時にかなった神の御業

時にかなった神の御業 イザヤ291329、ヨハネ43138 2023.7.30

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1351、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:55、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-59、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 信仰というのは現実にこの世の中で起こっていることとは関係のない、信者の心の中だけの世界なのでしょうか。それとも、まさに世の中で起こっていることと積極的に関わるべきことなのでしょうか。

 これはキリスト教会の中で、また信仰者の間で、昔からずっと議論されてきたことですが、その中でも特に信仰と政治との関係がよく問題となります。かなり多くの人が「信仰と政治はまったく関係ない」と言い切ります。その立場に立つ人たちがよく持ち出してくるのは、イエス・キリストが何か政治的なことを言ったり、行ったりしたのかということです。群衆がイエス様と出会って感嘆し、イエス様を王にしようとしたことがありましたが、そうした企てはイエス様自身によってすべて退けられています。イスカリオテのユダがイエス様を裏切った理由として、イエス様をのっぴきならないところに追い込み、政治的指導者として立ち上がらざるをえないようにしようとしたという説が有力ですが、その説が正しいかどうかはともかく、主イエスはどんな場合でも自分が政治的な指導者として権力をふるうことを望まれず、かえって十字架というもっとも恐ろしい刑を引き受けられたことを見る時、この方を救い主として掲げる教会がどこかの政治団体と同じように、政治活動に邁進するということは考えられません。

 しかしそのことは、教会は世の中がどうなろうが、それこそ戦争のただ中にあっても、われ関せず、礼拝を行い、み言葉を語っておれば良いということではありません。おそらく、ひたすら聖書の説き明かしだけに終始しているように見える教会であっても、そこから発せられるみ言葉そのものが現実の世界に働きかけ、社会を、そして政治をも変えようとしているのです。

 熱心な信者でもつい勘違いしてしまうことがあります。一つは聖書が語っていることを心の中におさめ、遠く離れた大昔の出来事に留めてしまうことです。そしてもう一つが、信仰生活をすることが、ひたすら自分の内面をみがくこと向かっていて、それはもちろん大切なことですが、自分の外の世界に向かって積極的に働きかけることがないという場合です。礼拝をかかさず熱心に守る、少しでも時間があれば祈りに励む、身近な隣人への愛を実践する、そのことがこの地上においてキリストを現わし、人々がその人を見て神を賛美するならそれは素晴らしいことですが、ただだからといって、世の中がどうなろうが自分は関係ないということではないはずです。急激な社会変革に走らずとも、キリストにならう愛のわざは少しずつではあっても世の中を変えていくものなのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは偉大な人物ではありましたが、この世界には信仰の領域と政治の領域が別々に存在していると唱えたことで、その考え方が果たして正しいのかどうか議論されるようになってきています。というのはドイツにあるルター派の教会、ルーテル教会がもちろん熱心に礼拝を行い、伝道に努めていたのでしょうが、ナチスが出現した時、ごく一部を除き、なすすべもなくその悪魔的な力に引きずられ、それどころか積極的に協力するようになってしまったからです。政治に関わらないことをモットーとしていた教会はヒトラーに抵抗できなかったばかりでなく、かえってヒトラーを支えるようになってしまったのです。その結果どうなったか、1945年にドイツが敗北した時、ヒトラーに協力した牧師が多数、自殺したと言われています。

 難しい話はこれくらいにして、聖書が信仰と政治の関係についてどのように教えているかを考える時に見て頂きたいのがイザヤ書です。イザヤ書を少しでも読んでみればわかる通り、そこにあるみ言葉は、決して平穏な境遇にいる人々に与えられたのではありません。ダビデ王とソロモン王によって当時の世界に輝いたイスラエルの栄光はすでに失われ、わずかに残ったユダの人々がしのびよる超大国の脅威の前に、消えてしまいそうな状態に陥っていますが、神様からその国のあらゆる人々に与えられた言葉がそこにあるのです。

この時代、ユダの国の人々にとって、どうしたら国を守れるのか、どの国と手を組んでこの危機を切り抜けるのか、自分たちが頼るのはどの神なのかといったことが一番の問題になっていますから、心の平安ということよりむしろ政治こそがたいへんな関心事でした。神の言葉もそのところに向けられています。だから政治問題抜きでイザヤ書を読むことは出来ませんし、そこから私たち自身の政治に対する態度も問われているのです。ですから私たちも、イザヤ書に書かれてあることをただ大昔の歴史を学ぶということに終わらせず、この中から、戦争が続き、戦争の危機がささやかれる今の世界と日本において、自分たちがどう生きるべきかということの手がかりを見いだしていきたいと思うのです。

 

イザヤ書の28章の預言は紀元前8世紀になされたと考えられています。イスラエルの国は北と南の二つの国に分裂していましたが、北のイスラエルは紀元前722年に超大国アッシリアによって滅ぼされ、住民はアッシリアに連れ去られたまま戻ってきませんでした。あとに残ったユダの国は日本の四国ほどの面積しかない小さな国でアッシリアによっていつ滅ぼされるかわからない、まさに亡国の危機のただ中にあったのです。

 ユダの国が生き馬の目を抜くような世界で生き抜くためにはどうしたら良いのでしょうか。この国がアッシリアに対抗できるほどの経済力と軍事力を打ち立てることは到底無理です。しかし、だからといって、アッシリアの前にひざまづくことも出来ません。みんな、アッシリアが兄弟国イスラエルにしたことを見ていましたから降伏などとてものめる話ではありません。

 では、この国の人々はどうしていたのか。28章7節を見て下さい、「彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき、濃い酒のゆえに迷う」。酒に溺れていたのです。祭司も預言者も酔っ払っているので、大事な裁きをしなければならない時もアルコールの支配下にあったのです。そして、そういう人々にイザヤが警告しようとすると、お前の言うことは子供だましに等しいことだと言うのです。

ユダの国が亡国の危機にある中、一番大切なことはまことの神に立ち返ることなのですが、彼らは神様など頼りにならないと思っています。もはやあきらめの境地にいたのですが、それでも彼らなりに考えていたことがありました。

 ユダの国で指導的地位にあった彼らは言いました。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」

死と契約を結び、陰府と協定している! 本当にこの通りのことを言ったのかはっきりしませんが、確かなことは彼らがまことの神を棄て、それとは違う別の力に頼ったということです。歴史の上では、それは隣の大国エジプトと政治的・軍事的な同盟関係を結んだことを指しています。アッシリアが虎視眈々と狙っている状況で国を守るにはどうしたら良いのか、彼らはイザヤの、神に立ち帰れという警告を無視して、エジプトとの同盟を選んだのです。そうすれば「洪水がみなぎり溢れても」、水害のことを言っているのではありません。アッシリアが攻めてきたとしても大丈夫、いざという時にはエジプトが守ってくれるから、と考えたのです。しかし、それはむなしい夢、それどころかこの国を奈落に突き落とすに等しいことであったということが、のちに判明することになります。

そのような国に対し、神から与えられた言葉がこれです。16節、「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」

神が据えると言われる石とはイエス・キリストをおいて他にありません。ますます厳しさを増す国際情勢の中で右往左往し、こちらの大国に攻められたら、あちらの大国につこうということばかり考えている人々に向かって神は、ご自分こそ世界の主であって、歴史に介入されることを告げられました。それがイエス・キリスト、救い主の到来なのです。お前たちはアッシリアに降伏することでもエジプトに頼るのでもなく、まず救い主を与えるという私の言葉に信頼すべきであると言われたことになります。

しかし、これほどの言葉が与えられたにもかかわらずなお、神を軽んじ、大国との同盟にばかり心を傾ける人々がいます。神は彼らが死と結んだ契約は取り消されると言います。そして彼らが、我々には及ばないと豪語した洪水、すなわち敵軍を向けさせるのです。

20節、「寝床は短くて身を伸ばすことができず、覆いは狭くて身を覆うことができない」。誰もこんなところで寝たいとはおもいません。「主はペラツィム山(やま)のときのように立ち上がり、ギブオンの谷のときのように憤られる」。これはかつてダビデ王が神のお支えのもと、ペリシテ人に打ち勝った戦いの時のことです。神が自分たちと共にいて支えて下さるならどんなに力強いことか、しかし神が自分たちを敵として立ち向かって来られたとしたら……。いま神様のことを嘲笑い、「我々は死と契約を結び、陰府と協定している」と豪語する人々を神は決して赦されないのです。

 

そうして神は22節以降で、改めてユダの人々に呼びかけられます。突然、農業の話になっているので意表を突かれるのですが、考えてみれば聖書の中で神様がご自分の仕事を農業にたとえたところはいくつもあります。その一つとして見て頂ければと思います。

農民はまず、固い土を掘り起こします。それは種を蒔くためです。種は当然のことながら収穫を期待して蒔かれます。

この地の農民は、畑の表面を平らにしたなら、まずいのんどとクミンの種を蒔きます。いのんどもクミンもセリ科に属し、香辛料として用いられたり、パンを焼くときの香りづけに用いられたりする植物です。いのんどはディルという名前で、クミンと共に日本でも買うことが出来ます。これらは一度根を下ろすと大変に強い植物で、しかもたくさんの収穫を期待できたので、注意しながら植える必要はありません。細かい配慮なんかいりません。種を適当にばら蒔いておけば良いのです。

農民はそのように、簡単に収穫できるものから順に種を蒔きます。次に、食料としてなくてはならないもの、もっと価値があり、しかも配慮を必要とする小麦を、畝を作り上げてから植えます。より収穫の少ない大麦は、特定の定められた場所に植えます。裸麦はさらに収穫の少ない植物で、畑の端に植えます。この聖書では小麦も大麦も裸麦も「蒔く」と書いてありますが「植える」という訳の方が良いでしょう。つまりいのんどやクミンの場合は、蒔き散らすと書いてあるように、適当にパッパパッパと蒔くだけで良いのですが、小麦・大麦・裸麦の場合、そんな適当なことは出来ません。それぞれの規則に従い、注意を払いながら植えるのです。つまり何を言いたいかというと、神様にとってイスラエルの民はいのんどやクミンのたぐいではありません。彼らは価値あるものですから、神様は農民が麦を植えるように大切に扱います。そして豊かな収穫があることを期待して、育てるのです。そのことが「神はふさわしい仕方を彼に示し、教えられる」ということです。

神の配剤と導きの下になされた種蒔きの作業が終わると、やがて期待された収穫の時を迎えます。私は麦の収穫作業を体験したことがないのでよくわからないところがあるのですが、ここにあるのは、この時代にあってはどんな人でもわかるたとえ話でありました。

農民は、収穫されたものを打穀して食用に適うものとしなければなりません。いのんどやクミンはその実が壊れやすいために、打穀機で打ったり、打穀車を引き回すことはしません。いのんどは棒で打ち、クミンは杖で打って打穀するということです。

しかし、種を植える時に慎重に扱われた麦のたぐいは棒や杖で打つことはしません。そんなことで打穀は出来ません。穂先をほぐして中身を取り出すのですが、殻は固くて人間の手で行うのは大変らしく、打穀機や打穀車を用いて打穀するのです。麦にとってこれはそうとう痛いように見え、これは苦しみの比喩となっています。

そして、そのことは、神様から高貴なものとされた者が、特別な配慮をもって扱われることを示しています。この世にはいのんどやクミンのように、放っておいても大丈夫な人たちがいる一方、イスラエルの民は神の特別な配慮をもって誕生し、愛をもって育てられます。その過程で苦しみに遭うことがあるのですが、たいへんな苦しみさえも恵みとなります、そうして真に価値ある者となっていくのです。…神様は亡国の危機の中、よっぱらって正しい判断が出来ず、まことの神に頼らず死と契約を結んだとうそぶく者たちのために、怒りを抑えながら、それでも救いの道を用意されていたのです。

神は確かにご自分が選んだ民の不信仰に怒り、彼らの罪を厳しく裁かれます。しかし、その裁きは、ご自分のものである収穫物だからこそなされる裁きなのです。それは選びの民を回復させるための裁きで、打穀で象徴される苦しみを与えることがあります。この場合は大国が攻め寄せることによる苦しみを指しています。神はご自身の手でそれをなされます。しかし28節で「穀物はいつまでも打穀して砕くことはない。打穀車の車輪と馬がその上を回っても砕き尽くすことはない。」と言われている通り、神の裁きが決してイスラエルの民を滅亡に至らせるものでないことを明らかにしています。

焼け跡の中からも芽を出す切り株があります。神は弱く不信仰な民に対して厳しい裁きを行われますが、それでもなお、主の御業を見よ、神の深い配慮と導きがあることを信仰者は覚えなければならない、と言われているのです。イザヤは「これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる。」という言葉でこの預言を結んでいます。たとえこの先、再び重大な苦しみが襲ってきたとしても、神の厳しい裁きの向こうにある光を信仰の目で見、み言葉に耳を傾け、希望を捨てずに生き抜いていくことを勧めているのです。

 

イスラエルの民が長いその歴史の中で体験したアッシリアとの戦争の出来事をすぐに現代の私たちにあてはめて、かりにもあなたがこんな苦しみを受けているのは神様の裁きなのです、と言うようなことは絶対にしてはなりません。神様のみこころがどこにあるかは本当にはかりがたいからです、

ただ苦しみに直面している信仰者にとって、神がイスラエルの民に宣告されたことが慰めにならないはずはありません。神様は私たちを産み、育てている農民のようなお方です。だから、たとえ自分の人生が苦しみだけに終始するようにしか思えなかったとしても、そこで絶望するには及びません。神様は皆さんの上にも大きな収穫を期待しておられるのです。主イエスは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ435)と言われています。刈り入れまでまだ4か月もあるのに、イエス様の目には豊哉収穫が見えていたということです。私たち自身がその畑にあたります。いまその畑がみすぼらしいものにしか見えなかったとしても、それがやがて豊かな収穫の実を結ぶようになることを信じて良いのです。

 

(祈り)

イエス・キリストの父であり、救いの源である神様。神様が、救いと魂の平安を求める私たちに、今日のこの礼拝の機会を与えて下さいましたことを感謝申し上げます。

神様、イザヤ書には超大国の軍事力の前に翻弄される人々が出ています。彼らがまことの神様に頼ろうとせず、それどころか死と契約を結び、陰府と協定を結ぶとうそぶいているのです。それは大国との同盟によって生きのびようとすることで、それは今の世界の現実でもあります。私たちも、自分の国が某国に狙われているなんて思うと、侵略をさせないためには悪魔と手を握っても仕方がないと思ってしまうかもしれません。

しかし、神様はそんな人間たちであっても、神様につながれている限り、救いの手を差し出して下さることを約束して下さいました。そして、その約束の中の最大のものがイエス・キリストであったのです。

神様、私たちは平穏無事な状況の中であれば信仰生活を続けていくことが出来ますが、いざ試みが襲ってくるとたちまちに信仰がぐらついてしまいそうな者たちです。そんな信仰の弱い私たちでも、どんな状況にあっても神様を裏切ることがないよう、イエス様によってお支え下さい。

 

主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。