまノアの箱舟の話によって、時代を超えて永遠に変わらない真理を悟らせて下さいました。今は不安な時代です。私たちの前にもこの先どんなことが待ち構えているかわかりません。この国がいつまでも平和であることを望みますが、もしも間違った方向に進んでいったとしても、私たちがノアのように、神様によって確かなよりどころを与えられ、小さくとも平和をつくり出す人としての歩みをすることが出来ますようにと願います。

 

神様、どうか今ここで学んだことを役立て、私たちひとりひとりの心に届けられたオリーブの葉をいつくしみ、大きく育ててゆくことが出来るようにして下さい。神様からいただいた平和の福音を心にきざみ、他の人々との争いを避け、平和を追い求め、神様が造られた自然を大切にする毎日を今日から新しく始めさせて下さい。平和の君、イエス様を賛美します。主のみ名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。