試みを経た石、堅く据えられた礎

試みを経た石、堅く据えられた礎 イザヤ281418、Ⅰペトロ238 2023.6.25

(順序)

前奏、招詞:詩編1331cd、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:Ⅱ-80、説教、祈り、讃美歌:257、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

イザヤ書を読むのは2か月ぶりなので、少し、前のことを思い出して下さい。

イザヤ書は紀元前8世紀に現れた預言者イザヤが神から頂いた言葉を中心に書きとめたものです。その1章から24章までの間、イザヤはその時代の人々に対し、今、この時をどう生きるべきかを語っています。ところが24章に入るとそれまでとは違って、世の終わりの日に起こる出来事を語るようになります。それは27章まで続いて、イザヤの黙示録と呼ばれていますが、それが28章になると、再び元のスタイルに戻っています。そこには超大国の脅威の前に木の葉のように揺れ動いているユダの国の人々に向けて語られた言葉があります。

 

 紀元前8世紀のパレスチナで、イスラエル民族はいまの朝鮮半島のように二つの国に分裂していました。北の王国をイスラエル、南の王国をユダと言いますが、北のイスラエルは紀元前722年に超大国アッシリアによって滅ぼされ、住民はアッシリアに連れ去られてしまいました。イスラエル民族は12の部族によって構成されていましたが、これで北の王国にいた10部族が歴史から消えてしまったことになります。…ちょっと想像してみて下さい。かりに日本が戦争に負けて西日本だけが残り、東日本の人たちが某国に連れ去られてゆくえ知らずになったとしたら…。イスラエルの民にとってたいへんな出来事をイザヤは同時代人として体験しています。

 こうして、わずかに残った南の王国ユダの領土はエルサレムとその周辺だけ、領地の大きさは日本で言えば四国ぐらいでしょうか。超大国アッシリアの脅威が依然としてこの国に重くのしかかっています。国難の時にあたって、ユダの人々は何より神に立ち帰らなければなりません。しかし、身分の高い人から低い人まで、そのような動きは見られず、それよりは、この世の力に望みをかけようとする傾向の方が強かったのです、そうした危機的な時代の中、イザヤは言い続けました。「私たちの兄弟イスラエルは、まことの神から離れていつわりの神々に走り、自分たちの知恵に望みをかけたのでアッシリアに滅ぼされてしまったではないか。同じことになってはならない。あなたがたこそ、神に立ち帰れ」と。

しかし、実際はどうだったか。少し前になりますが、28章7節は書いています。「彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき、濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき、ぶどう酒に飲まれてしまう」。その結果は、続けて読んでみます。「濃い酒のゆえに迷い、幻を見るとき、よろめき、裁きを下すとき、つまずく」。

聖書は酒をいっさい飲むなとは教えてはいません。イエス様だって酒を飲まれたのですから。しかし、国民の信仰生活を導く祭司と預言者が酒に飲まれてしまい、裁きを下すときつまずくというのは尋常なことではありません。この人たちは酒のために正常な判断が出来ません。それなのに、まことの預言者であるイザヤに対し、何を言っているか、9節に彼らの言葉があります。「誰に知るべきことを教え、お告げを説き明そうとするのか。乳離れした子にか、乳房を離れた幼子か」。

皆さん、これがイザヤをばかにしている言葉だとわかりますか。「イザヤよ、誰に向かって語っているのか。赤ん坊が相手なのか」と。イザヤが語っていることはまったく幼稚なことだと言うのです。イザヤ、お前が神様のことをどれだけわかっているというんだ。青臭いことを言うな、というわけです。このようにイザヤをばかにした人たちが14節で「嘲る者」として再び登場します。

嘲る者というのは、エルサレムにいてユダの人々を治めていた人たちです。彼らは言いました。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」

我々は死と契約を結び、陰府と協定している、本当にこの通りのことを言ったのでしょうか。いくら悪人でも口では美しい言葉をならべるものだと思うのですが、しかしイザヤがそう言っている以上、この通りだった可能性もあります。   

死と契約を結び、陰府と協定しているとは、隣国エジプトと政治的な同盟関係を結んだことを指しています。兄弟国家であるイスラエルを滅ぼしたアッシリアは、ユダの国も虎視眈々と狙っていたのです。そのような状況で、自分の国をアッシリアから守るためにどうしたら良いのか、ユダの国を支配していた人たちは、イザヤの、神に立ち帰れという警告を無視して、西の大国エジプトと同盟することを選んだのです。そうすれば「洪水がみなぎり溢れても」、水害のことを言っているのではありません。アッシリアが攻めてきたとしても大丈夫、いざという時にはエジプトが守ってくれるから安全だと考えたのです。

しかし、それはむなしい夢、死と契約を結び、陰府と協定するにひとしいものでした。実際、学者が言うところでは、この時代のエジプトの宗教では死がたいへんに大きな意味を持っており、死の世界に君臨するとされる神が崇拝され、また死者の霊を呼び出すことが盛んに行われていたということです。だから、ユダの人々がそうした信仰に引っ張られていたということも十分に考えられるのです。

北の王国イスラエルは紀元前10世紀の建国当初、国民がエルサレムの神殿に心を寄せることがないよう、金の子牛を造って「これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と言って国民に礼拝させました(列王上1228)。

そして、そうした信仰のもと、アッシリアに取り入ることで国を守ろうとし、その結果アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。そして今、ユダの方でもまことの神に対する信仰が薄れ、エジプトの力に助けを求めるとともに、その神々にも心惹かれるようになってしまったようです。

いつの時代にも、このようなことは起こります。一度はまことの神を信じ、聖書を勉強した人でも、やがて信仰がマンネリ化し、もう神様のことはわかったとそれ以上先に進まなくなることがあります。まして戦争の危険が迫り、自分の国を巡る状況が厳しさを増している状況では神様のことはあと回し、力の強い国に身を任せて自分の国を守っていこうとすることが多いです。しかし、それで本当に良いのでしょうか。神様が望んでいるのは、そんなことなのでしょうか。

 

アッシリアが恐ろしいからエジプトに頼るしかないだろう、これはいっけん合理的な判断のように見えるかもしれませんが、神様をないがしろにしてしまった以上、その先には滅びに通じる門が待ちかまえています。ユダの国がこのような状況にある中、神から与えられた言葉がこれです。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」

シオンとはエルサレムを指します。そこに据えられる石とは何かということになりますが、私たちはこの句が出て来る新約聖書の言葉を通して、その答えを見つけることが出来るでしょう。第一ペトロ書2章4節、「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」、石が出て来ますね。そして「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」。イエス・キリストが現われます。そうしてさらに6節、「聖書に、こう書いてあるからです。『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』」

神がエルサレムに据えると言われる石とはイエス・キリストをおいて他にありません。ますます厳しさを増す国際情勢の中で右往左往し、こちらの大国に攻められたら、あちらの大国につこうということばかり考えて、信仰のことがおろそかになっている人々に対し、神はご自分こそ世界の主であって、歴史に介入されることを告げられました。それがイエス・キリスト、救い主の到来なのです。お前たちはアッシリアに降伏することでもなく、またエジプトに頼るのでもなく、まず、救い主である石に信頼すべきであると言われたことになります。

もちろん、この時、イエス様の名前は教えられていませんし、イエス様の到来までは700年もの長い時を待たなければなりません。しかしながら、ここで明らかにされた神の言葉を信じない人と、信じて待つ人との間には天と地ほどの違いがあります。の言葉を信じない人はただこの世の強い力に頼って、それに流されてしまうだけですが、信じて待つ人は自分の国がたとえどんな苦境にあっても、望みを捨てずに生きていくことが出来るのです。

この石はまず、試みを経た石だと言われます。同じ石でも、あるものは灼熱の太陽に焼かれたり、水に流されたりすると崩れて元の形を失っていきますが、神がシオンに据えられるのはどんな試練にあっても崩れることがない石です。それがあなたがたの土台となるのだということです。実際、イエス様は、十字架の死にいたるまでサタンのあらゆる試みに耐えて、これに勝利されています。

この石はまた「堅く据えられた」と言われます。絶対に動かされないということです。嵐にあっても何が起こっても流されることはありまんが、それは神が御自ら据えられたからです。人間が考え出したものは、それがどれほど絶対的なものに見えたとしても永遠ではありません。そこには賞味期限と消費期限があるのです。しかし神が据えられたものにそのような限界はありません。それは礎としての貴い隅の石です。…貴いという言葉で、それがほかにはないもの、この世に二つとないものであることを示しています。隅の石というのは建築にあたって土台を構成する石のこと、それが人間の土台にたとえられます。人がその人生においてもっとも頼りにすべきもの、単に個人の内面ばかりでなく国のあり方をも定めてしまうもの、それは神がシオンに据える石、救い主であると。…そして「信ずる者は慌てることはない」、どれほど厳しい状況にあろうが、それこそ戦争が迫っているようなことがあっても、まことの信仰に生きる者は、状況にただ流されてしまうようなことはないのです。

 

それでは17節と18節は何を教えているのでしょうか。「わたしは正義を計り縄とし、恵みの業を分銅とする。」計り縄は、今でいえば巻き尺のようなものでしょうか。建築工事の責任者が、その土地を計り、確認するために使われていた物差しのようなものです。神は建築工事をするように、この世界を立て直されます。

「雹は欺きという避け所を滅ぼし、水は隠れがを押し流す。」人間が神を避けて行くところは欺きであり、隠れがですが、神はそれを押し流してしまわれます。

「お前たちが死と結んだ契約は取り消され、陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき、お前たちは、それに踏みにじられる。」

 死と結んだ契約、陰府と定めた協定、それはエジプトと同盟を結ぶことでしたが、そんなものは全く役に立たないということです。そもそも神はイスラエルの民がまことの神から離れて行くのを見て怒って、アッシリアに力を与え、この民を罰せられたのですから、この民がそこのところを見ず、ただエジプトに頼って自分の安全を計ろうとするのは、まるで木を見て森を見ないようなもの、根本的解決にはなりません。洪水がみなぎり、溢れるときとは、アッシリアなどの大国が攻め寄せる時のことです。信ずる者は慌てることがないと言いましたが、まさに、信じない者は慌てる、慌てるでは言葉が足りませんね、パニックになってしまうのです。

 

 その後の歴史を見ると、ユダヤ人たちがイザヤの預言を聞こうとしなかったことがわかります。まことの神の助けを求めず、エジプトとの同盟を頼りにしたのです。確かに彼らが置かれた現実はたいへんに厳しいです。神様が目に見えるわけではありませんし、一つの石がシオンに据えられる、それが救いをもたらすと言われても、すぐそれを信じるというふうにはなりません。ユダの国はその後、いろいろ複雑な経過をたどることになりますが、紀元前586年に至ってバビロニアによって滅ぼされてしまいます。神が与えて下さるという石のことを人々が信じることはなく、神の約束は捨てられてしまったのです。その数百年ののち、ついにこの世に現れたイエス・キリストが十字架につけられることで、この石は再び捨てられてしまうことになります。

 しかしペトロの手紙で言われているように「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のです。十字架を取り囲んでいる人々の多くがイエス・キリストをあざけりました。しかしその時、わずかではありますがイエス様を裏切らなかった人がおり、またイエス様を裏切ったり、十字架刑に賛成したけれどあとで悔い改めた人が出て、そこからイエス様を信じる群れ、教会が誕生したのです。

 

 今日の箇所で、神はイザヤを通し、神によって揺るぎなく据えられた土台であるイエス・キリストを信じることを命じられています。ただこれは、私たちにとっても、言うはやすく行なうは難しいことに違いありません。

 第二次世界大戦の時代、戦乱の中で世界のキリスト者はどのような態度を取り、何を祈っていたのでしょうか。イエス・キリストへの信仰を貫いていったのか、信仰を後回しにして国の軍事力や経済力・同盟の力に頼ったのか、…中には戦争で敵国の人々を大量に殺しながら、これも神が命じていることだと自分に言い聞かせた人もいるでしょう。実際にその場にいたら、どうしてよいかわからなくて立ち尽くすばかりのことだったでしょうから、私も、単純に、イエス様を信じたらすべてがうまくいきますなんて約束することは出来ません。

 戦争以外でもこうしたことはあらゆる状況の中で起こります。誰もがこちらを選ぶかあちらを選ぶか、神に従うかサタンの声に従うか、苦渋の決断を迫られることがあります。私たちも昔のユダの人々のように、神様に仕えていてもそれが意味あることとは思えず、この世で力があるものに頼って自分の身の安全を計ろうとすることがあるかもしれません。しかし、そうこうしているうちに、自分がしていることが実は死と契約を結んだり、陰府と協定していることだと気がつくことがあるかもしれないので要注意です。

 試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅の石であるイエス・キリストを信じる者はあわてることがない、その言葉通りのことが私たちの人生の上で実現するよう、信仰の闘いを支えて下さるイエス・キリストの導きを切に願います。

 

(祈り)

イエス・キリストの父であり、救いの源である神様。救いと魂の安らぎを求める私たちに、今日この礼拝の機会を与えて下さいましたことを感謝申し上げます。

神様、いま私たちはイザヤ書から、超大国の軍事力の前に翻弄される人々のことを見てきました。超大国からの軍事的脅威にさらされているというまことに厳しい状況の中で、信仰が形骸化し、ほかの神々に頼ることさえしそうになる人々、そこに書いてあることは、今も世界の現実です。日本の現実でもあります。いま日本の国も今後、平和国家としての歩みを続けることが出来るのか、重大な岐路に立っています。

神様、私たちの上に今後、どのような状況が訪れても、神様をないがしろにして、強いものに頼って自分の身の安全をはかったりすることが決してありませんように。信仰の弱い私たちをお支え下さい。

神様の愛する平和を語り、実現しようとしている全国の教会に神様の力と知恵から来る言葉を与え、その中にこの広島長束教会も入れて下さい。今日は午後、あじさいコンサートが開かれます。私たちがどうか音楽を通しても、神様をたたえていく者であり続けますように。

 

主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。