嵐を静める

嵐を静める    詩編1072332、マタイ8:2327    2023.7.2

 

イエス・キリストと弟子たちが舟に乗り込んで渡ってゆかれたのは、ガリラヤ湖です。東西が13キロ、南北が21キロありまして、日本の琵琶湖の4分の1ほどの大きさの湖です。私は30年ほど前、貯金をはたいてこの湖まで行ってきました。その日は快晴で、遊覧船は鏡のような湖面をすべるように走って行きました。この湖で採れる「セントピーターフィッシュ、聖ペトロの魚」のフライ料理も忘れがたい味で、楽しい一日でした。聖ペトロの魚はティラピアという名前で日本でも手に入ります。いちど買ってみたことがあったのですが、焼き魚にしてみたところ骨があまりにも多くて、食べにくかったです。

さて、この小さな湖が嵐に襲われることが本当にあるのでしょうか。遊覧船に乗っている間は、この湖で嵐なんて想像も出来ませんでしたが。長年ガリラヤ地方で過ごした人がこんなことを書いていました。「ある時、旅行者の一群がガリラヤ湖の岸辺に立ち、小さな湖を見て、聖書に書いてあるような嵐が本当に起きるなんて信じられないと言った。すると、その言葉が終わらないうちに嵐が吹き始め、20分あとには湖に白波が立った。大波が押し寄せてきたので、岸から180メートル離れたところに立っていた旅行者たちは、水しぶきを避けるために避難しなければならなかった」と。

ガリラヤ湖の湖面は海面下210メートルという深いところにあり、また湖の周囲は5600メートルの高さの山々で囲まれています。時おり、山から激しい風が吹いてきて、激しい嵐を起こすのだそうです。それは昔も今も変わりありません。いつ嵐が来るのかわかりませんから、漁師さんたちも、よほど天候の安定した日でなければ、湖の中心部まで乗り出すことはないということです。

 

その日、主イエスは弟子たちに向こう岸に行くように命じられました。湖の向こう岸はユダヤ人とは違う異邦人の地でありましたが、主はその人たちにも福音を伝えなければならないと念じておられたのです。主イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従いました。船出してしばらくの間は、まったく順調だったのでしょう。主イエスは眠ってしまわれました。

突然、湖に激しい嵐が起こって、舟が波にのまれそうになってしまいました。弟子たちのうちの少なくとも4人、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはもともとガリラヤ湖で働いていた漁師だったので、この湖については知りつくしていました。これは大変なことになったと気がついたはずです。もちろん彼らとしても、舟が転覆しないよう手を尽くしたはずですが、もはや自分たちの力ではどうにもならないところまで来ていました。状況は絶望的でした。

そんな中、弟子たちはやっと、主イエスの存在に気がつきました。イエス様はなんと眠っておられたのです。弟子たちはおそらくこの時まで、イエス様を単なる乗客の一人としか思っていなかったのでしょう。舟が転覆しそうになって初めてイエス様がおられることに気がついて、見てみると眠っておられたのです。皆さんは、こんな重大な時になぜだと思われますか。昔の学者の中には、「イエス様は弟子たちの信仰をテストするために狸寝入りしておられたのだろう」とかんぐる人がいましたが、主がそれほど人が悪い方だとは考えにくいです。

素直に考えてみましょう。主イエスが嵐が吹き荒れる中、寝入っておられたのは、くたびれてしまったからということになります。イエス様はその日まで、あっちでお話ししたかと思えば、こちらでは病気を治すといったぐあいで、すっかり疲れてしまわれたのです。人々の魂を導く仕事は、決して楽なものではありません。

弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。これは主に対するまったき信頼を表わしているのでしょうか。そうとは言い切れません。イエス様はみんなで舟に乗りこむ時に、湖の向こう岸に行くよう命じられたのです。イエス様には、舟は必ず向こう岸に着くことがわかっていたのですが、その思いは弟子たちには共有されませんでした。

私たちは、主イエスの眠りについている姿から学ぶことが多いと思います。それは一切を神にゆだねた平安です。人は神と共にあるなら、何が起きていても心を落ち着けていることが出来るはずです。しかし、そういうことがわからない弟子たちは、主イエスにとりすがります。その弟子たちに対し、主は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言って、叱りました。弟子たちの中にあるのは決してしっかりした信仰のあらわれではなかったのです。イエス様がおられないのならいざ知らず、現に一緒におられるのに、自分たちが滅びてしまうと思ってしまったのですから、私は、自分のことを差し置いて厳しいことを言うようですが、それは信仰が薄いからと言わざるをえません。

しかしながら、主イエスは弟子たちの願いを斥けられたのではありません。主は、弟子たちの臆病と不信仰に対して、怒られましたが、弟子たちの、困ったときの神だのみと言うか、溺れる者はわらをもつかむと言うか、そんなひ弱な信仰の表明にもおこたえになられ、嵐の中から彼らを救われたのです。そのことは私たちの、苦しみに直面してあわてふためいた、思いと言葉の足りない祈りをも、神様が聞いて下さることを教えてくれるものではないでしょうか。私たちの祈りに対しても、主は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言っておられるのです。

 

それでは、主イエスが起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になったというのは、どう考えれば良いのでしょうか。27節には人々が驚いたさまが書いてあります。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。弟子たちが驚いたのは当然ですが、ここで人々というのは、弟子たちというよりそれ以外の人たち、すなわち岸から舟を見ていた人々である可能性が高いです。人々はそれまで、イエス様がふしぎな力で病気を直したりするのを見てきました。しかし、風や湖まで従わせるというのは想像もつかないことだったでしょう。

イエス・キリストのこのような奇跡の話を聞いて、だからキリスト教は信じられないという人がいます。確かにこれは常識では全く理解出来ないことです。しかし奇跡の話が書いてあるからキリスト教は信じられないという人が、かりに本当に奇跡を目の前で見たとしても、そこで信仰を持つことが出来るかと言うとそうではないでしょう。弟子たちも、この奇跡を見た人たちも、イエス様は何とすごいお方かと思ったわけですが、それがすぐに信仰に結びついたとは言えません。本当の信仰に向かうためにはさらに一段階、先に進むことが必要です。

ところで現代人は、自然の中には自然法則が働いているので、いくらイエス様でも自然法則に反したことは出来ないと考えがちです。しかし、自然法則とは何でしょう。神様とは無関係に独立した自然法則というのがあって、自然界はその法則によって機械的に動いているのでしょうか。そうではありません。神が宇宙を創造し、天地万物を造られたからには、神は自然法則の上に立ち、自然法則を造られた方ということにならないでしょうか。イエス・キリストは神をあらわした方、いや神そのものであられます。ですから、自然界の上に君臨なさる方でもあるのです。

イエス様にとって、風や湖を従わせるのはまだ簡単なことで、人間の心に巣食う闇を取り除く方がずっと難しかったはずです。しかし主は、それを最後まで、十字架の死に至るまでやりとげられました。本当にすごいのは主イエスのふしぎな力ではなく、これほどのお方が人間のために、この私たちのために、尊い命を捧げて下さったというところにあります。神のまことの愛を悟った人にとって、そのことは嵐を静める以上の奇跡です。

 

さて、このお話は、イエス・キリストに従う人生とは何かということを教えるものとして、古来クリスチャンにとって尊ばれてきました。

アメリカという国は今でこそ鯨を食べるななどと言っていますが、19世紀には捕鯨がけっこう盛んでして、当時捕鯨で栄えたある港町に、面白い教会が残っています。そこの教会では、説教壇が信徒たちの前に突き出しています。ちょうど船の形をしているんですね。牧師は船のへさきに立って説教するのです。なぜ、そんな突拍子もないことをするのか、おわかりになりますか。そこには、教会に集まるのは舟に乗ることと同じだという考え方があるのです。

昔から、主イエスを信じ、主イエスに従って行こうとした人たちは、主が弟子たちに命じて、ご自分と共に湖の向こう岸に向かわせたところにとりわけ注目してきました。そして信仰を持つということは、主と共に、同じ舟に乗ることだという理解に達したのです。

みなさんはこの教会堂に入って椅子に座っています。この椅子は、いわば舟の座席のようなものです。ここで礼拝するのは、主イエスと一緒に未知の世界に向かって船旅をする体験なのです。

この舟は、何が起こってもびくともしない舟でしょうか。そんなことはありません。大船に乗った気持ちで安心していることは出来ません。嵐が襲って来ることがあります。…それが一人ひとり、それぞれの人生でぶつかる苦しみである時、教会はできる限り、それを教会全体の問題として一緒にたたかっていくべきです。…また、教会そのものを吹き飛ばしてしまおうとする嵐が来る場合もあります。サタンにとっては、教会こそが目の上のたんこぶ、頭痛の種、最大の敵ですから、ほかのすべてを放っておいても教会をつぶそうとするものです。

万事平穏で順風満帆、困難なことが何も起きない教会なんて、この世にはありません。困難な問題が起きることはもちろん望ましいことではなく、これを解決するためにたいへんな苦労をするものですが、すべてがうまく行っているように見える時、深淵が大きな口を開けて待ちかまえていることがよくあります。これに呑み込まれてしまった結果、歴史の中で消えてしまった教会はいくらもあります。

嵐にあって、ひっくりかえりそうになるのは、とどのつまり、その舟に乗っている人間の信仰が薄く、神様のことを放っておいてそれ以外のことに心を吸い取られているからです。順境の時はしっかり落ち着いて、平安の内にあっても、何か起きたらすぐに取り乱してしまうような人間ばかりが集まった教会なら、嵐が襲って来た時にたちまち転覆してしまうでしょう。……けれども、私たちにとって何よりありがたいことは、嵐の中を木の葉のようにただよう舟に主イエスがおられるということです。私たちはみな弱く、何か大きな困難が襲ってきた時に信仰をまっとう出来るかどうかわかりませんが、しかし、そんな私たちのところにもイエス様がおらます。イエス様は私たちがパニックに陥っている時、眠っておられるかもしれません。そんな中でも全き平安の中におられるのではないでしょうか。しかし私たちが呼びかける時、私たちを救い出すことで天にある平安を分け与えて下さいます。だから、私たちが乗った舟、教会はたとえ嵐の吹きすさぶ海の中にあったとしても、前方に輝く希望に向かって進んで行くことが出来るのです。

私たちがみんな、教会という舟に導き入れられたことを素直に喜びましょう。この中に主イエスがおられることを覚え、困難にぶつかって初めてあわてふためくのではなく、ふだんからこの方を自分たちの魂と体の導き主として従ってゆこうではありませんか。

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。自分の能力のなさ、弱さや肉体の衰えにうろたえたじろいでしまう、私たちの小さな信仰を顧みて下さい。私たちはしばしば人生の嵐の前におびえてしまい、不平不満を他の人にぶつけたり、つかのまの楽しみに逃げ込んでしまったりします。こんな私たちでも、教会の兄弟姉妹と共に自分たちの人生を希望に向かって切り開いていくことが出来ますように。主イエスが共におられること、主イエスがどんな状況にあっても平安の内におられることを何より確かな心の支えにしながら、私たちの上に教会を中心とする生活をもたらして下さい。とりわけ今厳しい闘いの中にある友のことを覚えます。神様が、その平安をもって支えて下さいますようお願いします。とうとき主のみ名によって、この祈りをみ前にお捧げします。アーメン。