日曜日の礼拝と週日の仕事

日曜日の礼拝と週日の仕事 出エジプト20811、Ⅱテサ3612 2023.7.16

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1341b2、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:54、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:80、説教、祈り、讃美歌:370、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣、後奏

 

 神様からモーセを通して与えられた十戒を学びましょう。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」に引き続く第4の戒めは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。皆さんはこれを聖日厳守の掟として理解されていることと思います。

 日曜日に仕事に行かず、遊びに行くこともしないで、教会に行き礼拝に出席することを毎週続けてゆくのは簡単なことではありません。皆さんが日曜日の朝にはいつも、今日は神様に会いに行くんだと晴れがましい気持ちになって教会に来られるなら良いのですが、必ずしもそうはなっていません。その日に病気になってしまった場合は仕方がありませんが、仕事が立て込んでしまっていて、仕事をするべきか教会に行くべきか悩むことがあります。せっかくの休み、もっと楽しいことをして過ごそうよという悪魔の誘いに乗ってしまうことも、ここにおられる皆さんにはないとしても、どの教会にもたくさんあるわけです。モーセの十戒には、このあと「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」といった戒めが並んでいます。それらの戒めを破っている人はより、第4の戒めを破っている人の方がはるかに多くいます。これは十戒の中でいちばん忘れられがちな戒めかもしれません。

 

 まず安息日の起源からお話しいたしましょう。安息日とはその名の通り、安息の日で、何の心配も苦しみもなく静かに休む日です。創世記の2章1節にこう書いてあります。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福され、聖別された」。神は天地創造の御業を始められてから七日目にあたる日に安息なさいました。…神が「光あれ」と言われて天地創造のお仕事を始められたのは日曜日です。七日目の安息日は土曜日、だから昔、安息日は土曜日でした。これが十戒によって、人間にも与えられたのです。

 「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。安息日という言葉は、ヘブル語で「中止する」という動詞からきたことばです。また、「聖別せよ」の意味は「区別せよ」ということです。安息日は一週間の一日を他の日から「区別」して、労働を「中止」する日なのです。

 安息日を他の日から区別する、……それではこの日だけが尊くて他の日はどうでもよい日なのでしょうか。むろんそうではありません。一週間いずれの日も神様から与えられたかけがえのない日です。しかし、まずこの日を神聖な日として仕事を休み、神を礼拝する日とするのです。そのことによって他の6日も清められます。安息日があってこそ、それ以外の6日間の生活が神の恵みの下にあるようになるのです。

 もしも神様が安息なさらなかったら、…安息日はなく、人間は365日働きづくめになっていたかもしれません。神はご自分の安息に人を招き入れました。人はその日、働くことをやめ、神の安息にあずかります。ですから、もしも人が安息日を無視したとしたら、その罪は何と大きいことでしょう。神があなたに働かないで安息してほしいと願っておられるのに、もしもあなたが働くなら、それは神からいただく安息を受け入れないことになってしまうのです。

 この日に仕事を休むよう命じられているのは、この戒めを聞かされた本人だけではありません。「息子も、娘も」と書いてありますね。一家のあるじは子供にも安息日を守らせなければなりません。「男女の奴隷も」、…自分より下の立場にある人にも休んでもらわなければなりません。企業の責任ある立場にいる人なら、この日、従業員を休ませなければなりません。「家畜」も同じです。牛や馬を働かせている人なら、この日にはくびきをはずして、自由にのびのびとさせなければなりません。「あなたの町の門の中に寄留する人々」、これは在留外国人のことです。外国人労働者を雇うときに、1週間に1日の休みも与えないほど酷使してはならないことが教えられているのです。

 

 安息日に仕事を休み、神を礼拝するのは、神を信じる者たちの特権であり、喜ばしい務めです。ただし安息日を守る戒めは、安息日での礼拝をとうとぶあまり、ふだんの日の労働をそれに比べて価値が低いとみなすものでは決してありません。この点についての間違った理解がキリスト教史上ではたびたびあったようで、ヨーロッパのキリスト教社会で労働の尊厳ということが認められてゆくのは、しっかり調べたわけではありませんが、16世紀にカルヴァンが出て来てからではないかと思われます。

聖書にはどう書いてありますか。9節に「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」と書いてあり、そのあとに「七日目は」と続きます。毎日働かずに遊んでばかり、そんな人に対し、「働きたくない者は、食べてはならない」との言葉が与えられています。そんな人が、安息日にきちんと礼拝を守ったとしても、その人生が祝福されるとは思えません。

 

安息日には休みましょう。それは平日に働くためでもあるのです。平日には働きましょう。それは安息日に休むためです。休むのは働くため、働くのは休むため、安息日をしっかり守る者こそ平日にしっかり働くことが出来るのです。

 

 イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」、ヨハネ5章17節。神が働いておられる、このことの集中的な表現を私たちはもう一度、創世記の天地創造の物語から読み取ることが出来ます。

 創世記1章には、神が光とか天体とか生物を次々に造り出したことが書かれています。そこでは、神が一つの仕事を終えるたびに「神はこれを見て、良しとされた」と書いてあり、これが5回繰り返されています。神が「良しとされた」と言うのは、「満足された」とか「喜びたもうた」と解してかまいません。神は仕事を一つ終えるたびに、満足し、喜ばれました。その中でも最も喜ばれたことが人間の創造でありました。人間が造られたとき、神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」から始まる、他の動物にはない祝福をして下さったのです。

 父なる神はただひとり孤高の世界に鎮座しておられるお方ではなく、働くお方です。生き物であれ、人であれ、ものであれ、それを造り出すお方です。労働を愛するお方です。…神が喜びとし、楽しみとすることは働くことなのです。そうであるとすれば、私たち人間も神に習い、働くことを喜びとすべきではないでしょうか。しかしそうなっていない人が多いですね。

ためしに娯楽について考えてみましょう。人はいったい何をしている時が楽しいのでしょう。この世の中にはたくさんの娯楽がありますが、多くの場合それは消費することです。他人が苦労して造ったものをあっという間に使ってしまうことです。お金がかかる一切の楽しみがそうです。それがすべていけないと言うのではありません。そういうことが必要な時もあるでしょう。ただ、そのことばかりが楽しくて、仕事そのものに喜びを感じることが出来なかったとしたら、それは神の恵みの下にある人の生活とは言えません。私たちが働くことに楽しさを見出し、消費するよりも造ることに喜びを見出すことが出来るなら、それは神に一段と近づくことなのです。

 改めて言うまでもなく、働くことは初めはつらいことのように思えます。人間の罪が労働を苦しいものにしてしまいました(創3:1719)が、働くことの中に生きがいを見出し、日々新しい発見をしてゆくとき、神様の下にある喜びに近づいていくことが出来るのです。……むろんそのことは、病気などで働けない人も除外されません。毎日寝たきりの人だって、神はその人にしか出来ない仕事、例えばお祈りすることを割り当てておられます。

 このように、働く毎日がある時に初めて、本当の安息日の喜びが与えられるのです。

創世記1章31節に「神はお造りになったものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書いてあります。この喜びの上に神の安息の日がありました。神はご自分の仕事を見て喜ばれ、安らぐお方です。その同じ安らぎが私たちにも与えられています。礼拝によって人は、神様のもとにある安息を受け取るのです。

一方、神がこの日お休みになったことから、働きすぎが戒められていることも明らかです。働くことがいくら大切だと言っても、その仕事が社会に悪影響を及ぼしてしまったり、美しい自然を破壊してしまったり、また過労のために死にそうになってしまうとしたら、何のために働くのかということになってしまうでしょう。神が素晴らしい世界を造って喜ばれたその同じ喜びを受け取るためには、私たちの毎日の仕事が、生活が、みこころにかなうものでなければなりません。そのことを知っている人は、安息日のたびごとに神が日ごとの労働の生活を祝福して下さるようにと祈ります。

 

 このように礼拝生活と平日の労働の生活をしっかり組み合わせ、神の恵みのもとに毎日を過ごすことが、教えられているのです。それでは、その中でイエス・キリストはどのような位置におられるのでしょうか。

 父なる神が労働を愛し、かつご自分の仕事を見てやすらぐ神であることはいま申した通りです。神は人間を創造されました。これは天地創造のみわざの中で神がなさった最もとうといお仕事です。ただそれは、ヒトという生物を造ることだけにとどまるものではありません。神はみ子イエス・キリストをこの世に送られ、キリストに似せた新しい人間を創造することに着手なさいました。

 主イエスはユダヤの国でそれまで守られてきた安息日を大胆に改革なさいました。イエス様が安息日に会堂で、片手のなえた人を治した(マルコ3:1~6と並行箇所)時、「安息日に病気を治すのは許されていますか」と言った人がいました。この日には何の仕事もしてはならないはずなのに、病気の治療をして良いのかと尋ねてきたのです。イエス様はこれに対して、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、どちらがよいか(口語訳)」と切り返されました。律法の戒めの条文をただ形式的に守ろうとするだけの人々に向かって、これを積極的に受け入れる生き方を示して、安息日本来の喜びを取り戻して下さったのでした。

 イエス・キリストは金曜日に十字架につけられ、日曜日に復活なさいました。キリスト教会はそれ以来、キリストの復活を記念して安息日を土曜日から日曜日に変更しました。使徒言行録20章7節に、週の初めの日、すなわち日曜日に礼拝が行われたことが書いてあります。この日はまた黙示録1章10節で「主の日」と呼ばれています。そこから日曜日が主日と呼ばれるようになりました。  

死者の中から復活されたイエス・キリストと出会うことが出来る日こそ真の安息日です。教会が日曜日を主の日と定め、礼拝を行うのは、十戒にある安息日の戒めをさらに正しく、深く生かしたものであると言うことが出来るのです。

 私たちが日曜日に教会に行き礼拝を守り続けることは簡単ではなく、皆さんにしても、これまで厳しいたたかいを通った上でここに来られていることと思います。しかし「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という神の命令を正しく受け取り、その志をもって祈り続けるとき、道は必ず開けてきます。日曜日の私たちが祝福されるなら、平日の私たちも祝福されています。私たちの一週間の生活はみな神の創造のわざと安息とにあずかっているのです。

 

(祈り)

恵み深い天の父なる神様。安息日の主、イエス様によって私たちが今ここに集められ、世界中の教会の信徒と共に神様を賛美できますことを感謝申し上げます。

神様、私たちを憐れんで下さい。日曜日の礼拝を守ることが出来なかったり、礼拝で喜びが得られないことが私たちにはあります。そのためふだんの日の暮らしにも喜びがなくなってしまうことが起こります。こんな私たちに、改めて、礼拝のかけがえのない大切さと喜びを教えて下さい。

私たちの教会には礼拝に出席したくても出来ない方がおられます。高齢の方、病気の方には健康を与えて下さい。仕事で猛烈に忙しい方に自由な時間を与えて下さい。この世の楽しみに心を奪われている方に、神様と共にある本当の喜びを与えて下さい。

私たちが礼拝によって心の空洞が満たされることで、ふだんの生活の中でも信仰することの喜びをさらに多くの人に発信する者となることが出来ますように。今みことばにふれて新しくされた私たちが、神と人に仕える新たな第一歩をこの週の歩みの中で始めさせて下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってみ前におささげします。アーメン。