人間の偽りと神の真実

人間の偽りと神の真実  詩編516、ロマ314  2023.7.23

 

 いま長老に読んで頂いたローマの信徒への手紙の箇所がすっと頭に入った人がこの中にどれほどいるでしょうか。今日は、難解でもって知られるロマ書の、その中でも難解なところを取り上げています。文章が難しいばかりでなく、そこで説かれているのがユダヤ人と異邦人に関することで、自分となんの関わりがあるのかと思われた方がいるかもしれませんが、最後まで聞いて下さい。

 (世界の歴史の中でユダヤ人というのは特別な地位を占めています。というのは神が世界の諸民族の中からただ一つ、この民族をご自分の民として選んで下さったからです。神はユダヤ人に律法、平たく言えば神の戒めを与えました。また男性に対して割礼をするよう命じられました。こうしたことが書かれているのが旧約聖書です。…新約聖書はイエス・キリストを中心に書かれていますが、イエス様も、この手紙を書いたパウロもユダヤ人です。しかしユダヤ人の多くはイエス様を救い主と認めないまま、今日に至っているのです。…なお教会でユダヤ人のことをお話しするということは、教会が今のイスラエルという国を支持するということではありません。今イスラエル政府が行っていることについては、教会の中でもさまざまな意見があるということを念のため申し上げておきます。

 

それではこの手紙の1章と2章を短く振り返ってみます。(作者の)パウロは、ユダヤ人も異邦人も神様の前には同じ罪人(つみびと)であるということをしつこいほどに語ってきました。…ユダヤ人にとって自分たちが神様から特別に選ばれた民であるということほど晴れがましいことはありません。そして、それが晴れがましいことであればあるだけ、自分たち以外の人々を見下すことが普通になっていたのです。異邦人、すなわちユダヤ人以外の全ての民族を神様から棄てられた人々と見なしていたのです。…パウロはこれに対し、一方で異邦人が陥っている罪を列挙して断罪すると共に、ユダヤ人が陥っている罪をも暴いていったのです。

自分が属している民族のことを非難されて喜ぶ人はいません。パウロが書き送ったことを聞いて、ローマの教会に集まっていた異邦人は面白くなかったと思いますが、誇り高いユダヤ人にとってはさらに衝撃的なことであったでしょう。腸(はらわた)が煮えくりかえる思いでいた人もいたでしょう。

今ここにいる私たちもユダヤ人から見たら異邦人です。ここで異邦人と共にユダヤ人が問題になっているということを、私たちも異邦人に属する者として、注視していきましょう。

 

パウロは3章1節で「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」と問いかけています。なぜ、この問いかけがなされたと思いますか。パウロはそのすぐ前で、ユダヤ人のことをさんざんこきおろしているからです。…2章28節をご覧下さい、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」

こんなことを言われてユダヤ人が黙ったままでいると思いますか。かりに自分が生粋の日本人だということを誇りにしていた人に向かって、「え、あなたは日本人なんですか」なんて言ったら怒られるのと一緒です。

 パウロが、神の前ではユダヤ人も異邦人も何の違いもないと主張するのに対し、ユダヤ人ならこう言って反論すると思うのです。「あんたはわれわれユダヤ人が大切に守ってきたプライドを粉々に打ち砕いて、ユダヤ人も異邦人も何の違いもないと言っているが、それでは神様がわれわれユダヤ人を選んで律法を与え、また割礼を施された事実をどう思っているのか。われわれがユダヤ人であり、律法を持ち、割礼を受けていることが神様の前に何の意味もないと言うのか」と。

 パウロはこうした反論が出ることを初めから想定して書いているのです。ユダヤ人が最も誇りに思っていることと言うのは、繰り返しますが自分たちに律法が与えられたことと割礼が施されていることで、この二つがユダヤ人を他の民族と区別しています。それなのに、ユダヤ人も異邦人も、神の前に何の違いもないとするなら、この二つのことはいったいどうなってしまうのかということになりますね。

「ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」、ユダヤ人から寄せられるだろうこの問いに対する答えが、かりに「ユダヤ人に優れた点など何もない、割礼の利益も何もない」だったとしたら、ユダヤ人が怒り心頭になるのは必定です。しかしパウロはそのようにはせず、また、これがあるためにユダヤ人は異邦人に優越するといったユダヤ人が喜ぶ答えも用意しません。そうして第三の答えを提示するのです。

「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」。パウロはここで、ユダヤ人が神に選ばれた特別な民であることを認めています。何と言っても異邦人とは違うのです。しかし、その中心にあるのは「神の言葉をゆだねられた」ということ、そんなことはどこを探しても他の民族にはないのです。ですから、神の言葉をゆだねられたことこそユダヤ人と異邦人との決定的な違いであり、これがユダヤ人に与えられた特別な恵みなのです。

 神の言葉がゆだねられたということは、旧約聖書そのものが証ししています。ユダヤ人には十戒を中心とする律法が与えられました。預言者を通して、神の言葉が伝えられました。そうして割礼というしるしが与えられました。神の言葉をゆだねられたとは、神の言葉を受け取り、それによって神に導かれてきたということです。神の言葉によって導かれたのがイスラエル民族、すなわちユダヤ人の歴史でありました。

 それでは、これほどの恵みを受けたユダヤ人は、その恵みにふさわしい歩みをしてきたでしょうか。それが、そうではなかったのです。荒れ野の40年の旅の途中、人々は幾度となく神に逆らって神を怒らせましたが、そのようなことが時代が変わっても繰り返されてきました。「神の言葉をゆだねられた」、ゆだねられたという言葉には信頼して任せるという意味があります。神が本当に願っておられたのは、このユダヤ人を通して神の教えが世界に輝くことです。…旧約聖書には神が預言者ヨナを異邦人の都に遣わされた話が載っています。神は異邦人を滅びに定めていたのではありません。ユダヤ人を通して異邦人をも救いに導こうとされていたのですが、肝心のユダヤ人がそのことを理解しようとしません。…神の言葉を世界に拡げようとはせず、かえって神の言葉が与えられたことでもって自分たちが特権を与えられたかのように見なし、異邦人を見下していた、それは神の栄光を泥靴で踏みにじるに等しいことなのです。パウロはユダヤ人が神の恵みに応えていない罪を指摘しているのです。

 こうして3節に入りますが、ここも難しいです。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者がいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」。これはユダヤ人から来るだろう、想定された反論です。

 ユダヤ人はこう言うのです。「確かにあんたの言う通り、我々ユダヤ人には神の言葉に誠実に応答出来なかった歴史があった。そのことは認める。しかしだからといって、我々を選び、ご自分の民として下さった神様の約束は無効にはなっていないはずだ。神様はどこまでも誠実な方なのだから。…神は我々をご自分の民として下さったのだ。神がこれを破棄されるはずはない。だから我々ユダヤ人と異邦人が同じだということはありえない」。

 このユダヤ人の主張は、男女の関係にたとえてみれば、その一方が相手を裏切り続けながら、相手に向かって自分に対して誠実でいなさいと求めるのによく似ています。ユダヤ人はパウロの主張をある程度、認めてはいるのです。自分たちは長い歴史の中で、神様の言葉に正しく応えることをせず、神様を裏切る罪を犯してしまった、そのことは認める。しかし、だからと言って、神様が自分たちを見捨てるとしたらおかしい。自分たちが神様を裏切ってしまったとしても、神様は自分たちを救ってくれなきゃいけない、それが神様がなさるべきことではないか。そうでないと「神の誠実が無にされる」、神様が神様でなくなってしまうではないですか、と。

 皆さんはこれがたいへん身勝手な主張であるのがおわかりになったでしょうか。しかしこんなことは、昔のユダヤ人ばかりでなく、私たちの間にも起こり得ることなのです。…自分が悪いことをし、罪を犯して神様からの信頼を踏みにじっておきながら、そのことを棚に上げてしまって、神様は自分を助けてくれるべきだと思っている。そして、神様が自分の願いをかなえてくれないとすぐに不平不満を言って、こんな神様など信じてやるもんか、と言うのです。…自分は神様を裏切っておきながら、神様は自分に対して誠実であるべきだというのがユダヤ人のパウロへの反論で、この期に及んでも、神様がユダヤ人に与えた特権的地位はそのまま維持されるべきだというものだったのです。

 

それではパウロは、これに対し、どのような反論を準備したのでしょうか。パウロは言います。「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と。

 これは、神が選んで下さった者たちの中に不誠実な者がいたとしても、それによって神が誠実であるということを否定するものではない。神はご自分のなさった約束をどこまでも誠実に守り、実行して下さるのだから、ユダヤ人が神に選ばれた民であるということがユダヤ人の裏切りによって破棄されてしまうことはない、と言うことです。…これは、ユダヤ人が自分たちの罪を棚上げにして、開き直った弁明と同じことなのです。

ユダヤ人は、パウロがユダヤ人と異邦人を両方とも神の前に罪を犯しているということで同列に並べるのを見て、では神は我々をもはや神の民と見なさないのかと言ったのですが、パウロはまずこれを否定しています。神は決してユダヤ人を見捨てられたのではない、と。…この点は私たちもしっかり踏まえておかなければならないところです。欧米のキリスト教世界の歴史の中には、ユダヤ人を神の選びからはずされた民、呪われた民とする見方が多くありました。キリストを殺したのはユダヤ人ではないかと言って、ユダヤ人への迫害が正当化され、それはナチス・ドイツによるユダヤ人600万人の虐殺にまで至りました。しかしパウロを注意深く読んでいけば、そこにユダヤ人への迫害を認める言葉はひとつもないことがわかります。

 ここでユダヤ人も、パウロも、両方ともかろうじて一致していることは、ユダヤ人が神に対してどれほど不誠実であっても神が誠実な方であることは変わらないということです。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」しかし、それは人間の偽りや不誠実を神が許容なさっているということではありません。パウロがここからどのように論理を展開していくのかを見てみましょう。

 

 ここでご参考までに詩編89篇を見てみましょう。そこには紀元前10世紀に神がダビデとその子孫に与えた言葉が書いてあります。21節、「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」、これは神がダビデを選んでイスラエルの王として立てたことです。次が26節、「わたしは彼の手を海にまで届かせ、彼の右の手を大河にまで届かせる」、神がダビデ王を支え、力を与えるのでイスラエルの国は栄えます。こうして神は30節で「わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える」と約束して下さったのです。

 しかしその後に、裏切りが起こります。31節、「しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て、わたしの裁きによって歩まず、わたしの掟を破り、わたしの戒めを守らないならば、彼らの背きに対しては杖を、悪に対しては疫病を罰として下す」。このことが実際に起こりました。

 けれども神はダビデに対して行った約束を破ることはなさいません。34節、「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない。」と。

 このことを頭に置いた上で、パウロが引用している言葉を読みましょう。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」とあります。これは詩編51篇6節の後半の引用で、そこではこうなっています。「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。翻訳の違いが文章の違いとなっているのですが、今日はふれません。

 この詩編51編は、先ほどのダビデ王が作りました。ダビデ王は人妻であるバト・シェバと通じ、その夫ウリヤを死なせてしまうという大罪を犯してしまいますが、そのことを預言者によって指摘された時に歌った悔い改めの歌がこれです。

ダビデはこの歌を通して、自分が罪を犯したことを認め、自分に罪を宣告する神の裁きに間違いはありません、と言っています。しかし、神が自分を選んで下さったことは自分の罪によって無になることはないのだから、神は自分を救ってくれるはずだ、などと開き直ることはしません。人間は間違っても、神様は常に正しいのです。ただ、そこで言う神の正しさを、開き直って、自分の罪を棚上げにして責任逃れをするために用いようとはしません。ダビデは、神様を裏切ってしまった自分が罰を受けるのは当然だけれども、神様がご自分の約束にどこまでも誠実であって下さるとするなら、それは神様が自分に罪の赦しを与えて下さることしかありえないと、そこでひたすら罪を悔い改め、神様のお赦しを求めているのです。

皆さん、おわかりになったでしょうか。パウロはダビデ王の詩を引用することによって、神はどこまでも正しいということを言いながら、それをユダヤ人のように自分の罪から責任逃れをすることに用いるべきではなく、ダビデ王のように神様の前にひたすらこうべをたれて、自分の罪を悔い改めるべきだということを教えているのです。

 

神様はどこまでも正しく、人間こそが神様を裏切っているのです。そのことは、ここに出て来るユダヤ人に限りません。熱心なクリスチャンも、信仰のことなど何も考えたことのない人と同じように、罪を犯すことがあります。そして、その責任を神様になすりつけようとするのです。神様だったら、こんな自分を救うべきではないか!世の中にこんな不条理なことがあることを知って、神様が信じられなくなった、等々。

しかし、もう一度言います。神様はどこまでも正しい。正しくないのは人間の方です。そんな人間の中に神様はイエス様を遣わして下さいました。神様が私たちを罪から救おうとなさっているのは絶対に確かです。ならば私たちも自分が絶対正しいと言い張ったり、神様に不満をぶつけるのではなく、ダビデ王がしたように神様の前にこうべをたれて、私たちに罪の赦しを与え、私たちを救って下さることを真剣に祈り求めるべきなのです。

 

(祈り)

神様。あなたは世界の諸民族の中からただ一つ、ユダヤ人を神の民として選び、彼らを通して世界の人々を救おうとなさいました。しかし彼らは自分たちが神様の前で特権的な地位を得ていたかのように考えて、神様の期待を裏切ってしまいました。

 ユダヤ人はその後、世界中に散らばり、迫害を受けながらも1948年にイスラエルを建国しましたが、その地は今なおたいへんな緊張の中にあります。中近東が平和にならなければ世界の平和はありません。ユダヤ人がそのことに大きな責任を負っているのは確かですが、日本人を含む異邦人も無罪というわけいはいきません。

 神様、むかしパウロが教えたように、神様はどこまでも正しく、悪いのは人間の方です。どうか私たちの中からも、人間の罪の責任を神様になすりつけて自分は正しいのだと言い張るような思いがあったら取り除いて下さい。神様に罪の赦しをこいねがい、神様から赦して頂かなければ、だれも神様の前に立つことは出来ないからです。

 神様、罪からの救いの道を語り伝えるすべてのキリスト教会を支え、知恵と力を与えて下さい。この祈りをとうとき主イエスの御名によって、み前にお捧げします。アーメン。

 

主の御名によって、この祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン。