悪霊を追い出すキリスト

悪霊を追い出すキリスト 詩編143712、マタイ8:2834 2023.7.9

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1333b、讃詠:546、交読文:詩編231c6、讃美歌:491、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:74、説教、祈り、讃美歌:533、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

今日は、イエス・キリストが悪霊を追い出した話をいたします。悪霊などと言いますと、これだけ科学文明の発達した現代ではいったい何のことかと思われる方がおられるでしょう。しかし一方、今の日本には、水木しげるの妖怪漫画や安倍晴明を主人公とする陰陽師、アメリカからどんどん入ってくるホラー映画等がありますし、凶悪な犯罪事件を見聞きして、おどろおどろしい世界が身近な所まで入りこんでいるのに驚くことがあるのです。イエス様がなさったことはただの化け物退治ではありません。それは現代的な意義をも持っているのです。

 

前回、主イエスと弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡った出来事を学びました。途中、嵐に見舞われて、弟子たちにとっては命が縮むようでした。たどりついた地は、ガリラヤ湖の東側の地で、聖書巻末の地図を開いてみると、デカポリスという地方があって、その中にガダラという町を見つけることが出来ます。ただ、イエス様の一行はこの町まで行ったのではありません。ガダラ人の住むところに上陸したのです。ガダラ人というのはユダヤ人とは違う異教徒であり異邦人でありました。主イエスの弟子たちにしてみれば、嵐の湖を突き抜けてやっとたどり着いたところが、未知の、異邦人の土地なので、不安に思ったとしてもおかしくありませんが、その不安を裏づけるようなことがすぐに起こったのです。

28節、「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」。悪霊に取りつかれた二人の男が、主イエスの一行の前に立ちはだかっていました。道をふさいでいたのです。

聖書には悪霊に取りつかれた人が多数登場します。多くの場合、これは精神の病気であると考えられています。2000年前には精神の病気のことがわからなかったので、異常な言動をする人がいるとみんな悪霊のせいにされていたのではないかと思われます。

では、そういう観点からこの二人を見てみましょう。彼らは墓場を住まいとしていました。非常に狂暴でした。同じ話が書いてあるマルコやルカの福音書を見ると、もっとすごいことが書いてあって、それまで度々鎖や足枷で縛られたけれど、鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまったということです。衣服を身につけず、昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていたとも書いてあります。

精神科のお医者さんだったら、これらのデータから、この二人がなんの病気だったのか、どういう治療法があるのかということを見つけ出すことが出来るかもしれません。しかしながら、ここには精神の病気だけでは片づけられないことが書いてあるのです。二人はイエス様に向かって「神の子」と叫びました。「神の子、かまわないでくれ」と。いったい精神の病気に苦しむ人が、イエス様を見たとたん「神の子」と叫ぶ、そんなことってあるのでしょうか。それまで二人はイエス様と会ったことがないのに、なぜ神の子だとわかったのでしょうか。……このことは精神の病気ではとうてい説明出来ません。得体の知れない霊の力が、働いていたのです。

 

私たちは悪霊などと言うと、本当にそんなのいるのかなと思ってしまいがちですが、しかし、それでいて、そんなのはないと断言するのも難しいと思います。ホラー映画やオカルトの世界だけではなく、現実の世界の中にも凶悪犯罪や戦争など恐ろしいことがたくさん起こっています。自分自身の心の中にも、闇があります。…現代の人間は、それほど理性的、合理的に生きているわけでもないでしょう。現代の世界自体が病んでいます。もう悪霊について語らなくてよいとは言えないのです。

二人の男は墓場から出て来ました。この当時、人が死ぬと横穴に遺体を安置していました。彼らはそういう所に住んでいました。誰もがいやがる死人の世界に入りこみ、生きている人ではなく、死んだ人を友としていたのです。つまり正常な人間と比べると、さかさまの世界に生きていたわけです。箴言8章36節に「わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者」という言葉があります。彼らはその言葉通りの、死を愛する者です。墓場を住みかとしていたばかりでなく、墓場から出て来ては人々を滅びへと引きずりこもうとしていたのです。主イエスが進んでゆく道に立ちふさがっていたのは、このような輩です。

29節を見て下さい。「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか』」。

ここで、イエス様が神の子と呼ばれていますが、これは注目すべきことです。それまでイエス様を「神の子」と呼んだ人は誰もいません。これは私が新約聖書を調べてみたので確かです。…弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ってイエス様への信仰を告白するのは、マタイ福音書の16章、ずっとあとのことです。そうなると、イエス様がどういうお方なのか、神の子であるということを最初に言葉でもって言い表したのがあつい信仰を持った人ではなくこの二人の男、正確には彼らに取りついた悪霊だったということになります。悪霊の方がイエス様の本当の姿を、人々に先んじてよく知っていたのです。

普通の人間なら、そこに神の子がいると教えられても、ああそうですかとなってしまうかもしれません。しかし悪霊にとってみれば、神の子が来られるというのは大変なことなのです。もうパニックです。彼らはどんな人よりも先に神のみ子の到来を察知します。そこから、「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」という言葉が出て来ます。…それでは「その時」とはいつのことでしょう。「世の終わりの時」、「日本キリスト教会信仰の告白」にある「終わりの日」のことです。

この世界にいつか終わりの日が訪れるというのが聖書の教えです。イエス・キリストが再臨され、神が直接統治なさる世界が来るのです。…このことを悪霊も知っていました。そして恐れていました。それは当然のことで、世の終わりとは自分たちが滅ぼされる時だからです。…ここまでわかれば、悪霊の言葉の意味を解くことが出来るでしょう。彼らはこう言うのです。「神の子よ、あなたが出て来るのは早すぎる。あなたは世の終わりの時に来るはずではなかったのか。それがなぜ、こんなにも早く来て、我々を苦しめるのか」と。

悪霊は、自分たちが神にとうていかなわないということを知っています。だから、神の子という存在に対して、まことに敏感だったのです。このことを私たちも心に深く刻んでおきましょう。イエス様の一行だけではなく、私たちが進もうとする道にも立ちはだかってくるものがあります。それは、暴力だったり、死の恐怖だったり、またどうにもならないような悪の力だったりします。そうした大きな力の前に私たちは立ちすくんで、もうどうにも出来ない、いくら神様を信じていてもだめだろうと思うかもしれません。しかし、どんな悪の力も、神の子を恐れていたということを私たちは忘れてはならないのです。

さて、ここで悪霊が考えちがいをしていたということを皆さんはおわかりになりますか。…「まだ、その時ではないのに」。悪霊は、世の終わりの時はまだはるか先のことで、自分たちは安泰だと思っていました。しかし、それは甘かったのです。世の終わりの時は始まりました。

これはたいへんスケールの大きなことですが、イエス・キリストがこの世界に来られたことによって、世の終わりの時が始まりました。もちろん、それ以来2000年たった現在でも世界は終わっていませんが、それは世の終わりのプロセスが進行中ということでありまして、この世界はいつか必ず終末を迎えます。イエス・キリストによって始まった世界の新しい歴史は、さまざまな紆余曲折を経ながらも、いつの日か、再び主イエスが来られ、新しい世界が完成する時を目指して、今も進行中なのです。それは、主イエスが再び来られなければ、決して終わることのない悩みと悲惨の中に世界はあるからで、世界的規模で行われている善と悪の闘いはいつの日か、必ず決着することになるのです。

 

ここで二人の男にとりついた悪霊は、主イエスの前に、世界の最終的な終末を待たずに降参し、白旗を上げました。彼らは「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願いました。主イエスが「行け」と言われると、悪霊は二人から出て豚の群れの中に入り、崖から落ちてしまいました。

この時代、ユダヤ人の間で豚は汚れた動物とされていました。悪霊は汚れた動物である豚の群れに乗り移ることによって命を永らえようとしたのです。ところが悪霊の力は、悪霊自身が考えるよりはるかに破壊的なものであったらしく、豚はパニックとなり、なだれを打つように崖から湖の中へと落ちてゆきました。豚が死ぬと共に悪霊も滅びたのです。二人の男は正気を取り戻しました。

豚を飼っていた人たちは逃げ出し、これを聞いた町中の人たちが主イエスを見にきました。そしてこの地方から出て行ってもらいたいと頼みました。豚を飼っていた人たちにとって、イエス様がなさったことはたいへんな経済的損失だったのですが、町の人たちも同じで恐れと共にああもったいないと思ってしまったのです。しかし人間の命と豚の命と、どちらが大切でしょう。

マルコとルカの福音書には、悪霊にとりつかれた男のこのあとのことが出ています。彼らは正気に戻りました。そして、主イエスのお供をしたいと申し出ると、むしろ家に帰って神のみわざを語り聞かせよと命じられ、その通り家中、町中にイエス様のことを言い広めたのです。今回の主イエスの旅で、二人の人が救われました。たった二人ではありますが、それはこの地方の人々にとってかけがえのない、大切な出来事となったのです。

 

この話で、悪霊がどんな形をしていたかということは書いてありません。日本や中国には、取りついているものが離れたら狐だったなんて話がありますが、それは空想に過ぎません。二人の男に取りついたのはあくまでも霊ですから、姿や形はないのです。また、悪霊を二人から離れさせる時に、主イエスは呪文を唱えるのでもなく、またお札を貼ったりもしません。そんなわけのわからないもので悪霊を追い出すという発想は、聖書にはないのです。主イエスの武器は「行け」というただ一言のみ言葉でした。このことは私たちに大切なことを教えてくれるでしょう。

19世紀、南ドイツのある教会にブルームハルトという牧師がいました。この人は精神の病で手のつけられなくなった少女の治療のために苦闘を重ね、ついにこれを治したことで知られています。しかし、彼は医者がすることをしたのではなく、まして呪文を唱えたのでも、超能力を行使したのでもありません。ひどいヒステリーになっている娘を訪ね、耳を傾けようとしない娘に聖書の言葉を語り、祈り続けたのです。それが3年間続き、ついに娘は狂気から解放されました。この時、娘が叫んだ言葉が「主イエスはお勝ちになった」という言葉でありました。誰にもまねの出来ない奇跡が行われたのではありません。ただひたすら娘の回復を祈り、とつとつと語る聖書の言葉が驚くべき力を発揮して、ついに少女の精神の病をいやしたのです。

聖書が語る主イエスの悪霊退治は決して魔術ではありません。

主イエスに従う人のまわりで、悪霊が暗躍している可能性があります。しかし私たちは迷信を信じているのではありません。私たちのたたかいの準備は祈ることです。武器は主イエスから与えられたみ言葉そのものです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。私たちの生きている世界はなんと病んでいることでしょう。不満がたまって、自分の中に閉じこもったり、逆に人に当たりちらしたりします。気が変になりそうになる時があります。実際に、精神を病む人も出ています。私たちのよく知っている人の中にもそういう人がいるのは、本当に悲しいことです。まじめな人、純粋な人ほどそうなりやすい、それほどに社会全体に矛盾があり、大きな罪がおおっているのです。

神様、どうか病んでいる心に、あなたからの慰めが与えられますように。矛盾だらけのこの世界と私たちですが、悪霊よりも何よりも強い神のみ子イエス。キリストの勝利に、私たちがあずかることが出来ますようにとお願いいたします。私たちはふだん、自分の無力を嘆くことが多いものですが、与えられた神様のみ言葉によって生かされることで力が与えられ、この世を覆う深い闇から救い出して下さい。

愛する家族を失った友と家族の上に主の慰めを与えて下さい。

 

とうとき主イエス・キリストのみ名を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。