あなたの罪は赦される

あなたの罪は赦される 詩編105:1~5、マタイ9:1~8  2023.8.6

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13523、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:56、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:269、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式 205)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

キリスト教に限らず、およそ宗教と呼ばれているものに人々が求めていることの中で特に大きなことは、何か自分にはない奇跡的な力が与えられますようにということではないでしょうか。たとえば、ある人が「試験に合格しますように」と祈っています。神様の力を借りなくても合格出来るのなら、わざわざそのことを祈る必要はないでしょう。自分の力だけではどうも合格できるかどうか不安なので神様に助けてもらおうとしたのです。

似たようなお祈りは他にもたくさんありますね。「いい人にめぐりあえますように」もそうだし、「交通安全」、「商売繁盛」もそうです。その中でも「病気を治して下さい」というのは、最も切実なものです。病気で悩む人の心に取り入って、「お祈りしたら、病気が治る」といった話を広めようとする宗教団体はひきもきりません。

今読んだ聖書の箇所も、病気治療の話にはちがいありません。でも皆さんは、イエス様が行われた他の病気治療の奇蹟の話と比べてもどこか違っていることに気がつかれましたか。ほかの宗教で伝えられている病気治療の話とはさらに大きな違いがあります。…というのは、どの宗教にも病気が治ったという話はあって、キリスト教も例外ではありませんが、しかしその時に、「あなたの罪は赦される」と言うことがほかにあるでしょうか。聖書の中でも、これはとても珍しいのです。

 

聖書には皆さんご存じのようにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。それぞれイエス・キリストのご生涯を描いたもので、同じ一つの事件がそれぞれの福音書に載っている場合も多いです。今日のお話はマルコにもルカにも出て来ます。

マタイ福音書では「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た」とだけ書いてありますが、マルコとルカは違います。人々が中風の人を運んできたものの、群衆にはばまれてイエス様のもとに連れてゆくことが出来ません。そこで屋根をはがして穴をあけ、病人を寝ている床も一緒につり降ろしたと書いてありまして、これでとても有名な話なのです。病人をイエス様に治してもらうために屋根をはがすこともあえてした、昔と今では家のつくりが明らかに違っていますが、それでも人をびっくりさせる話です。

ところがマタイ福音書には、病人を屋根からつり降ろした話は出てきません。すべて削除されてしまったのです。マタイにとって、福音書を書く時、そのことは本質的なことではなかったのでしょう。…同じ一つの出来事でも、角度を変えて見ると違ってきます。…マタイ福音書は読者を、屋根からつり下ろされた病人ではなく、まっすぐ主イエスの言葉に注意を向けさせます。主イエスは中風の人に言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」。

ここでイエス様はなぜ「あなたの罪は赦される」と言われたのでしょうか。…「病気を治してあげよう」と言われたのならわかりやすいのですが、なぜ罪のことを言われたのでしょうか。そこには、人間を本当に苦しめるものが何であるのかという問題があるのです。

 

ここで主イエスが罪のことを口にされたのは、病気と罪の間に深い関係があるからです。ただし、このことはよくよく気をつけて言わなければならないことです。私が神学校の学生のとき、今日のお話の場所が説教演習で取り上げられました。その時の説教学の担当は三瓶長寿先生で、先生は「病気の原因は罪である。人間が神から離れて罪に陥ったことが、神と人間の関係の破れを生み出し、病気をもたらしたのだ」と教えて下さり、学生たちは納得したのです。……ところがそれから幾日かたって、五十嵐喜和先生という方の授業の時に学生の誰かが「病気の原因は罪です」と発言したら、先生は怒り出して「それなら、病気で苦しんでいる人はみんな罪が深いのか」と言われるのです。それももっともな話で、もしも病気で苦しんでいる人に「あなたは罪が深いから、病気になったのです」と言ったとしたら、こんな残酷なことはありません。重い病気の人ほど罪が重いことになってしまうのです。病気と罪の関係は、このように大変デリケートな問題を含んでいます。

中風という言葉は今あまり使われませんが、脳血管障害の後遺症である半身不随、手足のしびれやまひ、言語障害などを指す病気です。主イエスは中風の人に向かって、まず「子よ」と呼びかけておられます。こういう言い方は今の日本ではありませんが、古代ユダヤでは預言者とか長老など指導的な人が自分の指導を受ける人にこう言って呼びかけたということです。この場合、それは病人に対して、深い理解と同情のこもった言い方です。

この人は、みんなが元気に働いている時も、たった一人ベッドの上で寝ていなければなりません。孤独でした。自分が誰からも必要とされていないかのように思う時があったはずです。そればかりでなく、自分は神からも捨てられているとまで、思いつめることもあったのではないでしょうか。この時代、明らかに間違ったことですが、重い病気になった人は、たくさんの罪を犯して神の罰を受けているのだと考えられていたようです。しかし主イエスにとっては、苦しんでいる人も、孤独な人も、みな神の子なのです。

この人の体はいま病んでいます。苦しんでいます。体だけではなく、心も苦しみ、悩みを背負って苦しんでいます。…ここで私たちは、やはり病気と罪の関係を問わなければなりません。…「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」、これはエレミヤ書17章9節の言葉です。大昔、神様が世界と人間を造られた時、それは素晴らしく良いもので、何の欠けもありませんでした。しかし、人間はその後、神様にそむきました。神から離れることが罪です。その結果、人の心も体も病み、むしばまれてしまいました。

ですから、病気を含む人間のあらゆる苦しみの根本的な原因は、人間の罪にあるのです。ただ皆さんには誤解されませんように。病気になった人が特に罪が深いということは絶対にありません。川上から毒を含んだ水を流したら川下の人が害を受けるように、他の人の罪の結果を、別な人がかぶって苦しみを引き受けるということが、この世の中にはことのほか多いのです。ですから、病気の原因を探っていくと罪に帰着しますが、それは個々の病人に責めを負わせるべきものではないのです。

はじめ神が人間を造られた当初、人はなぜ裸でいても恥ずかしいと思わなかったのでしょうか。人間は神様との完全な交わりのうちにあったからです。この時、神様の栄光の輝きが人間を満たし、神の愛が人間を清めていて、それが人間の衣服だったのです。しかし、神様との生きた交わりを捨てたとき、人は神様の栄光の輝きを失い、罪の思いに支配されるようになりました。人は衣服を身につけることで、醜い自分を隠さなければならなくなったのです。

神様との交わりを失う、それは嵐の海で母船と離れ離れになった小船のようなものです。そのような時、人は罪の力に翻弄され、不安と恐れに苦しむものになります。欲望に振り回され、嫉妬に狂い、憎しみに身を焼くかと思えば、逆にわれとわが身を傷つけたり、最悪の場合、自分の存在を消し去ってしまおうとさえします

私たちの内には《心の分裂と葛藤》があります。神に帰りたいという思いと神から逃れたいという思いの葛藤です。ガラテヤ書5章17節に書いてあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と。

神に帰りたい自分と神に逆らい逃げだそうとする自分、善いことをしたい心とそのような自分から逃げだそうとする心の葛藤と分裂……それが人間社会をおおっていて、自然界にも悪い影響を与え続けていますが、それらがまわりまわって、人間の心の深いところで病を起こし、体をむしばんでいるのです。

 

このような人間たちが真にいやされる道は何でしょう。それは善と悪、神様の悪魔の二つに分裂している自分が一つになることです。そこには究極的に二つの道があります。一つは身も心も神様から離れ、悪魔にひざまずく道です。ある無神論者が「良心の痛みなど訓練すれば克服できる」と語りました。そのような道を貫いてゆけば心の葛藤も分裂もなくなるはずですが、現実には不可能です。それはどんな悪人であっても、表面上は善人として振る舞っていなければなりませんし、神様がその人の心に良心の痛みを呼び起こし、そこから心の葛藤と分裂とが生まれ、いつまでたっても心の平安は与えられないからです。……それなら、もう一つの道、まことの神様に立ち帰る以外、道は残されていません。

そのことを聖書は「神との和解」と言っています(Ⅱコリ5:20)。人はまことの神に立ち返り、和解する以外、安らぎはありません。神様との和解の障害になっているものは何でしょう、《罪》です。まず私たちの罪の問題が解決されなければ、罪が除かれなければ、私たちは神に帰ることが出来ません。ただし、それは簡単なことではありません。

罪を除くのは簡単なことではありません。だから主イエスが「あなたの罪は赦される」と言った時、律法学者の中に「この男は神を冒瀆している」と言う人がいたのももっともな話です。神のほか、それが出来る人はいないのです。この人は知らなかったのですが、主イエスご自身、神であられたのです。

「あなたの罪は赦される」、ここでは中風の人の罪が軽かったから赦されるのだと思われることが多いのですが、しかし、かりにこの人が重罪を犯していたとしても罪の赦しが取り消されることはありません。その人の罪の重さ軽さとは関係ありません。父なる神はイエス・キリストを、人間たちの間から罪を除くためにこの世に遣わして下さいました。イエス様はそのために来て下さり、そのために十字架につかれて死んで下さったのです。イエス様がご自分の命をかけて、中風の人の罪を赦して下さったのです。

 

そのとき主イエスは言われました。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。…一見「罪は赦される」と言う方がやさしいように思えます。その結果は目に見えないからです。「起きて歩け」と言った場合は、実際に病人が歩いてみないとその言葉の力が実証されません。本当は「罪は赦される」と言う方がはるかに難しいのですが……。しかし主イエスは、ご自分がまさに神であり、罪を赦す権威を持っていることを証明するために「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命令されました。病人はただちに起き上がり、ベッドをかついで出てゆきました。

 

現代人の多くは罪が赦されようが赦されまいがどうでもよく、体が元気であれば良いと思っています。しかし、イエス・キリストによって罪を赦していただくというのは、肉体の健康よりはるかに大事なことです。心の健康があって初めて肉体の健康が意味を持つのですから。

いまの時代、多くの人が主イエスの罪の赦しの福音を小耳にはさんだまま通りすぎていきます。…主イエスの言葉を信じるか信じないかは自由です。しかし、これによって人は神のみ前に救われるかどうかが決定されます。そこには永遠のいのちがかかっているのです。

中風の人は、ルカ福音書によると、神を賛美しながら家に帰って行ったということです。この人は主イエスの言葉を信じて、立ち上がったのです。「あなたの罪は赦される」ということは事実となったのです。

皆さんはどうなさいますか。もちろん、ここにはすでに主イエスを信じて、洗礼を受けた人が多いのですが、良いことは何回やっても良いのです。改めて、「主よ、信じます。私をあなたのしもべとして立ち上がらせて下さい」と申し上げようではありませんか。

 

(祈り)

教会のかしらであり、天にいます父なる神様。今、世界各地の教会で礼拝が守られています。私たちもこれに連なっていることを覚え、御名を賛美いたします。

神様が御子イエス・キリストを通して、世界の人々と私たちを救って下さる方法は、罪の赦しを通してです。不信仰な人間は、神様はどうして戦争を止めて下さらないのかとか、なぜひと思いに自分の病気を直してくれないのかなどとつぶやきます。自分の悪い点は棚にあげて、神様に不平不満をぶつけるのです。何とごうまんなことでしょう。そうしている間にも、神様は教会を通して、その尊いみ言葉を伝えていくことによって一歩一歩、人間をむしばむ罪とたたかって勝利して下さいます。心より感謝申し上げます。

キリストによる罪の赦しの宣言は、だから安心して罪を犯せということではありません。私たちは断じて、そのような間違った受け取り方はしないことを誓います。罪を赦された者は、罪を赦して下さった主のあとを追って生きるようになるのです。人生山あり谷ありですが、こうして本当の意味で喜びと感謝に満ちた人生が呈示されました。私たちがこの道を進んで行けますように。

ただ多くの人たちは福音から遠ざかり、私たちだけがこの恵みにあずかるのはもったいなく思います。どうか一人でも多くの人と共この幸いを分かちあうことが出来ますよう、私たちの上に神様をたたえる言葉を与えて下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によって、み前におささげします。アーメン。